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2008年2月 7日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (51)

匍匐前進中の「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をしつこく追いかける作業である。今回は(1:49:52)から(1:53:57)までをば。

このシークエンスで主として提示されるのは、「ビリーの屋敷」における典型的修羅場であり、普遍的な「トラブル=機能しない家族」の事象の「個別例」である。つまり、このスーとドリスそしてビリーの間に発生している「トラブル」もまた、「トラブル=機能しない家族」の普遍的抽象概念を構成するピースのひとつとして捉えられるべきものだということだ。それを如実に表すのが、このシークエンスでのスーの台詞に散りばめられた、「インランド・エンパイア」全体を通して繰り返される「キー・ワード」である。いわく「何かがおかしい(Something's wrong)」、いわく「聞いてるのか?(Are you listening?)」……後者に関しては「ポーランド・サイド」の「口髭の男の妻」によって(1:18:46)、あるいは「アメリカ・サイド」のピオトルケによって(2:16:26)、同様の言葉が発せられているはずだ。時と場所を選ばずこうした「トラブル」は普遍的に存在し、そこでは同じような会話がこれまた普遍的に交わされる。これらの「事象=トラブル」は、そこで発生する様々な「共通項」によって、「等価性」と「普遍性」を保証される。

そうした事柄を踏まえたうえで、このシークエンスの前半部分で注意を惹くのが、スーが「ビリーの屋敷」の裏口の扉を開け、邸内に侵入した直後にインサートされる「点滅するコントロール・パネル」(1:50:39)の映像である。非常にあからさまな「コントロール」のイメージに他ならないわけだが*、同時に今まで提示された「コントロール」のイメージとはかなり異質なものでもある。こうした「工業的」なイメージを付随させた「コントロール」は、「インランド・エンパイア」の他の箇所には見当たらない。この「パネルの映像」自体が抽象的なものを表しているのは明らかで、その証左として、具体的な警報が発報されたことを表すような映像はどこにも存在しない。スーの侵入は、まずドリスによって直接的に認められ、そこにビリーと執事が現れる……という経緯だけが、映像によって確実に提示されているものである。

では、この「コントロール・パネル」のインサート・カットは何を表すのか? ここでは、このシーケンス(あるいはこの「トラブル」、もしくはこのスーの行動自体)が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という「工業製品」が内包する「物語の一部分」として、制作側の「コントロール」下にあることを表していると捉えておきたい。前述したように、このシークエンスもまた「機能しない家族の抽象概念」の一部として捉えられるべきものではある。が、同時に、「感情移入装置」としての「映画」である「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」を構成する、具体的な「物語」のパーツでもあるということだ。この点で、このシークエンスにおける「トラブル」は、「ポーランド・サイド」におけるロスト・ガールや「口髭の男の妻」が抱える「トラブル」とは根本的な質的差異がある。見方によっては、その「差異」とはこのシークエンスの「トラブル」が「虚構」であることに尽きるわけだが、その「虚構」がいかにして「現実」との「等価性」を獲得し、「普遍性」を持つのか……というのが「インランド・エンパイア」が描く主たるテーマのひとつであるはずだ。ここでこの「トラブル」の「虚構性」が明確になることは、このテーマ自体を明確にするうえで、有効であるといえるだろう。

ある意味で、こうした「抽象性」と「具象性」の混交……一言でいうと「半具象性」がリンチ作品の特性であるといえる。リンチ作品に施された古典的ハリウッドの編集もそうした「半具象性」の発現に加担しており、「言語化の困難さ」と並んで、これもまたリンチ特有のある種の難解さにつながっている面があるのは否定できない。ただし、いうまでもなく、リンチ作品を具象的に捉えようとすれば、直ちに作品全体を通したパースペクティヴを見失うことになる。

話は戻って、しかし、このシークエンスでもっとも問題になるのは、後半のドリスがスーに平手打ちをくらわした直後あたりからの「イメージ連鎖」である。この部分の具体的映像を並べると、以下のようになる。

(1)「ビリーの屋敷の居間。目を見開いているドリスのアップ
(2)警察署の内部で、背後を振りかえる白いTシャツ姿のドリスのアップ(0:35:36)
(3)ファントムが催眠術をかけるように左手をうごめかしている
(4)腹部から血を流し、床に横たわっている「ポーランド・サイド」のロスト・ガール(1:40:21)
(5)警察署の内部で、後ろを振り返ったままのドリスのアップ
(6)忙しく左手の人差し指をうごめかしているファントム
(7)「ビリーの屋敷の居間」のドリスのアップ。スーのアップ。ドリスのアップ

これらの映像のうち、(1)(2)(3)(4)(5)のカット間はディゾルヴでつながれている。また(7)のカットの終わりはフェイドアウトになっている。また、(2)(4)(5)のカットに併記されているタイム・スタンプは、当該カットが他のシークエンスにおいてに現われたときのものである。

これらの映像によってまず明瞭にされているのは、警察署のシーン(0:34:33)でドリスが刑事に向かって言及した「バーで出会い、彼女に催眠術をかけた男」が、「ファントム」であることだ。彼は「『誰か』をスクリュードライヴァーで殺せ」と示唆し、「誰を殺すのかは、そのうちわかる(he said that I would know who it was)」とも告げるのだが、その殺害対象である「誰か」がスーであることをドリスが悟った……ということも、あわせて明らかにされる。

そして、凶器となる「スクリュードライヴァー」が表すものの一端も、同時に明らかになる。(4)のカットで提示されるロスト・ガールが、「口髭の男の妻」によって「スクリュー・ドライヴァー」で刺されて死んだことは以前のシークエンスにおいて明示されている(1:39:04)。「インランド・エンパイア」全編を通じて何度となく登場する「スクリュー・ドライヴァー」の形状を見る限り、これらはすべて同一のものであり、「共通項」として捉えられるべきものだ。つまり、「台詞に現れるキーワード」などと同じく、ドリスとロスト・ガールそしてスーの三人の女性がそれぞれ「腹部を刺される」という事象の「等価性」や「普遍性」を導くものとして読み取ることができるわけである。このシークエンスで(4)のシーンがインサートされる理由は、まさしくそうした「等価性」にある。

細かい具体的な経緯はともかくとして、これらの殺害・傷害という事象を発生させた「共通項」は彼女たちが抱く「殺意」であり、「嫉妬」「恨み」「悪意」といった「感情」である。「スクリュー・ドライヴァー」は、そうした「感情」を目に見える「映像」として表したものだ。それを補強するのが(7)で提示されるドリスとスーのカット・バックである。彼女たちは互いを「感情をぶつける対象」として認識している。警察署でのシークエンスで提示された「ドリスの腹部に刺さったスクリュー・ドライバー」が表すように、ドリスもまたスーの言動によって傷ついているし、スーに対して「殺意」や「悪意」を抱いているのだ。もちろん、その結果は後の「ハリウッド・ブルバード」のシークエンスのおいて明確にされるだろう。互いに傷つき傷つけあっているという意味では、スーとドリスとロスト・ガールの三人は、まったくの「等価」である。

と同時に、ファントムが「ポーランド・サイド」の「ストリート」を経て、「アメリカ・サイド」にある「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」(の少なくとも「ストリート」のレベル)まで入りこんでいることがここで明確にされる。「入りこむ"オープニング"を捜している(I look for an opening)」と言っていたファントムは(0:07:59)、ついにその目的を達成したのだ。これ以降、「映画の魔=ファントム」が備える「心理展開へのエスカレーション」に関する「機能」は、ロスト・ガールに向かってだけでなく、スー=ニッキーやドリスに向かっても明確に働きかけることになる。そして、それはつまり、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」全体に対する「コントロール」にファントムが介入し始めたということだ。

ここに至って「ファントム」が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」のコントロールに介入し始めたということは、いったい何を指し示しているのか? 興味深いのは、直前のシークエンスにおける「ロコモーション・ガール」との対比である。以前述べたように、そもそもこの「ビリーの屋敷内部」で起きた修羅場のシークエンスは、「ロコモーション・ガール」の「心理展開のエスカレーション」に対する機能によって喚起されたはずだ。そのシークエンスが、結果的には「ファントム」の侵入を許し、最後には横取りされる形で彼の介入を許している。あるいは、「コントロール・パネル」のイメージが表すように、このシークエンスで発生している事象は本来「制作側」の「コントロールを受けているもの」であったはずである。「制作側」の立場にとっても、この「ファントム」の侵入は、計算外ではなかったのか?

可能性のある解釈として考えられるのは、「ファントム」が侵入した瞬間、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」が「映画作品」としての「自律性」を獲得したのではないかということだ。非常に雑駁な言い方だが、演技者や製作者の完全なコントロールを逃れて、作品が作品として独自に動き出す瞬間である。それこそが、「映画」が「工業製品」であるとともに「創作物」でもあるという所以であり、逆説的にではあるが「魔」が介在する余地でもある。おそらくリンチは過去の映画製作を通じて、作品が自律性を獲得し、「映画の魔」が忍び込む瞬間を知っている……というより、今回の「インランド・エンパイア」の製作過程を思い出すとき、あるいは「Catching the Big Fish」の記述を読む限り、リンチはそうした一瞬が「もたらすもの」を全面的に信頼しているように思えてならないのだ。

*ご丁寧なことに、点滅するランプは「」が1個と「」が6個である。これが何を示すのかは「赤」と「青」の項を参照いただきたい

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