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2008年2月11日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (53)

どうにもこうにも「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる冬の日々なのであった。今回は(1:56:32)から(1:57:03)まで。

とりあえずは、このシーンにおいて提示されている具体的な映像をみてみよう。

(1)「笑っている道化師(clown)」のポスター。ズーム・アウト。(ディゾルヴ)
(2)黒いTシャツに黒のハーフ・パンツのスー=ニッキーが、夜の林の中の小道を歩いている。彼女を捉え続けるスポット・ライト。カメラに近づいてくるにつれ、彼女の歩くスピードは早回しで速くなり、やがて画面いっぱいに彼女の顔が映ったところで止まる。暗くなる照明。

このポスターの「道化師」が、直前のシークエンスで言及されている「サーカス団員」からの「連鎖」として表れていることは理解できるはずだ。「Mr.Kのオフィス」でスーが言及するように、彼らは「サーカスの糞道化師ども(A lot of them fucking circus clowns)」であるのだから。もちろん、このスーの発言は「比喩的」なものであり、彼らを揶揄する意図のもとに行われたものである。特定の「道化師たち」を指しているわけではなく、「見世物芸人、ジプシー、詐欺師(carnies, gypsies, con men)」という発言(1:46:08)と同じく、その対象は「サーカス団に所属するもの全員」であるということだ。つまり、その「糞道化師ども」のなかには、「ファントム」も含まれるわけである。

そう考えるとき、この「道化師のポスター」のカットの提示は、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」への「ファントムの侵入」を表すものとして理解可能である。そして、「ファントム」がいろいろなものの「コントロール」に……特に「演技者」であるニッキーに影響を与え始めているということが、ディゾルヴでつなげられる「夜の林道をさまようスー=ニッキー」の映像によって提示される。このシーンにおける「周囲も見えない暗闇の細い道」と「スーの奇妙な足取り」、そして「アップになったスーの表情」が伝えるメゾンセンは、演技者=ニッキーの「混乱」、そして「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対する「コントロールを失うことの恐怖」を伝えている。

だが、「インランド・エンパイア」に「道化師」のイメージが映像として現れるのは、このシークエンスにおいてのみではない。たとえば……

(A)メイク中のニッキー(0:40:59)
(B)崩壊する途中の「ファントム」(2:45:29)

……の2個所に、漠然とした形ではあるが、「道化師」のイメージは現れている。

(B)の「ファントム」の映像に関しては、現在述べているシークエンスに表れる「ポスターの道化師」とストレートにつながるものとして理解できるはずだ。ただし、(B)で提示される「道化師」のイメージは、スーの発言にあったような「揶揄の対象」ではない。ここで提示されているのは、「サーカス」を「メディア」あるいは「映画」と捉えたとき、「道化師」が何を表すかである。つまり、「サーカス」と「道化師」の関係が、「映画作品」と「演技者」の関係に重ねられ、複合しているわけだ。現実には存在しないはずの「架空」の登場人物になりきることができ、その内面をすら「捏造」する「演技者」のイメージが、厚く塗られた白塗りの化粧の下にその素顔を隠す「道化師」のイメージに重ね合わせられる。(A)のメイク中のニッキーに「道化師」のイメージが感得されるのはまさしくそういう理由であり、これはニッキーの内に「ファントム」と同様のものが内包されていることの提示につながる。もちろん、それが(「ファントム=映画の魔」と並んで)「心理展開のエスカレーション」を司ることで「感情移入=同一化」を誘うものであり、「ロコモーション・ガール」として表される「情緒の記憶」である。

表現を変えよう。(B)の「ファントム崩壊」のシーンで提示されている「道化師」のイメージは、彼の「映画の魔」としての「本質」の一側面である。ときとして「揶揄的」に扱われると同時に、観る者の内面を操る「恐怖」の対象としても受け取られる「胡散臭いもの」だ。しかし、(A)のニッキーの映像が表すように、これらの「ファントムの本質」は、「演技者の本質」の一側面と重なっており、この両者は、一種の「類似性」あるいは「共通性」を備えているといえるのだ。そして、「ファントム」が、登場人物=スーを通じて演技者=ニッキーの「内面」に入りこむことが可能になる理由は、「映画の魔」と「演技者」をむすぶこの「類似性」と「共通性」に他ならない。それは演技者が持つ「同一化=感情移入」の能力に起因するものであるわけだが、同時にニッキーの「混乱」と「恐怖」の原因にもなっている。演技者の「情緒の記憶」の投影先であり「同一化」の対象であったはずの「登場人物」や「作品」が、当の演技者の「情緒」そのものを動かし始めようとしているのだ。

だが、別な見方をするなら、こうした「混乱」は、作品が「自律」し、「普遍性」を獲得したことと同義なのではないだろうか? この「普遍性の獲得」は「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」で描かれる「機能しない家族=トラブル」の普遍化と抽象概念化を引き起こし、その抽象概念のなかにニッキーが抱える具体的な「トラブル」もまた、「個別例」のひとつとして飲み込まれていくのである……「ファントム」によって喚起された受容者=ロスト・ガールの「トラブル(の記憶)」が、すでにそこに飲み込まれてしまったのと、まったく同じように。

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