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2008年2月 2日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (49)

引き続き、「インランド・エンパイア」の(1:45:47)から(1:48:40)までのシークエンスをばチンタラ追う今日この頃。

……の前に、ちょいといろいろと入り組んできたんで、「インランド・エンパイア」に登場する「コントロール」のイメージを図表化して、整理なんかしてみる。リンチが提示する「複合的なイメージ」を無理矢理「分解」してみたら、たとえばこういう具合になるんでないか……という例であったりする。

たとえば、このシークエンスで具体的な映像として提示されている「コントロール」のイメージは、以下のようなものだ。

「インランド・エンパイア」の「コントロール」のイメージ
分類項目コントロール被コントロール
サーカス ファントム 団員・ピオトルケ
サーカス ピオトルケ

おわかりのように、横軸の左端がイメージの「分類項目名」で、真ん中が「コントロールを行うもの」、右側が「コントロールを受けるもの」(つまり「動物」)という関係である。

これを、「インランド・エンパイア」全体を通じて提示されている他の「コントロール」のイメージについて当てはめて図表化すると、下図のようになる。かなり乱暴に簡略化したものであるので、詳細な点で現実とは異なっている項目があるかもしれないが、ざっくりした概念図として理解してもらえると、これ幸いである。

組織 上長 部下
会社 雇用者 被雇用者
映画製作 資本提供者 監督
映画制作 監督 スタッフ
映画作品 監督・スタッフ 作品
メディア 作品 受容者
映画 作品 受容者

分類項目のうち、「組織」~「映画作品」までが「組織」のイメージに属しているのに対し、「メディア」「映画」は当然「メディア」のイメージに属していることになる。

「インランド・エンパイア」において表れている「具体的映像」には、上に挙げた「分類項目」のいくつかを複数内包しているケースが多数認められる。と同時に、各「分類項目」の横軸方向に対応した「コントロールするもの」「コントロールされるもの」も複数内包され、それぞれ重層的に積み重なることで複合的なイメージを形成している。たとえば「サーカス」のイメージには、上記の図表にある「組織」と「メディア」の「分類項目」のイメージが明瞭に内包されているが、場合によって、それは他の「分類項目」(たとえば「映画制作」のイメージや「心理展開」のイメージ)とのつながりを発生させる。そして、この「分類項目」のつながりに連動して、「コントロールするもの」としての「ファントム」は「監督」や「作品」につながり、「コントロールされるもの」としての「ピオトルケ」は「馬」や「受容者」へと重なり、複合していく。

リンチ作品における「イメージの連鎖」は、往々にして、こうした「複合的イメージの幅」を糊代にして成立している。通常ならつながらないはずの映像同士が、「複合的イメージの幅」によってつながってしまうのだ。それがゆえにリンチが提示する映像は「言語」との単純な置換を許さず、「言語的な理解」(「ナラティヴな理解」と言い換えてもいい)を不能にする。これらの「イメージ」群は複合的であるがゆえに「複合的なコンテキスト」を成立させてしまい、「言語」が持つ明瞭なコンテキストに向って収斂させてくれないのだ。リンチ作品の「難解さ」の要因のひとつは、間違いなくこのような「言語化の困難さ」にあるといえるだろう。しかしながら、リンチがこうした「イメージ」の複合化をすべて計算したうえで自分のアイデアを「映像」化しているとは思えない。おそらくはリンチのアイデア自体が、そもそも最初から「複合したイメージ」をはらんでいるだけのことなのだ。そしてそれは、「インランド・エンパイア」に限った話ではない。

それはさておき、「映画」の項目にぶら下がるものとして……

心理展開 ファントム 作品(受容者)
心理展開 ロコモーション・ガール 作品(受容者)
物語展開 ウサギたち・老人たち 作品(受容者)

……というようなものも「インランド・エンパイア」には表出しているといえるだろう。作品に対する「コントロール」を通じて、「受容者」はファントムやウサギたちの「コントロール」を受けているという構造だ。ただし、ここまで細目になると、無条件に重複可能とは限らない。当然ながら「ファントム」と「ウサギたち」は、「機能形態」としての共通項はあるものの「機能内容」はむしろ対置されるべきものであり、重複不能であるといえる。

なーんてなことをつぶやきつつ、長過ぎの前振りは終了。やっと本題に戻って、このシークエンスの後半部分のスーの台詞を引用してみよう。

スー: They all called him The Phantom. (沈黙) He got in a barroom fight one night. All the bar was arrested. A lot if them fucking circus clowns. So when they take'em all down too the station... guess what. The Phantom's done gone and disappeared. This is the kind of shit I'm talking about. (沈黙。唇を動かす) He was a Marine from North Carolina. He had a sister with one leg. She had a sorta... carved stick for the other one. She killed three kids in the first grade. This is the kind of shit...

スー: (目だけを動かして横目でMr.Kを見ながら) Fuckin' funny. People. They all got their own peculiarities... their own way of livin'. (右を見、上を見てからまっすぐにMr.Kを見る)

「ファントム」と「片足の妹(sister with one leg)」に関しては、「ノース・カロライナ」に関するこちらとかあちらとかの項で詳しく触れたので、ここでは繰り返さない。やはりこの台詞における「ファントム」や「片足の妹」もまた、リンチの極私的部分において「映画人」につながっていくと思われることだけを再確認しておきたい。スーが言うように、「彼ら=映画人」は「風変わり(got thier own peculiarities)」であり、「自分たちなりの生き方(their own way of livin')」をもっているのだ。それはデ・ラウレンティスのことであろうし、リンチ自身のことかもしれない。あるいは「映画関係者」に留まらず、「メディア」を通じ「自らの体と肉声」で受容者を「魅了」するすべての者たちのことかもしれない。見方によっては、彼らは全員「ファントム」の一員であるのだ。

「酒場での乱闘」が「幼児性」の発露であると受け取れることも、すでに述べたとおりだ。敢えて触れておくなら「ファントム」の「神出鬼没性」だろうか。乱闘の後に姿を消した「ファントム」は、サーカス団員ゴーディの話を信じるなら(1:56:08)、この後「インランド・エンパイア」とかいう場所に向っている。まず「ファントム」が辿り着いたのが「スミシーの家」の隣家であるならば、そこは「映画館」から階段をのぼった所にある「通路」、すなわち「スミシーの家」と「Axxon.nの扉」でつながるいずことも知れぬ「通路」のすぐ近くのはずだが、それはまた後の話題だ。

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