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2008年2月 9日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (52)

「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をどーたらこーたらとたぐる日々は、依然として続くのであった。やや細切れ気味に、今回は(1:53:57)から(1:56:32)までをば。

このシークエンスで提示されるのは、雑駁にいうと、バルト海地方を巡業中の「サーカス」から「ファントム」が姿を消した後のことである。いうまでもなく、これは直前のシークエンスで登場した「ファントム」からの「イメージの連鎖」として喚起されており、非常にわかりやすいものだといえるだろう。このシークエンスでは、ファントム自身の姿はまったく現われないが、その「欠落」こそが問題とされているのはいうまでもない。また、後に表われる(2:01:35)から(2:05:13)のシークエンスと連続性があるものとして受け取ることが可能だが、こうした表面上の時制的な連続性は重要ではないといえる。同時に、「Mr.Kのオフィス」でスーが語った「酒場で乱闘騒ぎを起こし、逮捕されたサーカス団員たちのその後」について(1:46:54)を表すシークエンスでもある。念の為、スーの台詞からこのシークエンスに関連する部分を再度抜き出しておこう。

スー: They all called him The Phantom. (沈黙) He got in a barroom fight one night. All the bar was arrested. A lot of them fucking circus clowns. So when they take'em all down to the station... guess what. The Phantom's done gone and disappeared.

さて、この「酒場での乱闘騒ぎ」が表すものをどう読み取るべきだろうか? 「サーカス」を「組織」を表わすものとして捉えるなら、文字どおり「組織」と「組織」の対立と読み取ることも可能だ。当然ながら、スーの女性としての視点は揶揄的であり、この「乱闘騒ぎ」自体を「幼児的なもの」とみなしている。それは彼女が(本音の部分で)団員たちを指して「サーカスの糞道化ども」と呼ぶことにも表われているといえるだろう。最終的にこの「乱闘騒ぎ」は「官憲」という「コントロールするもの」の介入を招いたわけだが、この「官憲」は、「老人=ウサギ」というまた別の「コントロールするもの」……つまり、「メディア」「映画」としての「サーカス」を「コントロールするもの」のイメージと複合していく。であるからこそ、「欠落」した「ファントム」を捜す主体は「老人」になるのだが、これについては後述することにする。

このシークエンスにおいて、まず具体的な映像として提示されているのは、以前にも触れた「移動する自動車のウィンド・シールド」越しの林道のショットである。ここで改めて指摘しておきたいのは、このシークエンスの「自動車内部からのショット」が、(1:38:55)や(1:18:00)の「ポーランド・サイド」や(1:49:43)の「アメリカ・サイド」と対置されるものとして、敢えていうなら「バルチック・サイド」として捉えられることだ。そして、「ポーランド・サイド」と「アメリカサイド」がそれぞれロスト・ガールとスーに属するものといえるのに対し、この「バルチック・サイド」はピオトルケに属するものといえるだろう。この三者の関係性を「妻の抽象概念」と「夫の抽象概念」の関係と考えるとき、この三つの「場所」の「車中からのショット」が並列的な提示になっている理由が明確になる。

車中のシーンを含めたこのシークエンス全体において、主導権を握っているのは「コントロールするもの」としての「老人」であるのは間違いない。彼は「インランド・エンパイア」の冒頭でファントムと「オープニング」に関する会話を交わしていた人物である(0:07:28)。この会話の場面でも「コントロール」は「老人」の手にあるといえるのだが、詳細は当該シークエンスの際に述べよう。同じように、ファントムに対する捜索の主体も明らかに(ボディ・ガード兼任と思しき屈強な運転手に付き添われた)「老人」にあり、ピオトルケはその道案内役として「利用・使役」されているに過ぎない。こうした描写を通じて明瞭であるのは、直前のシークエンスで明らかになった「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」への「映画の魔=ファントム」の侵入と「コントロールの侵害」に対抗して、今度は「老人=ウサギ」による「コントロール」を取り戻すための「介入」が始まったということだ。

その捜索の果てに辿りついたのが、林の中にある何軒かのガレージ様の小屋のうちのひとつである。この小屋が果たしてどういう場所であるかの具体的な説明はない。「サーカス」団員の仮住まいであるのか、緊急時の集合場所であるのか、正確なところは定かではないのだ。しかし、小屋のそばを歩く「黒い鶏」のカット(1:55:16)が、この場所の性格を表わしている。そこは、「動物=自律性を有しながらコントロールを受けるもの」がいる場所である。それを裏付けるように、小屋の中からサーカス団員の一人であるゴーディが姿を現わす。「ピオトルケと馬」が並列したカットが両者の「等価性」を表すように、「鶏」と「団員」も「動物」として「等価」であるわけだ。ピオトルケはゴーディに「ファントム」や「他の団員」の行方を尋ねるが、「ファントム」が抜けて崩壊してしまった「組織=サーカス」は、もはや彼らをつなぐ紐帯とはなり得ない。ゴーディはピオトルケに向かって罵倒に近い言葉を浴びせかけ、彼自身も自暴自棄であるようにみえる。その「心境」を表すかのように、ゴーディが投げ捨てるのは「赤い」プラスティックのカップだ(1:55:27)。「物語」の放棄、つまりは「因果律」や「論理性」の放棄である。

ゴーディ: What do you want?
ピオトルケ:  (あたりを見回しながら) Where is he?
ゴーディ: What's the point? Are you blind? He's gone!
ピオトルケ: (後方の老人をを振り返りつつ) Everybody?
ゴーディ: (何かを言いかけてやめる) Why should I answer your stupid questions? (鶏の鳴き声)You're nothing! You done nothing!
ピオトルケ: (動揺して) Where did he go?
ゴーディ: No idea. He talked... mumbled something about Inland Empire.(鶏の鳴き声)

重要なのは、ゴーディが明らかにする「ファントム」の行方である。「なにやら『インランド・エンパイア』についてブツブツ言っていた」……彼の行き先は「そこ」であると考えるのが、もっともストレートな受け取り方だ。同様に、この会話に続く互いを見るピオトルケと「老人」のカット-カットバックからして、少なくとも「老人」が事の次第を知り、「ファントム」がどこに行ったかを悟ったと考えて間違いないだろう。

ここに至って、リンチが「この作品で何を描こうとしているのか」が、そして他ならぬ「この映画のタイトルの表わすもの」が次第に垣間見えてくる。「ストリート」や「スミシーの家」が表すもの、「スミシーの家」の居間で踊る「ロコモーション・ガール」たち、「インランド・エンパイア地区」と「ポモナ(Pomona)」の関係、「ファントム」が「ストリート」を経て「家」のレベルまで達することの意味……これらが総体として表わすものは、「インランド・エンパイア」が「人間の内面」を指すということだ。そして、そこでは「同一化=感情移入」というなんとも不可思議なものが発生し、その「発生を可能とする理由」あるいは「生成のメカニズム」は人間がもつ「感情」に還元されるということである。

そう捉えるとき、以前も述べた、リンチの過去作品(たとえば「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」)と「インランド・エンパイア」のテーマ上の明確な「共通性」……人間の「認知・認識」の問題……が理解できるようになる。「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」において、フレッドやダイアンの「認知・認識」の対象となり、彼・彼女の「感情」によって歪められたのは「彼・彼女の現実=外界」であった。それに対し、「インランド・エンパイア」で受容者=ロスト・ガールや演技者=ニッキーの「認知・認識」の対象となり、彼女たちの「感情」の投影先になっているのは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という「映画作品」、ひいては「登場人物=スーの(架空の)現実」である。この観点に従うなら、これらの作品はすべて作品構造としては同一であり、リンチの描こうとしているテーマは実に一貫しているといっても過言ではない。フレッドやダイアンが自らの「感情」に即して「唾棄すべき現実」を「心地よいもの」に歪めたように、あるいは受容者=ロスト・ガールが「同一化=感情移入」を拠り所に自身に振りかかっているわけでもない「トラブル」を我が事の如く体験するように、人間の「内面=インランド」は、その持ち主が自分の意のままに振舞える「帝国=エンパイア」であるのだ。

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