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2008年2月 4日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (50)

本日は良いお日柄でマコトにもってオメデタイ感じで続く、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業である。朝からスーパーボウル観ながら酔っ払いつつ、今回は(1:48:40)から(1:49:58)までのシークエンスをみる。しかし、NYGがイーライ・マニングで勝てるとは思わなんだな。

それはさておき、いよいよ「ファントム」の正体が明らかになり、このあたりから彼は明瞭に「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「心理展開のエスカレーション」に明瞭に絡み始める。それにつれて「演技者=ニッキー」と「受容者=ロスト・ガール」の「内面の交錯」は激しくなり、「同一化=感情移入」もより深くなっていくのだが、それはまたおいおい述べる。

とりあえず、このシークエンスで「具体的映像」として提示されているものを順に列挙するなら……

(1)「スミシーの家」の居間でたむろするロコモーション・ガールたち
(2)シルクの布に開いた穴を覗きこんでいるスー=ニッキー
(3)「スミシーの家」の居間でたむろするロコモーション・ガールたち
(4)「スミシーの家」から出ていくスー
(5)「夜の街」の灯り
(6)移動する自動車内部からの「夜の街」(アメリカ・サイド)
(7)自動車内部からの「ビリーの屋敷」

……という感じになる。

このうち、(1)から(5)までを通じてリンチ作詞作曲の「Walkin' on the Sky」がずっと流れており、これらの一連のシーンが一塊に捉えられるべきものであることを明瞭にしている。

まず、大きな流れとしてみた場合、(1)の「ロコモーション・ガール」たちは、直前のシークエンスで登場した「ファントム」からの連鎖として現われている。つまり、両者の「心理展開のエスカレーション」に対する「役割・機能」という共通項によって、「イメージの連鎖」が発生しているわけだ。と同時に、「サーカス」を「組織」として捉えたとき、「ファントム」には「公的」「男性に属するもの」としてのイメージが付加されるのに対し、ニッキーの「情緒の記憶」である「ロコモーション・ガール」には「私的」「女性に属するもの」のイメージが付随しているといえる。つまり、両者の「共通項」を前提としたうえで、加えて「対置」されるものとしての「連鎖」も発生していることが読み取れるだろう。ただし、「ビリーの家」での修羅場までを連続したシークエンスとしてみた場合、この「対比構造」の様相は少しく異なることになるのだが、それはまたそのシークエンスの詳細を述べる際に触れたい。

という「大きな流れ」を踏まえつつ、具体的映像が伝えるものを追いかけていくなら、まず発生しているのは(1)(3)の「演技者=ニッキー」の「情緒の記憶」である「ロコモーション・ガールたち」が機能した結果の「心理展開のエスカーレーション」である。(2)のシーンでは「シルクの布に煙草の火で開けられた穴を覗く行為=映画を撮る行為=映画を観る行為」が提示されるが、このシーンにおけるスー=ニッキーの「視点」は明らかに「シルクの布の穴」から後退する動きをみせるとともに、スー自身がシルクの布から身を離す動作をしているカットもあり、この行為の「終結」あるいは「中断」を表していると捉えられるだろう*(1)(2)(そして(3))をつなぐカッティングが表すものをごく単純に捉えるなら、「シルクの布の穴」から観えていたものこそが「ロコモーション・ガール=ニッキーの情緒の記憶」であったことになる。そして、(1)(3)の結果として導き出されるのが(4)(5)で提示されるスーが「スミシーの家」を出るシークエンスであり、(6)のシーンにおいて彼女の行き先が「ビリーの屋敷」であったことが明らかにされる。

ここで注意を惹くのは、(1)のシーンにおいて、カーテンがかかった窓からの光が表すようにこのシーンが(そしてそれに継続する(3)のシーンが)昼間であるのに対し、(2)(4)以降のシーンが夜間であることだ。つまり、すでに触れたようにこれらのシーンを通じて「Walkin' on the Sky」が流れ、一塊のシークエンスを表しているのにもかかわらず、各シーン間で時制の不一致がみられるということである。ここでは、この不一致は(1)(3)の各シーンと他のシーンの「質的差異」を明確にしていると理解しておきたい。要するに、「ロコモーション・ガール」のシーンがニッキーの「情緒の記憶」、要するに「内面」に属するものであり、それが「シルクの布の穴を覗く行為=映画を観る行為」によって共有されることを示しているのである。

という具合に、このシークエンスで表されているのは、登場人物=スーの(それはつまり「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の)「心理展開のエスカレーション」と、それに促されてスーがとった行動という「原因」と「結果」の提示だ。そしてその「結果」は、「『ビリーの屋敷』での修羅場」という事象を引き起こし、また新たな「結果」へと連鎖していくことになる。

*実際、「シルクの布に開いた穴」が映像として登場するのは、これが最後である。なぜここで、「シルクに開いた穴を覗く行為」が「中断」あるいは「終了」させられるのか? ここでもやはり、ニッキー=スーが左腕にはめている「腕時計」が映像として提示されていることに注目しておきたい。要するに、ニッキー=スーが「(現実)時間のコントロール」を受けた結果、「映画を作る行為」が「中断」あるいは「終了」されたのである。演技者=ニッキーに対しては、この後も何回となく「時間のコントロール」を主としたなんらかの「コントロール」が施される。
だが、基本的にこの後のシークエンスにおいて描かれる「心理展開のエスカレーション」は、激しくその度合いを高めていく一方だ。それに連動して、「演技者=ニッキー」と「受容者=ロスト・ガール」の「登場人物=スー」に対する「同一化=感情移入」はどんどん深まっていく。
少なくとも、受容者=ロスト・ガールはとっくに「現実時間のコントロール」の圏外にあり、自分が「シルクの布の穴を覗く行為=映画を観る行為」を行っていること自体を忘れている。であるから、ロスト・ガールに対する「コントロール」を表す映像は、この後、一切ない。また、演技者=ニッキー自身も、ロスト・ガールと同じように「シルクの布の穴を覗く行為=映画を作る行為」の認識を次第に危うくしていくのだ。そして、それは「ファントム崩壊」のシーンまで続く。

**であるから、実は(6)(7)のシーンは次の「『ビリーの屋敷』での修羅場」のシークエンスの一部であるといえる。ここでは「原因」と「結果」の関係性を明確にするために、敢えて一連のものとして挙げておいた。

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