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2008年2月24日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (56)

うむう、まだ「インランド・エンパイア」の国内版DVDを観れてない、休日出勤中の大山崎です(笑)。どっかでタイプスタンプを国内版DVDのものに変えるか、「スクリプト」のカット番号に変えるかしたいんですけどね。もちっと暇ができたら、一挙にやるかなあ。それまでは、当面、北米版DVDのタイムスタンプのまんま行きます。

……ってな話はおいといて。んでは、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続きをば。今回は(2:01:35)から(2:05:17)までを、煮たり焼いたりしてみるです。

このシークエンスにおいて提示されているものをざっくり言い表すなら、老人たちによる「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」への「介入」である。具体的な映像の舞台は「バルト海地方のどこか」にある「家」の中であり、「ロスト・ガール」を挟んで四人の老人たちとピオトルケとの会話を中心にシークエンスは進む。

このシークエンスを「インランド・エンパイア」全体のなかで位置付けるとき、いろいろな「連鎖」のうえで捉えることが可能であるように思われる。もし仮に「時系列」的に理解するなら、(1:53:57)から(1:56:32)までのシークエンスとの「継続性」をみてとることが可能だ。つまり、老人とピオトルケによる「ファントム」の捜索が失敗に終わったその後、という見方である。あるいは編集面からみた場合、前回取り上げた「建物」のシーン(2:01:03)からこのシークエンスの頭まで、リンチ作曲の「Woods Variation」がサウンド・ブリッジとして流されており、この二つのシークエンスが関係性をもって理解されるべきものであることが明示されている。すなわち、「ファントム」の姿が「アメリカ」「ポーランド」「バルト海地方」のいずれからも消えてしまったことが、老人たちによる「介入」を発生させるという「連鎖」の上にあるわけだ。

しかし、その一方で、発生している事象を中心にしてみた場合、スー=ニッキーと「ファントム」の邂逅シーン(1:59:27)と「対置」関係にあるものとして、このシークエンスを捉えることが可能だろう。このシークエンスで老人たちがピオトルケに手渡す「ピストル=物語展開の要請」は、「スミシーの家」の隣家の裏庭で「ファントム」がスー=ニッキーにもたらす「スクリュー・ドライヴァー=心理展開の要請」と対になるものだからだ。それは、そのまま「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」を「コントロールするもの」としての「ファントム」と「老人たち=ウサギたち」の「対比」につながるとともに、そうした「もの」を受け取る側がスー=ニッキーとピオトルケであることの「対置性」……「女性と男性」「妻と夫」という「対置性」を読み取ることも、あるいは可能かもしれない。

というような作品内におけるこのシークエンスの位置付けを押さえたうえで、何はともあれ、まずはこのシークエンスにおける台詞を(ちょっと長いが)ひととおり引用しておくことにする。

ロスト・ガール: There's someone there... I have to tell you... There's someone...
老人2: Do you recognize her?
ピオトルケ: I don't see her...
老人2: You understand she sent for you?
ロスト・ガール: I don't know where I am...
ピオトルケ: I hear her now...
老人1: Do you see her?
ピオトルケ: (ロスト・ガールの方を見ながら) No.
老人3: It was...  red...
老人2: (ピオトルケの方を向いて) You work for someone?
ピオトルケ: (ロスト・ガールから老人2に視線を移して) No.
老人2: (ピオトルケを見つつ) This is the one who she spoke of.
ピオトルケ: The one I work for.
老人2: So... you understand.
老人4: The horse was taken... to the well...
老人2: Take the pistol...
老人1: (ピオトルケに) Let's go!
老人?: (画面外から) Right away! It's after midnight!

「Rabbitsの部屋」におけるウサギたちの会話ほどではないにせよ、彼らの会話も少しくコンテキストを混乱させているようだ(我々が現実に交わす会話は、ひょっとしたらもっと混乱しているのかもしれないが)。整理する意味で、とりあえずリニアにつながっていると思われる会話を抜き出すとすれば、まず挙げられるのが……

ロスト・ガール: There's someone there... I have to tell you... There's someone...
老人2: (ピオトルケの方を向いて) You work for someone?
ピオトルケ: (ロスト・ガールから老人2に視線を移して) No.
老人2: (ピオトルケを見つつ) This is the one who she spoke of.
ピオトルケ: The one I work for.
老人2: So... you understand.

……という部分である。このコンテキストにおいて老人2が示唆するものを端的にいうなら、「誰かがそこにいた」と「ロスト・ガール」が言うその「誰か」とはピオトルケを「使役」していたものとイコールであり、つまりは「ファントム」であるということだ。示唆を受けたピオトルケは、それを理解する。ピオトルケの理解した様子を見てとって……

老人4: The horse was taken... to the well...

……という発言がなされる。以前にも述べたように、この発言は「サーカス」の場面で「馬とピオトルケ」が並立している映像(1:46:41)を補完するものだ。井戸に連れてこられた「馬=ピオトルケ」がそこで水を飲むかどうかは任意であり、彼が「動物=自律性を保持しながら、他者のコントロールを受ける存在」であることを、その「任意性」が明確に表しているといえる。

とことで「ロスト・ガール」は、いったいどこで「誰か=ファントム」がいることを認識したのか? 「誰かが"そこ"にいる」という「そこ」とはいったいどこなのか? その答はおそらく得られない。以下の台詞が表すように、彼女は既に「時間」に対する見当識だけでなく、「場所」に対する見当識をも失っているからだ。

ロスト・ガール: I don't know where I am...

これは明白なリフレインである。我々は、他の登場人物たちによって、同じような「場所に対する見当識の失当」を表す発言がなされるのを何度も耳にしたはずだ。

顔のない女性: Where am I? I'm afraid. I'm afraid......(0:02:54)
訪問者1: Oh. Where was I? (0:16:08)
スー(A): (顔を歪めて) Where am I? I'm afraid! (笑う)(2:07:39)

「ファントム=映画の魔」に魅入られ「同一化=感情移入」を果たした末に、彼女たちは自分のいる「場所」や「時間」を見失う。「映画」という「感情移入装置」に身を委ねるということは、そうした一時の「混乱」を享受することと同義である。受容者が感情移入した結果、まったくの他者である「登場人物」に「成り切る」……行ったこともないような「場所」や異なった「時代」に住む、ひょっとしたら「性別」すら違う人物に同一化する……それは見方によっては、受容者が意図的に「自己同一性」を放棄し、自らのアイデンティティを「混乱」させることに他ならない。それは見方によっては相当に「胡散臭い」ことであり、それに対する無意識の抵抗が「こわいわ(I'm afraid)」という言葉に表されているといえる。だが、同じ言葉をスー(A)が笑いながら発することに表されるように、保証された「安全」を前提にして、我々はそうした「恐怖」すらをも楽しむのだ……あたかも、「精神的なジェット・コースター」を楽しむかのように。

(長くなったんで、続いたりなんかする)

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