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2008年2月18日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (55)

毎度毎度の「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」についてなど。今回は(1:59:27)から(2:01:35)まで。

この部分における直前のシークエンスからの「イメージの連鎖」は非常にわかりやすく、「ナラティヴなもの」と呼びたくなるような具象的な「因果律」を備えているとすらいえる……「訪問者2」に示唆されて、スー=ニッキーが隣家に「クリンプ=ファントム」を訪ねるわけなのだから。あるいは、リンチ作品における「半具象性」の表れと捉えることも可能なのかもしれない。

ともあれ、このシークエンスは、まず「Mr.Kのオフィス」で話すスーのカットで始まる。

スー: (沈黙の後) It was a... funny name. They was called "Krimp."

台詞としてはこれのみで、ほとんどブリッジに近い短いカットだが、一瞬でもここで「効率的な物語進行」のイメージが差し挟まれることは、「訪問者2」による「来訪」によって「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語」が回復したことを表すものといえるだろう。

それに続いて提示されるのは、スー=ニッキーと「ファントム」の邂逅の具体的映像である。「ファントム」が「ストリート」から「家」のレベルに、それも「スミシーの家」の「隣家」に達していることが明確に提示され、「ポーランド・サイド」の「家」から始まった「ファントムの侵入」が最終目的地に近づきつつあることも明らかになる。その場所が隣家の「裏庭」であることは、この邂逅が「公的なもの」と「私的なもの」の狭間にあること、あるいは「外界」と「内面」の境界線にあること、「普遍」と「個別例」の中間地点にあることを示している。このシークエンスによって表されるものも、これまた「個別例」が「普遍」のなかに呑み込まれ「抽象化」していく過程であると捉えられることを考えると、この場所の設定自体にも意味があるといえるだろう。

このシークエンスにおけるスー=ニッキーの服装が、以降の「ハリウッド・ブルバード」におけるシークエンスのものと同一であることをまず指摘しておきたい(全編をとおした「Mr.Kのオフィス」での服装とも同一である)。この服装時のスー=ニッキー関連のシークエンスは基本的に「ストリート」に属するものであり、このシークエンスで彼女がこの服を着用しているのは、「家」から「ストリート」への移行の明らかな兆候である。それを裏付けるように、これ以降(2:06:24)から始まるスー・ニッキーに関連するシークエンスは、しばらくの間「ストリート」に属したものになる。つまり、「ロスト・ガール」と同じく、スー=ニッキーもまた、「ファントム」との邂逅によって「ストリート」に降りていくことになるのだ。

スーあるいはニッキーを「ストリート」に誘導するという点で、「ファントム」と「ロコモーション・ガール」は「共通項」をもつのはいうまでもないだろう。ただし異なっているのは、「ロコモーション・ガール」がニッキーを「ポーランド・サイド」の「ストリート」に誘導したのに対し、「ファントム」は「アメリカ・サイド」の「ストリート」へ導くことだ。この「誘導するもの」と「誘導されるもの」の間には、明確な「普遍」と「個別例」のクロスがみられる。図表にまとめてみると、こういう具合になる。

普遍と個別の対応
普遍個別例
ファントム ロコモーション・ガール
ロスト・ガール スー=ニッキー
ポーランド・サイド アメリカ・サイド

演技者=ニッキーの個人的な「情緒の記憶」である限りにおいて「私的」なものであり、本来は「個別例」に属するものであるのは間違いない。それに対し、映画というメディアに「偏在するもの」であるという意味において、「ファントム=映画の魔」は「公的」で「普遍」に属するものだ。また、「ポーランド・サイド」は受容者の抽象概念を表すロスト・ガールに属する「普遍的なもの」であること、逆に「アメリカ・サイド」の「ハリウッド・ブルバード」は演技者=ニッキーの「私的」なものに属すると捉えて差し支えないだろう。以上のことを考えると、スー=ニッキーに関する限り、「導くもの」と「導かれるもの」の間に「普遍」と「個別例」のクロスした関係、あるいは「捻れ」が発生していることがみてとれる。

スー=ニッキーを「アメリカ・サイド」の「ストリート」に導く直接契機になるのが「ファントム」であって「ロコモーション・ガール」でないこと(一緒になって「ストリート」に立ってはいるが)は、「インランド・エンパイア」における「個別例の普遍化」の描かれ方として、重要な意味を持つのではないかと思う。ここでいう「普遍化」というのは、要するに不特定多数の受容者による「同一化=感情移入」と同義だからだ。

「ファントム」が口にくわえている「赤い電球」が表すものについては、すでに「青」が表すものとの対比として述べた。それが表すものは、この時点での「」における「心理展開のエスカレーション」の「物語展開のエスカレーション」に対する「優位性」である。「因果律」や「論理」が、「感情」や「混沌」に呑み込まれているのだ。スー・ニッキーが彼によって「ストリート」に導かれるのは、まさしくこうした「ファントム」の特性に触れてのことに他ならず、スー・ニッキーは彼と出会い、その存在に脅かされて「スクリュー・ドライヴァー」を手にする。この「悪意」を表す「スクリュー・ドライヴァー」が、彼への「恐怖」によってもたらされるのは、非常に興味深いといわざるを得ないだろう。ある意味で、スー=ニッキーをはじめとする女性たちが互いに「悪意」を抱くのは、夫や愛人を失う「恐怖」からの自己防衛でもあるからだ。くわえて、スー・ニッキーもピオトルケと同じく、「ファントム」に「コントロール」され「使役」される「動物=自律性を保持しつつ、他者のコントロールを受けるもの」であることが明示されるのである*

スー=ニッキーに「スクリュー・ドライヴァー」を「引き渡した」あと、「ファントム」の姿は「隣家の裏庭」から消える。その「不在」は、直後に提示される「ポーランド・サイド」の映像によっても強調される。「ポーランド・サイド」の「夜のストリート」からズームでクロースアップされる(「ロスト・ガール」の「家」がある)「建物」の「入り口」は、誰の姿も見えず空虚である。「ファントム」は、ここには戻っていない。では、はたして彼はどこへ行ったのか……もちろんそこは「インランド・エンパイア」であるわけだが、それが具体的映像として明らかになるのは、もっと後のシークエンスになる。

*該当するシークエンスの回で述べるつもりだが、スー=ニッキーがそうであるように、「ロコモーション・ガール」たちも「ファントム」の影響を受けている。彼女たちがスー・ニッキーの「内面」に属するものである以上、スー=ニッキーが「ファントム」に「魅入られた」なら、彼女たちもそれを免れないのだ。

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