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2008年2月

2008年2月29日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (58)

サグラダ・ファミリアを建てるが如く、遅々として進行中の「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」を確認する日々である……いや、こんな駄文の引き合いに出したら、後ろからガウディにレンガで殴られそうだなあ(笑)。え? ああ、あまりに「お約束どおり」でアレですが、まだ日本語版DVDは観てません(笑)。まあ、DVDが逃げるわけでもなし、いいんじゃないっスか?(ヤケクソ気味) そういえば、今度「早稲田松竹」でかかるみたいですね。あの映画館は、座席がいいからお気に入りでありマス。DVDで観るよか、そっちの方が先になったりなんかして(笑)。

てな馬鹿話はおいといて、今回は(2:05:17)から(2:06:25)までの「イメージの連鎖」を片づけることにする。ロスト・ガールが姿を消した直後のあたりからの実際の映像をみればわかるように、このシークエンスは前回取り上げたシークエンスから完全に継続している。長くなるので便宜上分割したが、実際には(2:01:36)から(2:06:25)まではひとつのシークエンスとして理解すべきものであるといえる。

というようなことを前提に、まず、このシークエンスの最初に提示されている具体的な映像をみてみよう。

老人2が自分の座っていた椅子を持ち上げ、テーブルの前、画面の手前側にそれを運んでくる。老人3と4も、ゆっくりと立ち上がる。老人4が座っていた椅子を画面の手前側に向ける。老人3は左手の窓際に歩いていく。老人2老人4が、テーブルの前に並べた椅子に、二人並んでこちらを向いて座る。

[train whistle blows]

家の中が、ゆっくりとディゾルヴで「Rabbitsの部屋」に変わっていく。それにあわせて、三人の老人もゆっくりとウサギに変わっていく。老人3はアイロンをかけているスージー・ラビットに、老人4は長椅子に座っているジャック・ラビットに、老人2は同じくジェーン・ラビットに変化する。

この一連の映像によって提示されているものが、要するに「コントロールするもの」としての老人たちとウサギたちの「同一性」あるいは「等価性」であることは、容易に理解されるだろう。と同時に、彼らがそれぞれの場所で行っていることの「同一性」「等価性」もまた、この映像によって保証されているといえる。つまり、「Rabbitsの部屋」で行われているコンテキストを欠いた会話も、実は「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対する「コントロール」や「介入」の一環であることが明確にされているわけだ。また、(1:20:49)において、「Mr.Kのオフィス」にあるデスクにつくジャック・ラビットの映像が提示されていることからもわかるように、この「同一性」「等価性」は、「Mr.Kのオフィス」内部で発生している事象に対しても保証されることになる。

……という具合に、作品全体のなかにおける「Rabbitsの部屋」と「Mr.Kのオフィス」そして「バルト海地方にある家」の「同一性」「等価性」が説明されたあと、引き続き、移行した「Rabbitsの部屋」を舞台にした事象が描かれる。この(2:05:23)からの「Rabbitsの部屋」については、リンチ作品に表れる「赤と青のモチーフ」の項でも触れていので、そちらも参照していただけると幸い。

さて、ちょいと視点を変えて「編集面」からみた場合、このシークエンスの「Rabbitsの部屋」は他の「Rabbitsの部屋」と明瞭な相違点を備えている。このシークエンスの「『Rabbitsの部屋』の内部」において、ミドル-ロング-ミドル-アップ(窓越しのランプ)と4ショットにわたる「カメラ位置とサイズを変えたカット割り」が行われているのだ。それに対し、これ以前に登場した「Rabbitsの部屋」は……具体的なタイム・スタンプでいうと、(0:04:04)と(1:20:12)および(1:32:39)に現れる「Rabbitsの部屋」の映像は、すべてカメラ位置を固定したロング・ショットによって撮られている。

このように「編集」をキーにして一連の「Rabbitsの部屋」を比較したとき、非常に興味深いことに気づく。たとえば(1:20:12)の「Rabbitsの部屋」はロング・ショットのワン・カットだけで構成されている。(0:04:04)の「Rabbitsの部屋」は「モニターを観ながら涙を流すロスト・ガール」の映像と交互に提示され、両者は「ショット/カウンター・ショット」の関係にある。つまり、「モニターを観るロスト・ガール」と「彼女が観ている映像」の関係性が当該シークエンスにおいて提示されているわけだ。そして、(1:32:39)のシークエンスでは、「Rabbitsの部屋」は、「スミシーの家」のリビング・ルームから電話を掛けるスー=ニッキーのショットと交互に現れる。つまり、ここでは「同時進行する異なった場所の出来事」が提示される「クロス・カッティング」が施されていることになる。で、今回の「Rabbitsの部屋」における「カメラ位置の変更」および「被写体との距離の変更」を伴った複数のカットによる構成……という具合に並べてみていくと、「映画」が段階的に取り入れてきた「カッティング(編集)」の種類が、順番に登場していることになるのだ(必ずしも、実際に映画史に現れた順序どおりではないが)。

最初期の「物語=ナラティヴ」を備えた「映画」は、たとえばジョルジュ・メリエスの諸作品にみられるように完全にフィックスされたロング・ショットで撮られており、いわば「舞台劇の再現記録」とでもいうべきものだった。そこへ「火事だ!(Fire!)」(1901)(およびその米国版"リメイク"であるエドウィン・S・ポーターの「アメリカ消防士の生活」(1903))にみられるような、二つの同時進行するシーンが交互に提示される「クロス・カッティング」が持ち込まれ、G・W・グリフィスよって映像による物語記述のテクニックとして昇華されることになる。また、「舞台劇」と「それを観る観客」が交互に提示される「ショット/カウンター・ショット=カット・バック」は、登場人物が見ているものを受容者に提示することによる「視線の共有」につながる。あわせて「ロング・ショット」「ミドル・ショット」「クロース・アップ」などの異なるサイズのショットをつなぎ合わせてシークエンスを構成するテクニックが(これまたグリフィスによって)洗練されたものになったとき、「映画」は登場人物の心理を描写する点において跳躍的な進歩を果たした。これらの編集術の発達は、「時間操作」から「空間操作」そして「視線の操作」の獲得を経て、「古典的ハリウッド」の映像文法を確立するとともに、「映画」という「人間心理を描く感情移入装置」を成立させていく過程であったといえるだろう。これらの「Rabbitsの部屋」の「描かれ方」の変遷は、こうした「映画編集」の変遷と重なり合っているのだ。

もちろん、リンチが本当にこのような事項を意識していたのかどうかはわからない。だが、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品に関する「コントロールを行う場」である「Rabbitsの部屋」の映像に対して、そのコントロールの最大手段である「編集」の数々が意図的に、まるで「見本市」のように施されているのだとしたら、それはそれで非常に面白いし、逆説的に「Rabbitsの部屋」に付随する「コントロールのイメージ」を補強するものでもあり得るだろう。

ただし、少なくともこのシークエンスの「Rabbitsの部屋」の編集に関しては、明快な意図があるように思われる。まず指摘できるのは、「インランド・エンパイア」という作品自体が、この後「ハリウッド・ブルバード」におけるスー=ニッキーの(フェイクの)死というクライマックスを控えており、それに対する緊迫感を演出するためにこのような編集が施されているのではないかということだ。それを裏書きするように、この「Rabbitsの部屋」から電気的なクラック・ノイズをキューに切り替わる直後のシークエンスにおいても、「短いカットの集積」*などといった動的な編集が施されているのは事実である。このシークエンスの「Rabbitsの部屋」で発生している「カット割り」は、そこへ向かうための「助走」であるのだ。かつ、ウサギたちがコントロールしている「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」が置かれている状態とのリンケージのうえに、この編集を位置付けることも可能であるように思う。つまり、クライマックスに向けて急激な「物語展開」と「心理展開」をみせている「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」にあわせて、この「Rabbitsの部屋」で発生している事象もそのテンポを早めざるを得なくなっているのではないか……という見方もできるだろう。いずれにせよ、クライマックスに向けてカット割りのテンポを早めていくとい演出はごく一般的にみられる手法であり、このあたりもリンチ作品が備えるハリウッドの編集術との「親和性」を表す例であるように思える。

(うわ、また続いた)

*とはいえ、「MTV的編集」が登場して以降の「極端に細かいカット割り」に比べると、のんびりしたものだが。

2008年2月26日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (57)

いまだ国内版DVDを観ることあたわずの大山崎でございます。だれぞ、ワシに休みをくれ(笑)。

てな泣き言をこぼしつつ、今日も今日とて「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」を追いかけるワタクシ。なにはともあれ、前回の続きということで、(2:01:35)から(2:05:17)まで。前回引用したこのシークエンスの台詞を参照しつつ、ウダウダと裏返してみたり表返してみたり、つっついたり叩いたり(笑)。

しかし、受容者が期待する「安全保証」を達成するためには、「映画=感情移入装置」に対する精緻な「コントロール」が必要とされるのはいうまでもない*。「ウサギたち」や「老人たち」が行っているのは、そうした「感情移入装置」の「機能保全」のための「コントロール」である。いかに効率よく「物語」を展開し、効果的に受容者の「感情移入」を獲得するか。そして、獲得した「感情移入」を継続させながら、いかに心地よい「混乱状態」に受容者を置き続けるか……「ウサギたち」や「老人たち」の「物語展開」に対する「介入」が主眼としてるのはそういうことだ。

そのあたりを端的に表していると思われるのが……

老人2: You understand she sent for you?

……という、ピオトルケに向けた老人2の発言である。「お前を呼びにやらせたのは彼女だ」という彼の言葉を信じるならば、実はこの「介入」の契機を作ったのはロスト・ガールによる「要請」である。作品を受容する彼女の心象風景は「ポーランド・サイド」の映像によって表され、すでに「口髭の男の死」をもって明示されているように、彼女の「同一化=感情移入」は「時間・時刻の認識」や「場所の認識」を危うくするほど深まっている。(その終結を含めた)更なる「物語の展開」が彼女(の状態)から要請され、「老人たち」はそれに応えてピオトルケをこの場に連れてきたのだ。この観点に立つなら、老人たちもまた受容者=ロスト・ガールに「使役」されるもの、すなわち「動物」でしかなく、彼ら「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」を「コントロールするものたち」にとって、受容者からの要請の「解決」は最重要課題である……というより、前述したように、それこそが「映画=感情移入装置」の「機能保全」を行う最終目的に他ならない。「コントロールするもの」たちは誰もが「スミシーを演じるもの=観客」のことを「気にしている」……そう、「90歳の姪(90-year-old niece)」(0:40:59)がそうであるように。

こうした諸事情に基づき、具体的な「介入」が、ピオトルケに渡される「拳銃=最終的な物語展開=物語の終結」という形で行われたあと、老人の一人がピオトルケに向かって「時間のコントロール」に関するイメージを付随させた発言をする。

老人の誰か: (画面外から) Right away! It's after midnight!

「私はどこにいるのか?(Where am I?)」と同じく、これまた明らかなリフレインだ。「9時45分」と並んで、「真夜中過ぎ」という時刻について発言した登場人物が、この作品には何人もいたはずだ。

訪問者1: Hmm. I suppose if it was 9:45, I'd think it was after midnight. (0:17:04)

通行人: Excuse me, do you know the time? (1:19:32)
口髭の男: 9:45.

浮浪者1(黒人の老女): (少し黙ってから) What time is it? (2:26:58)
浮浪者2(アジア系の若い女性): I don't know... it's after midnight.
浮浪者1: After midnight?

彼/彼女たちは一様に「時間・時刻」について発言しているが、子細にみるとその発言には微妙なニュアンスの違いがあることがわかるだろう……そして、同時に、その「ニュアンスの違い」が各人の「立場の差異」を表していることも。たとえば、二人の浮浪者たちは、「時間・時刻」に対して曖昧な認識しか持っていない。それに対し、「腕時計」を持つ「口髭の男」は、他者に教えられるほど明快な「時間・時刻」に対する認識がある。また、訪問者1は、彼女の「外部性」を表すかのように、「時間・時刻」に対する見当識の失当「そのもの」について一歩ひいた形で語っている。これらの差異をとおして理解できるのは、「口髭の男」と「訪問者1」が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の外部にある「時間・時刻」……「(映画外)現実の時間」を認識しているのに対し、浮浪者たちがそうした認識を持てないでいることだ。こうした差異が、「コントロールするもの」と「されるもの」の違いにつながっているわけで、「老人たち」が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「内部時間=尺」をコントロールできるのは、「外部時間」に対する認識を保持しているからに他ならない。「ファントム=映画の魔」に魅了され、もはや「時間・時刻」に対する見当識を失当しているロスト・ガールやスー=ニッキーたちには、それは不可能なものだ。

老人たちの認識では、「時刻」はもう「真夜中を過ぎて」いる。結末に向かって用意を整える「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の物語には、もうあまり「時間=尺」が残されていないのだ。「今すぐに!」と老人が言うように、あるいは「赤だった」と言うように、「事態=物語の展開」は急がせられなくてはならない。「拳銃=最終的な物語展開の要請=終結」がピオトルケに引き渡され、彼はすみやかにそれをあるべき場所に……「ファントム」が近くに迫っている「スミシーの家」に持ち帰ることを要求される。

さて、老人たちとピオトルケの会話における「つながり」をもうひとつ挙げるなら……

老人2: Do you recognize her?
ピオトルケ: I don't see her...
老人2: You understand she sent for you?
ロスト・ガール: I don't know where I am...
ピオトルケ: I hear her now...
老人1: Do you see her?
ピオトルケ: (ロスト・ガールの方を見ながら) No
.

……という一連の台詞になる。ピオトルケには「ロスト・ガール」の姿が見えない。彼女のこの「不可視性」が、現状における「ロスト・ガール」とピオトルケの関係性を表すものであるのは、間違いない。ただし、その「関係性」がどういうものかについては、複数のコンテキストのうえで受け取ることが可能であるようだ。

たとえば、「不特定多数の受容者の総体」つまり「受容者の抽象概念」としてロスト・ガールを捉えるとき、彼女が、演技者=ニッキーの私的な「情緒の記憶」をもとにした存在であるピオトルケ**と「ダイレクト」な関係を構築できないのは当然であることのように思える。少なくとも演技者=ニッキーからの視点に立つ限り、受容者=ロスト・ガールとの「関係性」は間接的で「不完全」なものでしかあり得ない……まるで、「姿」が見えず「声」だけが聞こえるように。このロスト・ガールとニッキーの「関係性」は、二人が登場人物=スーを「共有」し、それぞれが「ストリート」に降り立つ過程を踏むことによって、最終的に二人の(いや、実質はスーを含めた三人の)「抱擁」(2:48:04)が実現するまでに深まる。ただし、その直後にスー=ニッキーの姿がディゾルヴで消え去る***ことで表されるように、彼女たちの関係は「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の上映時間が続く限りの仮初めのものであることもまた、「インランド・エンパイア」は描いているのだ。

その一方で、ピオトルケを「夫の抽象概念」として捉えた場合、「妻の抽象概念」でもあるロスト・ガールの「不可視性」は、「トラブル=機能しない家族」の要因のひとつとして理解できるはずだ。少なくとも映像をみる限りにおいて、ロスト・ガールがピオトルケを「見た」という示唆もこれまた存在しない。ということは、実は彼らは、互いに相手の姿が見えていないのだ。この相互的な「不可視性」は、「『スミシーの家』における二人の抱擁」(2:49:27)まで継続することになるわけだが、その関係性の変化をもたらす契機になったのが、このピオトルケによるロスト・ガールの「声」対する認識である。この認識こそが、ロスト・ガールとピオトルケが互いの「Hello?」という「声」を認識しあうこと(2:49:27)の契機となるものであり、最終的に二人の「抱擁」につながっていくものなのだ。このようにして、「夫の抽象概念」であるピオトルケは「トラブル=機能しない家族」の存在と起因を悟るのである。

いうまでもなく、「インランド・エンパイア」の掉尾近くの「スー=ニッキーとロスト・ガールの抱擁」と「ロスト・ガールとピオトルケの抱擁」は、「対置」されるものとして、あるいは「連続性」をもって理解されるべきものだ。詳細は当該シークエンスを述べる際に触れたいが、この二つの「抱擁」へと続く「事情説明」あるいは「関係性変化の契機」が、このシークエンスにおいて提示されていることは記憶に留めておきたい。

*こうした(「映画」というメディアに限らず、架空のものまでを含めた)「感情移入装置」を題材にした作品の多くが、その「機能不全」のために発生する悲劇や喜劇を描いているのには理由があるわけだ。その裏には人間が等しく抱く、自らの「自己同一性」を失うことへの「恐怖」が存在しているのである。たとえばフィリップ・K・ディックの諸小説作品も、そうした「恐怖」に裏づけられているものだといえるだろう。

**ピオトルケの存在をそのように捉えるなら、受容者=ロスト・ガールが「老人たち」を「使役」して、ピオトルケを呼び寄せたことの意味がなんとなく理解できるようになる。ピオトルケが受け取った「拳銃」がスー=ニッキーの手に渡り彼女によって「使用」されるのも、このピオトルケがニッキーに「内包されるもの」であることを思えば納得がいく。

***このシークエンスにおけるロスト・ガールも、やはりディゾルヴで老人たちの前から消え去ることは偶然ではない。彼らは「スクリーン」によって(あるいは「モニター画面」によって)、本来は隔てられた「場所」にいるのだ。

2008年2月24日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (56)

うむう、まだ「インランド・エンパイア」の国内版DVDを観れてない、休日出勤中の大山崎です(笑)。どっかでタイプスタンプを国内版DVDのものに変えるか、「スクリプト」のカット番号に変えるかしたいんですけどね。もちっと暇ができたら、一挙にやるかなあ。それまでは、当面、北米版DVDのタイムスタンプのまんま行きます。

……ってな話はおいといて。んでは、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続きをば。今回は(2:01:35)から(2:05:17)までを、煮たり焼いたりしてみるです。

このシークエンスにおいて提示されているものをざっくり言い表すなら、老人たちによる「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」への「介入」である。具体的な映像の舞台は「バルト海地方のどこか」にある「家」の中であり、「ロスト・ガール」を挟んで四人の老人たちとピオトルケとの会話を中心にシークエンスは進む。

このシークエンスを「インランド・エンパイア」全体のなかで位置付けるとき、いろいろな「連鎖」のうえで捉えることが可能であるように思われる。もし仮に「時系列」的に理解するなら、(1:53:57)から(1:56:32)までのシークエンスとの「継続性」をみてとることが可能だ。つまり、老人とピオトルケによる「ファントム」の捜索が失敗に終わったその後、という見方である。あるいは編集面からみた場合、前回取り上げた「建物」のシーン(2:01:03)からこのシークエンスの頭まで、リンチ作曲の「Woods Variation」がサウンド・ブリッジとして流されており、この二つのシークエンスが関係性をもって理解されるべきものであることが明示されている。すなわち、「ファントム」の姿が「アメリカ」「ポーランド」「バルト海地方」のいずれからも消えてしまったことが、老人たちによる「介入」を発生させるという「連鎖」の上にあるわけだ。

しかし、その一方で、発生している事象を中心にしてみた場合、スー=ニッキーと「ファントム」の邂逅シーン(1:59:27)と「対置」関係にあるものとして、このシークエンスを捉えることが可能だろう。このシークエンスで老人たちがピオトルケに手渡す「ピストル=物語展開の要請」は、「スミシーの家」の隣家の裏庭で「ファントム」がスー=ニッキーにもたらす「スクリュー・ドライヴァー=心理展開の要請」と対になるものだからだ。それは、そのまま「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」を「コントロールするもの」としての「ファントム」と「老人たち=ウサギたち」の「対比」につながるとともに、そうした「もの」を受け取る側がスー=ニッキーとピオトルケであることの「対置性」……「女性と男性」「妻と夫」という「対置性」を読み取ることも、あるいは可能かもしれない。

というような作品内におけるこのシークエンスの位置付けを押さえたうえで、何はともあれ、まずはこのシークエンスにおける台詞を(ちょっと長いが)ひととおり引用しておくことにする。

ロスト・ガール: There's someone there... I have to tell you... There's someone...
老人2: Do you recognize her?
ピオトルケ: I don't see her...
老人2: You understand she sent for you?
ロスト・ガール: I don't know where I am...
ピオトルケ: I hear her now...
老人1: Do you see her?
ピオトルケ: (ロスト・ガールの方を見ながら) No.
老人3: It was...  red...
老人2: (ピオトルケの方を向いて) You work for someone?
ピオトルケ: (ロスト・ガールから老人2に視線を移して) No.
老人2: (ピオトルケを見つつ) This is the one who she spoke of.
ピオトルケ: The one I work for.
老人2: So... you understand.
老人4: The horse was taken... to the well...
老人2: Take the pistol...
老人1: (ピオトルケに) Let's go!
老人?: (画面外から) Right away! It's after midnight!

「Rabbitsの部屋」におけるウサギたちの会話ほどではないにせよ、彼らの会話も少しくコンテキストを混乱させているようだ(我々が現実に交わす会話は、ひょっとしたらもっと混乱しているのかもしれないが)。整理する意味で、とりあえずリニアにつながっていると思われる会話を抜き出すとすれば、まず挙げられるのが……

ロスト・ガール: There's someone there... I have to tell you... There's someone...
老人2: (ピオトルケの方を向いて) You work for someone?
ピオトルケ: (ロスト・ガールから老人2に視線を移して) No.
老人2: (ピオトルケを見つつ) This is the one who she spoke of.
ピオトルケ: The one I work for.
老人2: So... you understand.

……という部分である。このコンテキストにおいて老人2が示唆するものを端的にいうなら、「誰かがそこにいた」と「ロスト・ガール」が言うその「誰か」とはピオトルケを「使役」していたものとイコールであり、つまりは「ファントム」であるということだ。示唆を受けたピオトルケは、それを理解する。ピオトルケの理解した様子を見てとって……

老人4: The horse was taken... to the well...

……という発言がなされる。以前にも述べたように、この発言は「サーカス」の場面で「馬とピオトルケ」が並立している映像(1:46:41)を補完するものだ。井戸に連れてこられた「馬=ピオトルケ」がそこで水を飲むかどうかは任意であり、彼が「動物=自律性を保持しながら、他者のコントロールを受ける存在」であることを、その「任意性」が明確に表しているといえる。

とことで「ロスト・ガール」は、いったいどこで「誰か=ファントム」がいることを認識したのか? 「誰かが"そこ"にいる」という「そこ」とはいったいどこなのか? その答はおそらく得られない。以下の台詞が表すように、彼女は既に「時間」に対する見当識だけでなく、「場所」に対する見当識をも失っているからだ。

ロスト・ガール: I don't know where I am...

これは明白なリフレインである。我々は、他の登場人物たちによって、同じような「場所に対する見当識の失当」を表す発言がなされるのを何度も耳にしたはずだ。

顔のない女性: Where am I? I'm afraid. I'm afraid......(0:02:54)
訪問者1: Oh. Where was I? (0:16:08)
スー(A): (顔を歪めて) Where am I? I'm afraid! (笑う)(2:07:39)

「ファントム=映画の魔」に魅入られ「同一化=感情移入」を果たした末に、彼女たちは自分のいる「場所」や「時間」を見失う。「映画」という「感情移入装置」に身を委ねるということは、そうした一時の「混乱」を享受することと同義である。受容者が感情移入した結果、まったくの他者である「登場人物」に「成り切る」……行ったこともないような「場所」や異なった「時代」に住む、ひょっとしたら「性別」すら違う人物に同一化する……それは見方によっては、受容者が意図的に「自己同一性」を放棄し、自らのアイデンティティを「混乱」させることに他ならない。それは見方によっては相当に「胡散臭い」ことであり、それに対する無意識の抵抗が「こわいわ(I'm afraid)」という言葉に表されているといえる。だが、同じ言葉をスー(A)が笑いながら発することに表されるように、保証された「安全」を前提にして、我々はそうした「恐怖」すらをも楽しむのだ……あたかも、「精神的なジェット・コースター」を楽しむかのように。

(長くなったんで、続いたりなんかする)

2008年2月22日 (金)

「リンチ1 LYNCH (one)」を観た

というわけで、「リンチ1 LYNCH (one))」をば観終わったです。

うーん、もちっと「インランド・エンパイア」の撮影風景の映像があるかと思ってたんですけどね。ちょっと違ったな。どちらかというと作品のメイキングというよりは、映像作家としてのデイヴィッド・リンチに迫る……というような内容でございました。

とはいえ、個人的にいちばん印象に残ったのは、「インランド・エンパイア」製作の合間にリンチがみせる、苦悩し悶絶する姿だったりするのな。自身は「楽しくなきゃダメ。苦しんだら作品にその苦しみが出てしまう」とか言ってるんですけどね。言うは易く、ってことなんでしょか(笑)。決められた時間に姿を見せなかったスタッフと電話でやりとりしたあと、ドキュメンタリーの撮影スタッフが心配になって声をかけるほど長い間、がっくりとうなだれたままでいるリンチの姿は、非常に生々しくて「衝撃的」といってもいいぐらいでありました。どれぐらい重要な作業が予定されていたのかはわからないけど、来なかったスタッフとの電話でのやりとりを聞いてると、本当にリンチが途方に暮れていることがヒシヒシとわかる。本当にうまくまとまるのかどうか不安にかられ、「どんな作品になるのやら」とか「お手上げだ」とか弱音をはくところなんか、五里霧中な感じがリアルに伝わってきてヴィヴィッドにアウフヘーベンな感じ(いや、よくわからんが)。こんな寄る辺ない子供のようなリンチの姿はちょっと今まで目にした記憶がなく、そういう意味では貴重な映像なのかも。「インランド・エンパイア」の特殊な製作過程が、リンチ自身にもかなりのプレッシャーになっていたことが随所に表れていると思いましたよ。何度も何度も、繰り返し「実験」と発言してますしな、リンチ。

また、「ポーランド・サイド」の「夜のストリート」の撮影シーンで、「ロスト・ガール」役のカロリーナ・グルシュカと「ファントム」役のクシシュトフ・マイフシャクに演技をつけている映像収録されているのだけど、二人に対するリンチの演技指導のアレコレは、ある意味で「インランド・エンパイア」に関する理解の手助けになるものじゃないでしょか。(あくまで)「ポーランド・サイド」において「ファントム」は「実在するもの(solid)」であり、その一方で「ロスト・ガール」にとっては「ポーランド・サイド」で起きる事象はすべて「夢の中の出来事のよう」であるっつーことですね。「セリフにはすべて意味があり、単なる会話ではない」と明言してらっさいますね。言い切っちゃいましたね、御大てば。もひとつ、おそらくローラ・ダーンが「ロコモーション・ガール」に誘われて「ポーランド・サイド」の「ストリート」に立つシーンでは、キー・ワードのひとつともいえる「ここはどこ?(Where am I?)」という言葉がリンチとダーンの間で交わされておりました。あのシーンでは実際には「台詞」としてこの言葉は表れてないのだけど、ローラ・ダーンの演技そのものがそれを「語っている」わけですね。なるほどね。

「インランド・エンパイア」の撮影現場で、リンチから「ジェイ」と呼ばれているスタッフは、おそらくアソシェイト・プロデューサーのJey Aasengさんでありましょーか。「アルフレッド」と呼ばれているのはコストラクション・コーディネーターのAlfredo Ponceさんでございますね。「ピーター」っていうのはPeter Demingさんですか? もう一人、「Tidbit」と呼ばれていた女性の方がよくわかりません。記録係かなんかの方なんでしょか。床に波模様のシールを貼る作業にリンチ御大自ら出張ってましたが、キャスト表をみてみるとキッチリ「大道具係」のところに御大の名前があるのには笑わせていただきました……笑いつつよくみると、御大だけじゃなくて先程のジェイさんとか、オースチン・リンチ(長男)とかライリー・リンチ(次男)の名前まで「大道具係」のリストにあるでないの。家内制手工業ですがな(笑)。そういや、お姉ちゃんのジェニファーはどーした(笑)。「Surveillance」の撮影で忙しかったのかや?

あと、興味深かったのは「カーニバル」や「サーカス」についての言及でしょーか。日本語字幕ではかなり端折られてたけど、「カーニバル」や「サーカス」が備える「魔法と謎(magic and mystery)」についての発言があったりして、おそらくこの「魔法」は「映画の魔法」と重なるものなんではないかと愚考したり。大山崎としては、どうしてもフェリーニからの影響を思ってしまったりなんかするんですが、どんなもんでしょね。リンチが「ベスト」といっていた「ジンガロ(Zingaro)」は、正確にいうと「サーカス」というよりは馬を使った芸を見せる、文字通りの「騎馬劇団」っつーか「騎馬オペラ」っつーか「曲馬団」なのね。なるほど、そんで「ピオトルケと馬」なのだなあ。「ジンガロ」は過去に日本講演もあったみたいで、日本語の公式ページもまだ残っておりました。紹介映像もあるみたいなんで、興味がある人はぜひ、どーぞ。それと、「インランド・エンパイア」の「サーカス・シーン」の映像として使われているのは、CYRK ZALEWEKIさんとこの「サーカス団」であるようなのだけど、なんとこのサーカス団の映像がYouTubeにありやがりましたよ、ブレブレの揺れ揺れでちょっとみにくいけど。他にも何本かあるみたいで、白い馬が出てくる映像もそれっぽいんだけど、「インランド・エンパイア」に出てたのと「同一馬」なんですかねえ(笑)。

つな感じでございましょーか。なんか思いついたら、また。

2008年2月21日 (木)

「インランド・エンパイア」国内版DVD発売! っつーとことで

風邪気味だっていうのに、「インランド・エンパイア」の国内版DVDが本日アマゾンから到着。

いや、これ、特典の「冊子」……っていうより「書籍」がスゴいわ。「スクリプト」が掲載されるといってたけど、どーせ部分掲載だとばかり思ってました、ワタシが悪うございました、スミマセン。いやー、最初から最後までぜーんぶ載ってるんだもんなー。リモコン片手にGO-STOPをかけつつ、二週間かけて北米版DVDからトランスクリプトを作った大山崎の立場は、いったいどーなるのでしょーか(笑)。

……というよーなワタクシごとはおいといて、過去のリンチ作品に関して、このような「スクリプト」が公式に提供されることはなかったので、正直いってかなり驚いてる。今後、「インランド・エンパイア」からの映像を引用する場合、このシナリオのカット番号を引用していけばいいわけで、非常に議論はやりやすくなったのは確か。このような共通の基盤がないと、なかなか噛み合った議論が成立しないのがリンチ作品の常だったんで、そういう意味ではこれはマジで快挙といっていいんではないですかね?

まだ買ってないんなら、通常版じゃなくて、ちょっと高いけど「インスタレーション」の方を買え! とマジでお勧めしておきます。

とかいいながら、本編をほったらかして、イソイソと「リンチ1」をばプレイヤーにセットする大山崎なのでありました(笑)。

2008年2月18日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (55)

毎度毎度の「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」についてなど。今回は(1:59:27)から(2:01:35)まで。

この部分における直前のシークエンスからの「イメージの連鎖」は非常にわかりやすく、「ナラティヴなもの」と呼びたくなるような具象的な「因果律」を備えているとすらいえる……「訪問者2」に示唆されて、スー=ニッキーが隣家に「クリンプ=ファントム」を訪ねるわけなのだから。あるいは、リンチ作品における「半具象性」の表れと捉えることも可能なのかもしれない。

ともあれ、このシークエンスは、まず「Mr.Kのオフィス」で話すスーのカットで始まる。

スー: (沈黙の後) It was a... funny name. They was called "Krimp."

台詞としてはこれのみで、ほとんどブリッジに近い短いカットだが、一瞬でもここで「効率的な物語進行」のイメージが差し挟まれることは、「訪問者2」による「来訪」によって「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語」が回復したことを表すものといえるだろう。

それに続いて提示されるのは、スー=ニッキーと「ファントム」の邂逅の具体的映像である。「ファントム」が「ストリート」から「家」のレベルに、それも「スミシーの家」の「隣家」に達していることが明確に提示され、「ポーランド・サイド」の「家」から始まった「ファントムの侵入」が最終目的地に近づきつつあることも明らかになる。その場所が隣家の「裏庭」であることは、この邂逅が「公的なもの」と「私的なもの」の狭間にあること、あるいは「外界」と「内面」の境界線にあること、「普遍」と「個別例」の中間地点にあることを示している。このシークエンスによって表されるものも、これまた「個別例」が「普遍」のなかに呑み込まれ「抽象化」していく過程であると捉えられることを考えると、この場所の設定自体にも意味があるといえるだろう。

このシークエンスにおけるスー=ニッキーの服装が、以降の「ハリウッド・ブルバード」におけるシークエンスのものと同一であることをまず指摘しておきたい(全編をとおした「Mr.Kのオフィス」での服装とも同一である)。この服装時のスー=ニッキー関連のシークエンスは基本的に「ストリート」に属するものであり、このシークエンスで彼女がこの服を着用しているのは、「家」から「ストリート」への移行の明らかな兆候である。それを裏付けるように、これ以降(2:06:24)から始まるスー・ニッキーに関連するシークエンスは、しばらくの間「ストリート」に属したものになる。つまり、「ロスト・ガール」と同じく、スー=ニッキーもまた、「ファントム」との邂逅によって「ストリート」に降りていくことになるのだ。

スーあるいはニッキーを「ストリート」に誘導するという点で、「ファントム」と「ロコモーション・ガール」は「共通項」をもつのはいうまでもないだろう。ただし異なっているのは、「ロコモーション・ガール」がニッキーを「ポーランド・サイド」の「ストリート」に誘導したのに対し、「ファントム」は「アメリカ・サイド」の「ストリート」へ導くことだ。この「誘導するもの」と「誘導されるもの」の間には、明確な「普遍」と「個別例」のクロスがみられる。図表にまとめてみると、こういう具合になる。

普遍と個別の対応
普遍個別例
ファントム ロコモーション・ガール
ロスト・ガール スー=ニッキー
ポーランド・サイド アメリカ・サイド

演技者=ニッキーの個人的な「情緒の記憶」である限りにおいて「私的」なものであり、本来は「個別例」に属するものであるのは間違いない。それに対し、映画というメディアに「偏在するもの」であるという意味において、「ファントム=映画の魔」は「公的」で「普遍」に属するものだ。また、「ポーランド・サイド」は受容者の抽象概念を表すロスト・ガールに属する「普遍的なもの」であること、逆に「アメリカ・サイド」の「ハリウッド・ブルバード」は演技者=ニッキーの「私的」なものに属すると捉えて差し支えないだろう。以上のことを考えると、スー=ニッキーに関する限り、「導くもの」と「導かれるもの」の間に「普遍」と「個別例」のクロスした関係、あるいは「捻れ」が発生していることがみてとれる。

スー=ニッキーを「アメリカ・サイド」の「ストリート」に導く直接契機になるのが「ファントム」であって「ロコモーション・ガール」でないこと(一緒になって「ストリート」に立ってはいるが)は、「インランド・エンパイア」における「個別例の普遍化」の描かれ方として、重要な意味を持つのではないかと思う。ここでいう「普遍化」というのは、要するに不特定多数の受容者による「同一化=感情移入」と同義だからだ。

「ファントム」が口にくわえている「赤い電球」が表すものについては、すでに「青」が表すものとの対比として述べた。それが表すものは、この時点での「」における「心理展開のエスカレーション」の「物語展開のエスカレーション」に対する「優位性」である。「因果律」や「論理」が、「感情」や「混沌」に呑み込まれているのだ。スー・ニッキーが彼によって「ストリート」に導かれるのは、まさしくこうした「ファントム」の特性に触れてのことに他ならず、スー・ニッキーは彼と出会い、その存在に脅かされて「スクリュー・ドライヴァー」を手にする。この「悪意」を表す「スクリュー・ドライヴァー」が、彼への「恐怖」によってもたらされるのは、非常に興味深いといわざるを得ないだろう。ある意味で、スー=ニッキーをはじめとする女性たちが互いに「悪意」を抱くのは、夫や愛人を失う「恐怖」からの自己防衛でもあるからだ。くわえて、スー・ニッキーもピオトルケと同じく、「ファントム」に「コントロール」され「使役」される「動物=自律性を保持しつつ、他者のコントロールを受けるもの」であることが明示されるのである*

スー=ニッキーに「スクリュー・ドライヴァー」を「引き渡した」あと、「ファントム」の姿は「隣家の裏庭」から消える。その「不在」は、直後に提示される「ポーランド・サイド」の映像によっても強調される。「ポーランド・サイド」の「夜のストリート」からズームでクロースアップされる(「ロスト・ガール」の「家」がある)「建物」の「入り口」は、誰の姿も見えず空虚である。「ファントム」は、ここには戻っていない。では、はたして彼はどこへ行ったのか……もちろんそこは「インランド・エンパイア」であるわけだが、それが具体的映像として明らかになるのは、もっと後のシークエンスになる。

*該当するシークエンスの回で述べるつもりだが、スー=ニッキーがそうであるように、「ロコモーション・ガール」たちも「ファントム」の影響を受けている。彼女たちがスー・ニッキーの「内面」に属するものである以上、スー=ニッキーが「ファントム」に「魅入られた」なら、彼女たちもそれを免れないのだ。

2008年2月14日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (54)

というわけで、ドコでナニを書いたか自分でもわからなくなり始めたので(笑)、カテゴリーをちょいと変えてみました。そのうち、インデックス・ページでも作るかな。

それはおいといて、まったりと進行中の「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる日々であったりする。今回は(1:57:03)から(1:59:27)まで。

直前のシークエンスで提示されたような「ファントム」による「介入」、そしてその結果として表れ始めた「演技者=ニッキー」の混乱は、当然ながら看過されるものではない。「工業製品」としての「映画」は、可能な限りの「コントロール」下に置かれるからだ。直ちに修正のための「再介入」が、「訪問者2」による「スミシーの家」への突然の「来訪」という形で行われる。このシークエンスで提示されているのは、「訪問者2」によって、どのような「介入」が行われるかである。

「訪問者2」が付随させる「コントロール」のイメージに関しては、以前にも述べたとおりだ。何よりも明瞭なのは、その左手にはめられた男物のごつい「腕時計」である。「時間に対するコントロール」を表すこの「腕時計」の映像は、見逃しようもないほどの存在感で提示される。また、彼女の台詞にある「払われていない支払いの話をしにきた(I come about an unpaid bill that needs paying)」の意味についても、詳しく説明する必要はないだろう。このシークエンスをみる限り、「訪問者2」がまず目的としているのは、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」における「伏線の回収」を含めた「因果律」の回復、つまり遅滞し破綻しそうな「ナラティヴ」の修復であるようにみえる。

ただし、「訪問者2」がスー=ニッキーに与える示唆は、非常に漠然としたものである。彼女は「コントロールするもの」ではあるが、おそらく、そのコントロールは間接的(あるいは抽象的)なものにならざるを得ないのだ。「訪問者2」が訪れた場所が「スミシーの家」という人間の「内面」であり、彼女が「外部」からそこを「訪れた者(Visitor)」である以上、それは当然であるともいえるだろう。「ロコモーション・ガール」たちとの「会話」と同様、「訪問者2」の「訪問」も、スー=ニッキーの「内面」で発生している事象なのである。

また、「訪問者2」によるこの「訪問」が、作品の開巻早々に提示された「訪問者1」による「訪問」(0:08:50)と「共通項」をもち、対置されるべきものであることも明瞭である。訪問先が「ニッキーの邸宅」であるか「スミシーの家」であるか、きちんとした身なりの老婦人であるか若い浮浪者(娼婦?)であるか、東欧訛りで饒舌であるか訥々とした米語であるか、自信たっぷりであるか落ちつかなげであるか……以上のような対置関係にある「相違点」はあるものの、この両者は「間接性」「外部性」のイメージを付随させている点において、「共通項」を備えているのだ。

それはさておき、混乱しているスー=ニッキーに、付随した「コントロール」のイメージを示しつつ、「訪問者2」は「二人の男たち」に関して言及する。この前後の一連の台詞を引用してみよう。

訪問者2: I come about an unpaid bill that needs paying.
スー: All right.
訪問者2: (沈黙したあと) Do you know the man who lives here?
訪問者2: (画面外から、ささやき声で
) Do you know him?
スー: Yes. What is it? What do you want?
訪問者2: It is an unpaid bill that needs paying.
スー: Y--You already said that. Uh...
訪問者2: Do you know the man who lives next door? "Krimp" is the name.

「訪問者2」の言う「一人目の男」がピオトルケを指すことは、まず間違いないだろう。「ここに住んでいる(who lives here)」の「ここ」とは、「スミシーの家」を指しているとしか考えられないからだ。「彼が誰だか知っているか?」という投げかけに対し、当然、スーは「Yes」と答える。だが、本当にスーがピオトルケが何者であるか知っているかどうか、はなはだ疑わしいと言わざるを得ない。なぜなら、ピオトルケ自身が言うように、彼は「お前が考えているような者ではない!(I'm not who you think I am!)」(2:16:21)のだから。

では、ピオトルケは本当は何者で、スー=ニッキーは彼を何者と理解しているのか? 他の登場人物と同じように、ピオトルケによって表される「もの」にも、多層的な側面や意味がある。

(1)ニッキーの「情緒の記憶」に沿って構成された、「サーカス=組織」という「公的」なもののなかで権力を争い、「使役」される存在
(2)「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」のナラティヴのなかで具象的存在として捉えられる、「子供を作れない男」であり「妻の不倫=トラブルに気づく夫」としての存在
(3)「受容者の抽象的存在」である「ロスト・ガール」の「夫」、つまり(ニッキーやスーの夫を含めた普遍的な)「夫の抽象的概念」としての存在

当然ながら、この時点では(3)の「夫としての抽象概念としての存在」という認識にまで、ニッキー=スーは至っていない。ニッキー=スーが理解しているのは(1)ないし(2)のピオトルケ(もしくは両者が複合されたもの)であって、それ以上の理解に彼女が(あるいは我々が)到達するには、いま少しの「過程」が必要とされる。「インランド・エンパイア」において、その決定的な提示は、「スミシーの家」における「『ロスト・ガール』とピオトルケの抱擁」シーン(2:49:27)まで待たなければならない。

続いて、「訪問者2」は「二人目の男」……つまり、「スミシーの家」の隣家に住む「クリンプ(Krimp)」と呼ばれる男のことに言及する。その「クリンプ」が「ファントム」のことであることは、この直後のシークエンスにおいてあっさり提示されるわけだが、要は「訪問者2」はスーに向って「映画の魔=ファントム」について言及しているのだ。しかし、なぜ「訪問者2」がそのようなことをするのか? そもそも彼女の介入自体が、「ファントム」の介入による影響に対して行われているのではなかったのか? 彼女が「ファントム」に言及した結果、スー=ニッキーが彼に会いに隣家を訪ねることは予測される事態であったはずで、これでは「訪問者2」は「ファントム」の介入を是認しているかのようにすらみえる。

だが、むしろこれは、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対して行われる「コントロールのイメージ」が付随させている「間接性」の表れとみるのが妥当であるように思う*。「ウサギたち=老人たち」の「最終的なコントロール」は、「ファントム」に対して直接は行われない。それは「拳銃」をピオトルケ経由でスー=ニッキーに渡し、彼女がそれを使用することで実現される。その一方で、「ファントム」の「最終的なコントロール」も、直接には行われない。それは「スクリュー・ドライヴァー」をスー=ニッキーに渡し、彼女がそれを使用することで実現される。同じように、「訪問者2」による「介入」も、スー=ニッキーによってしか具体的に実現されないのだ。

……などというようなことを考えあわせると、いささか循環論法的ではあるが、「訪問者2」による「訪問=介入」の「真の意図」がそれなりにみえてくる。彼女の「介入」は、「物語の修復」のみを目的としているわけではない。彼女が意図しているのは、「物語展開」と「心理展開」間の「バランスの回復」であり、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の結末に向けた両者の「連動したエスカレーション」なのだ。そのためには、どこかでスー=ニッキーが「ファントム」に会い、彼から「最終的な心理展開のエスカレーション=スクリュー・ドライヴァー」を受け取らなくてはならない。

*「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「外部」では、老人と「ファントム」との会話(0:07:28)といった「直接的接触」が発生している。

3/4追記:ずっと見逃していたのだが、スー=ニッキーと訪問者2がソファに座って会話をしている間、スー=ニッキーの後ろに「スミシーの家」の壁に掛けられた「時計」がずっと映されている(1:58:13)。訪問者2の訪問の意味と性格、そしてその結果スー=ニッキーが受けた影響を物語る映像だといえるだろう。また、訪問者2が着用している腕時計は、初めてスー=ニッキーが「スミシーの家」の小部屋で「シルクの布に開けた穴」を覗くときに着用していたのと同一の物である(1:17:03)。

2008年2月11日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (53)

どうにもこうにも「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる冬の日々なのであった。今回は(1:56:32)から(1:57:03)まで。

とりあえずは、このシーンにおいて提示されている具体的な映像をみてみよう。

(1)「笑っている道化師(clown)」のポスター。ズーム・アウト。(ディゾルヴ)
(2)黒いTシャツに黒のハーフ・パンツのスー=ニッキーが、夜の林の中の小道を歩いている。彼女を捉え続けるスポット・ライト。カメラに近づいてくるにつれ、彼女の歩くスピードは早回しで速くなり、やがて画面いっぱいに彼女の顔が映ったところで止まる。暗くなる照明。

このポスターの「道化師」が、直前のシークエンスで言及されている「サーカス団員」からの「連鎖」として表れていることは理解できるはずだ。「Mr.Kのオフィス」でスーが言及するように、彼らは「サーカスの糞道化師ども(A lot of them fucking circus clowns)」であるのだから。もちろん、このスーの発言は「比喩的」なものであり、彼らを揶揄する意図のもとに行われたものである。特定の「道化師たち」を指しているわけではなく、「見世物芸人、ジプシー、詐欺師(carnies, gypsies, con men)」という発言(1:46:08)と同じく、その対象は「サーカス団に所属するもの全員」であるということだ。つまり、その「糞道化師ども」のなかには、「ファントム」も含まれるわけである。

そう考えるとき、この「道化師のポスター」のカットの提示は、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」への「ファントムの侵入」を表すものとして理解可能である。そして、「ファントム」がいろいろなものの「コントロール」に……特に「演技者」であるニッキーに影響を与え始めているということが、ディゾルヴでつなげられる「夜の林道をさまようスー=ニッキー」の映像によって提示される。このシーンにおける「周囲も見えない暗闇の細い道」と「スーの奇妙な足取り」、そして「アップになったスーの表情」が伝えるメゾンセンは、演技者=ニッキーの「混乱」、そして「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対する「コントロールを失うことの恐怖」を伝えている。

だが、「インランド・エンパイア」に「道化師」のイメージが映像として現れるのは、このシークエンスにおいてのみではない。たとえば……

(A)メイク中のニッキー(0:40:59)
(B)崩壊する途中の「ファントム」(2:45:29)

……の2個所に、漠然とした形ではあるが、「道化師」のイメージは現れている。

(B)の「ファントム」の映像に関しては、現在述べているシークエンスに表れる「ポスターの道化師」とストレートにつながるものとして理解できるはずだ。ただし、(B)で提示される「道化師」のイメージは、スーの発言にあったような「揶揄の対象」ではない。ここで提示されているのは、「サーカス」を「メディア」あるいは「映画」と捉えたとき、「道化師」が何を表すかである。つまり、「サーカス」と「道化師」の関係が、「映画作品」と「演技者」の関係に重ねられ、複合しているわけだ。現実には存在しないはずの「架空」の登場人物になりきることができ、その内面をすら「捏造」する「演技者」のイメージが、厚く塗られた白塗りの化粧の下にその素顔を隠す「道化師」のイメージに重ね合わせられる。(A)のメイク中のニッキーに「道化師」のイメージが感得されるのはまさしくそういう理由であり、これはニッキーの内に「ファントム」と同様のものが内包されていることの提示につながる。もちろん、それが(「ファントム=映画の魔」と並んで)「心理展開のエスカレーション」を司ることで「感情移入=同一化」を誘うものであり、「ロコモーション・ガール」として表される「情緒の記憶」である。

表現を変えよう。(B)の「ファントム崩壊」のシーンで提示されている「道化師」のイメージは、彼の「映画の魔」としての「本質」の一側面である。ときとして「揶揄的」に扱われると同時に、観る者の内面を操る「恐怖」の対象としても受け取られる「胡散臭いもの」だ。しかし、(A)のニッキーの映像が表すように、これらの「ファントムの本質」は、「演技者の本質」の一側面と重なっており、この両者は、一種の「類似性」あるいは「共通性」を備えているといえるのだ。そして、「ファントム」が、登場人物=スーを通じて演技者=ニッキーの「内面」に入りこむことが可能になる理由は、「映画の魔」と「演技者」をむすぶこの「類似性」と「共通性」に他ならない。それは演技者が持つ「同一化=感情移入」の能力に起因するものであるわけだが、同時にニッキーの「混乱」と「恐怖」の原因にもなっている。演技者の「情緒の記憶」の投影先であり「同一化」の対象であったはずの「登場人物」や「作品」が、当の演技者の「情緒」そのものを動かし始めようとしているのだ。

だが、別な見方をするなら、こうした「混乱」は、作品が「自律」し、「普遍性」を獲得したことと同義なのではないだろうか? この「普遍性の獲得」は「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」で描かれる「機能しない家族=トラブル」の普遍化と抽象概念化を引き起こし、その抽象概念のなかにニッキーが抱える具体的な「トラブル」もまた、「個別例」のひとつとして飲み込まれていくのである……「ファントム」によって喚起された受容者=ロスト・ガールの「トラブル(の記憶)」が、すでにそこに飲み込まれてしまったのと、まったく同じように。

2008年2月 9日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (52)

「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をどーたらこーたらとたぐる日々は、依然として続くのであった。やや細切れ気味に、今回は(1:53:57)から(1:56:32)までをば。

このシークエンスで提示されるのは、雑駁にいうと、バルト海地方を巡業中の「サーカス」から「ファントム」が姿を消した後のことである。いうまでもなく、これは直前のシークエンスで登場した「ファントム」からの「イメージの連鎖」として喚起されており、非常にわかりやすいものだといえるだろう。このシークエンスでは、ファントム自身の姿はまったく現われないが、その「欠落」こそが問題とされているのはいうまでもない。また、後に表われる(2:01:35)から(2:05:13)のシークエンスと連続性があるものとして受け取ることが可能だが、こうした表面上の時制的な連続性は重要ではないといえる。同時に、「Mr.Kのオフィス」でスーが語った「酒場で乱闘騒ぎを起こし、逮捕されたサーカス団員たちのその後」について(1:46:54)を表すシークエンスでもある。念の為、スーの台詞からこのシークエンスに関連する部分を再度抜き出しておこう。

スー: They all called him The Phantom. (沈黙) He got in a barroom fight one night. All the bar was arrested. A lot of them fucking circus clowns. So when they take'em all down to the station... guess what. The Phantom's done gone and disappeared.

さて、この「酒場での乱闘騒ぎ」が表すものをどう読み取るべきだろうか? 「サーカス」を「組織」を表わすものとして捉えるなら、文字どおり「組織」と「組織」の対立と読み取ることも可能だ。当然ながら、スーの女性としての視点は揶揄的であり、この「乱闘騒ぎ」自体を「幼児的なもの」とみなしている。それは彼女が(本音の部分で)団員たちを指して「サーカスの糞道化ども」と呼ぶことにも表われているといえるだろう。最終的にこの「乱闘騒ぎ」は「官憲」という「コントロールするもの」の介入を招いたわけだが、この「官憲」は、「老人=ウサギ」というまた別の「コントロールするもの」……つまり、「メディア」「映画」としての「サーカス」を「コントロールするもの」のイメージと複合していく。であるからこそ、「欠落」した「ファントム」を捜す主体は「老人」になるのだが、これについては後述することにする。

このシークエンスにおいて、まず具体的な映像として提示されているのは、以前にも触れた「移動する自動車のウィンド・シールド」越しの林道のショットである。ここで改めて指摘しておきたいのは、このシークエンスの「自動車内部からのショット」が、(1:38:55)や(1:18:00)の「ポーランド・サイド」や(1:49:43)の「アメリカ・サイド」と対置されるものとして、敢えていうなら「バルチック・サイド」として捉えられることだ。そして、「ポーランド・サイド」と「アメリカサイド」がそれぞれロスト・ガールとスーに属するものといえるのに対し、この「バルチック・サイド」はピオトルケに属するものといえるだろう。この三者の関係性を「妻の抽象概念」と「夫の抽象概念」の関係と考えるとき、この三つの「場所」の「車中からのショット」が並列的な提示になっている理由が明確になる。

車中のシーンを含めたこのシークエンス全体において、主導権を握っているのは「コントロールするもの」としての「老人」であるのは間違いない。彼は「インランド・エンパイア」の冒頭でファントムと「オープニング」に関する会話を交わしていた人物である(0:07:28)。この会話の場面でも「コントロール」は「老人」の手にあるといえるのだが、詳細は当該シークエンスの際に述べよう。同じように、ファントムに対する捜索の主体も明らかに(ボディ・ガード兼任と思しき屈強な運転手に付き添われた)「老人」にあり、ピオトルケはその道案内役として「利用・使役」されているに過ぎない。こうした描写を通じて明瞭であるのは、直前のシークエンスで明らかになった「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」への「映画の魔=ファントム」の侵入と「コントロールの侵害」に対抗して、今度は「老人=ウサギ」による「コントロール」を取り戻すための「介入」が始まったということだ。

その捜索の果てに辿りついたのが、林の中にある何軒かのガレージ様の小屋のうちのひとつである。この小屋が果たしてどういう場所であるかの具体的な説明はない。「サーカス」団員の仮住まいであるのか、緊急時の集合場所であるのか、正確なところは定かではないのだ。しかし、小屋のそばを歩く「黒い鶏」のカット(1:55:16)が、この場所の性格を表わしている。そこは、「動物=自律性を有しながらコントロールを受けるもの」がいる場所である。それを裏付けるように、小屋の中からサーカス団員の一人であるゴーディが姿を現わす。「ピオトルケと馬」が並列したカットが両者の「等価性」を表すように、「鶏」と「団員」も「動物」として「等価」であるわけだ。ピオトルケはゴーディに「ファントム」や「他の団員」の行方を尋ねるが、「ファントム」が抜けて崩壊してしまった「組織=サーカス」は、もはや彼らをつなぐ紐帯とはなり得ない。ゴーディはピオトルケに向かって罵倒に近い言葉を浴びせかけ、彼自身も自暴自棄であるようにみえる。その「心境」を表すかのように、ゴーディが投げ捨てるのは「赤い」プラスティックのカップだ(1:55:27)。「物語」の放棄、つまりは「因果律」や「論理性」の放棄である。

ゴーディ: What do you want?
ピオトルケ:  (あたりを見回しながら) Where is he?
ゴーディ: What's the point? Are you blind? He's gone!
ピオトルケ: (後方の老人をを振り返りつつ) Everybody?
ゴーディ: (何かを言いかけてやめる) Why should I answer your stupid questions? (鶏の鳴き声)You're nothing! You done nothing!
ピオトルケ: (動揺して) Where did he go?
ゴーディ: No idea. He talked... mumbled something about Inland Empire.(鶏の鳴き声)

重要なのは、ゴーディが明らかにする「ファントム」の行方である。「なにやら『インランド・エンパイア』についてブツブツ言っていた」……彼の行き先は「そこ」であると考えるのが、もっともストレートな受け取り方だ。同様に、この会話に続く互いを見るピオトルケと「老人」のカット-カットバックからして、少なくとも「老人」が事の次第を知り、「ファントム」がどこに行ったかを悟ったと考えて間違いないだろう。

ここに至って、リンチが「この作品で何を描こうとしているのか」が、そして他ならぬ「この映画のタイトルの表わすもの」が次第に垣間見えてくる。「ストリート」や「スミシーの家」が表すもの、「スミシーの家」の居間で踊る「ロコモーション・ガール」たち、「インランド・エンパイア地区」と「ポモナ(Pomona)」の関係、「ファントム」が「ストリート」を経て「家」のレベルまで達することの意味……これらが総体として表わすものは、「インランド・エンパイア」が「人間の内面」を指すということだ。そして、そこでは「同一化=感情移入」というなんとも不可思議なものが発生し、その「発生を可能とする理由」あるいは「生成のメカニズム」は人間がもつ「感情」に還元されるということである。

そう捉えるとき、以前も述べた、リンチの過去作品(たとえば「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」)と「インランド・エンパイア」のテーマ上の明確な「共通性」……人間の「認知・認識」の問題……が理解できるようになる。「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」において、フレッドやダイアンの「認知・認識」の対象となり、彼・彼女の「感情」によって歪められたのは「彼・彼女の現実=外界」であった。それに対し、「インランド・エンパイア」で受容者=ロスト・ガールや演技者=ニッキーの「認知・認識」の対象となり、彼女たちの「感情」の投影先になっているのは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という「映画作品」、ひいては「登場人物=スーの(架空の)現実」である。この観点に従うなら、これらの作品はすべて作品構造としては同一であり、リンチの描こうとしているテーマは実に一貫しているといっても過言ではない。フレッドやダイアンが自らの「感情」に即して「唾棄すべき現実」を「心地よいもの」に歪めたように、あるいは受容者=ロスト・ガールが「同一化=感情移入」を拠り所に自身に振りかかっているわけでもない「トラブル」を我が事の如く体験するように、人間の「内面=インランド」は、その持ち主が自分の意のままに振舞える「帝国=エンパイア」であるのだ。

2008年2月 7日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (51)

匍匐前進中の「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をしつこく追いかける作業である。今回は(1:49:52)から(1:53:57)までをば。

このシークエンスで主として提示されるのは、「ビリーの屋敷」における典型的修羅場であり、普遍的な「トラブル=機能しない家族」の事象の「個別例」である。つまり、このスーとドリスそしてビリーの間に発生している「トラブル」もまた、「トラブル=機能しない家族」の普遍的抽象概念を構成するピースのひとつとして捉えられるべきものだということだ。それを如実に表すのが、このシークエンスでのスーの台詞に散りばめられた、「インランド・エンパイア」全体を通して繰り返される「キー・ワード」である。いわく「何かがおかしい(Something's wrong)」、いわく「聞いてるのか?(Are you listening?)」……後者に関しては「ポーランド・サイド」の「口髭の男の妻」によって(1:18:46)、あるいは「アメリカ・サイド」のピオトルケによって(2:16:26)、同様の言葉が発せられているはずだ。時と場所を選ばずこうした「トラブル」は普遍的に存在し、そこでは同じような会話がこれまた普遍的に交わされる。これらの「事象=トラブル」は、そこで発生する様々な「共通項」によって、「等価性」と「普遍性」を保証される。

そうした事柄を踏まえたうえで、このシークエンスの前半部分で注意を惹くのが、スーが「ビリーの屋敷」の裏口の扉を開け、邸内に侵入した直後にインサートされる「点滅するコントロール・パネル」(1:50:39)の映像である。非常にあからさまな「コントロール」のイメージに他ならないわけだが*、同時に今まで提示された「コントロール」のイメージとはかなり異質なものでもある。こうした「工業的」なイメージを付随させた「コントロール」は、「インランド・エンパイア」の他の箇所には見当たらない。この「パネルの映像」自体が抽象的なものを表しているのは明らかで、その証左として、具体的な警報が発報されたことを表すような映像はどこにも存在しない。スーの侵入は、まずドリスによって直接的に認められ、そこにビリーと執事が現れる……という経緯だけが、映像によって確実に提示されているものである。

では、この「コントロール・パネル」のインサート・カットは何を表すのか? ここでは、このシーケンス(あるいはこの「トラブル」、もしくはこのスーの行動自体)が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という「工業製品」が内包する「物語の一部分」として、制作側の「コントロール」下にあることを表していると捉えておきたい。前述したように、このシークエンスもまた「機能しない家族の抽象概念」の一部として捉えられるべきものではある。が、同時に、「感情移入装置」としての「映画」である「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」を構成する、具体的な「物語」のパーツでもあるということだ。この点で、このシークエンスにおける「トラブル」は、「ポーランド・サイド」におけるロスト・ガールや「口髭の男の妻」が抱える「トラブル」とは根本的な質的差異がある。見方によっては、その「差異」とはこのシークエンスの「トラブル」が「虚構」であることに尽きるわけだが、その「虚構」がいかにして「現実」との「等価性」を獲得し、「普遍性」を持つのか……というのが「インランド・エンパイア」が描く主たるテーマのひとつであるはずだ。ここでこの「トラブル」の「虚構性」が明確になることは、このテーマ自体を明確にするうえで、有効であるといえるだろう。

ある意味で、こうした「抽象性」と「具象性」の混交……一言でいうと「半具象性」がリンチ作品の特性であるといえる。リンチ作品に施された古典的ハリウッドの編集もそうした「半具象性」の発現に加担しており、「言語化の困難さ」と並んで、これもまたリンチ特有のある種の難解さにつながっている面があるのは否定できない。ただし、いうまでもなく、リンチ作品を具象的に捉えようとすれば、直ちに作品全体を通したパースペクティヴを見失うことになる。

話は戻って、しかし、このシークエンスでもっとも問題になるのは、後半のドリスがスーに平手打ちをくらわした直後あたりからの「イメージ連鎖」である。この部分の具体的映像を並べると、以下のようになる。

(1)「ビリーの屋敷の居間。目を見開いているドリスのアップ
(2)警察署の内部で、背後を振りかえる白いTシャツ姿のドリスのアップ(0:35:36)
(3)ファントムが催眠術をかけるように左手をうごめかしている
(4)腹部から血を流し、床に横たわっている「ポーランド・サイド」のロスト・ガール(1:40:21)
(5)警察署の内部で、後ろを振り返ったままのドリスのアップ
(6)忙しく左手の人差し指をうごめかしているファントム
(7)「ビリーの屋敷の居間」のドリスのアップ。スーのアップ。ドリスのアップ

これらの映像のうち、(1)(2)(3)(4)(5)のカット間はディゾルヴでつながれている。また(7)のカットの終わりはフェイドアウトになっている。また、(2)(4)(5)のカットに併記されているタイム・スタンプは、当該カットが他のシークエンスにおいてに現われたときのものである。

これらの映像によってまず明瞭にされているのは、警察署のシーン(0:34:33)でドリスが刑事に向かって言及した「バーで出会い、彼女に催眠術をかけた男」が、「ファントム」であることだ。彼は「『誰か』をスクリュードライヴァーで殺せ」と示唆し、「誰を殺すのかは、そのうちわかる(he said that I would know who it was)」とも告げるのだが、その殺害対象である「誰か」がスーであることをドリスが悟った……ということも、あわせて明らかにされる。

そして、凶器となる「スクリュードライヴァー」が表すものの一端も、同時に明らかになる。(4)のカットで提示されるロスト・ガールが、「口髭の男の妻」によって「スクリュー・ドライヴァー」で刺されて死んだことは以前のシークエンスにおいて明示されている(1:39:04)。「インランド・エンパイア」全編を通じて何度となく登場する「スクリュー・ドライヴァー」の形状を見る限り、これらはすべて同一のものであり、「共通項」として捉えられるべきものだ。つまり、「台詞に現れるキーワード」などと同じく、ドリスとロスト・ガールそしてスーの三人の女性がそれぞれ「腹部を刺される」という事象の「等価性」や「普遍性」を導くものとして読み取ることができるわけである。このシークエンスで(4)のシーンがインサートされる理由は、まさしくそうした「等価性」にある。

細かい具体的な経緯はともかくとして、これらの殺害・傷害という事象を発生させた「共通項」は彼女たちが抱く「殺意」であり、「嫉妬」「恨み」「悪意」といった「感情」である。「スクリュー・ドライヴァー」は、そうした「感情」を目に見える「映像」として表したものだ。それを補強するのが(7)で提示されるドリスとスーのカット・バックである。彼女たちは互いを「感情をぶつける対象」として認識している。警察署でのシークエンスで提示された「ドリスの腹部に刺さったスクリュー・ドライバー」が表すように、ドリスもまたスーの言動によって傷ついているし、スーに対して「殺意」や「悪意」を抱いているのだ。もちろん、その結果は後の「ハリウッド・ブルバード」のシークエンスのおいて明確にされるだろう。互いに傷つき傷つけあっているという意味では、スーとドリスとロスト・ガールの三人は、まったくの「等価」である。

と同時に、ファントムが「ポーランド・サイド」の「ストリート」を経て、「アメリカ・サイド」にある「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」(の少なくとも「ストリート」のレベル)まで入りこんでいることがここで明確にされる。「入りこむ"オープニング"を捜している(I look for an opening)」と言っていたファントムは(0:07:59)、ついにその目的を達成したのだ。これ以降、「映画の魔=ファントム」が備える「心理展開へのエスカレーション」に関する「機能」は、ロスト・ガールに向かってだけでなく、スー=ニッキーやドリスに向かっても明確に働きかけることになる。そして、それはつまり、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」全体に対する「コントロール」にファントムが介入し始めたということだ。

ここに至って「ファントム」が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」のコントロールに介入し始めたということは、いったい何を指し示しているのか? 興味深いのは、直前のシークエンスにおける「ロコモーション・ガール」との対比である。以前述べたように、そもそもこの「ビリーの屋敷内部」で起きた修羅場のシークエンスは、「ロコモーション・ガール」の「心理展開のエスカレーション」に対する機能によって喚起されたはずだ。そのシークエンスが、結果的には「ファントム」の侵入を許し、最後には横取りされる形で彼の介入を許している。あるいは、「コントロール・パネル」のイメージが表すように、このシークエンスで発生している事象は本来「制作側」の「コントロールを受けているもの」であったはずである。「制作側」の立場にとっても、この「ファントム」の侵入は、計算外ではなかったのか?

可能性のある解釈として考えられるのは、「ファントム」が侵入した瞬間、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」が「映画作品」としての「自律性」を獲得したのではないかということだ。非常に雑駁な言い方だが、演技者や製作者の完全なコントロールを逃れて、作品が作品として独自に動き出す瞬間である。それこそが、「映画」が「工業製品」であるとともに「創作物」でもあるという所以であり、逆説的にではあるが「魔」が介在する余地でもある。おそらくリンチは過去の映画製作を通じて、作品が自律性を獲得し、「映画の魔」が忍び込む瞬間を知っている……というより、今回の「インランド・エンパイア」の製作過程を思い出すとき、あるいは「Catching the Big Fish」の記述を読む限り、リンチはそうした一瞬が「もたらすもの」を全面的に信頼しているように思えてならないのだ。

*ご丁寧なことに、点滅するランプは「」が1個と「」が6個である。これが何を示すのかは「赤」と「青」の項を参照いただきたい

2008年2月 4日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (50)

本日は良いお日柄でマコトにもってオメデタイ感じで続く、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業である。朝からスーパーボウル観ながら酔っ払いつつ、今回は(1:48:40)から(1:49:58)までのシークエンスをみる。しかし、NYGがイーライ・マニングで勝てるとは思わなんだな。

それはさておき、いよいよ「ファントム」の正体が明らかになり、このあたりから彼は明瞭に「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「心理展開のエスカレーション」に明瞭に絡み始める。それにつれて「演技者=ニッキー」と「受容者=ロスト・ガール」の「内面の交錯」は激しくなり、「同一化=感情移入」もより深くなっていくのだが、それはまたおいおい述べる。

とりあえず、このシークエンスで「具体的映像」として提示されているものを順に列挙するなら……

(1)「スミシーの家」の居間でたむろするロコモーション・ガールたち
(2)シルクの布に開いた穴を覗きこんでいるスー=ニッキー
(3)「スミシーの家」の居間でたむろするロコモーション・ガールたち
(4)「スミシーの家」から出ていくスー
(5)「夜の街」の灯り
(6)移動する自動車内部からの「夜の街」(アメリカ・サイド)
(7)自動車内部からの「ビリーの屋敷」

……という感じになる。

このうち、(1)から(5)までを通じてリンチ作詞作曲の「Walkin' on the Sky」がずっと流れており、これらの一連のシーンが一塊に捉えられるべきものであることを明瞭にしている。

まず、大きな流れとしてみた場合、(1)の「ロコモーション・ガール」たちは、直前のシークエンスで登場した「ファントム」からの連鎖として現われている。つまり、両者の「心理展開のエスカレーション」に対する「役割・機能」という共通項によって、「イメージの連鎖」が発生しているわけだ。と同時に、「サーカス」を「組織」として捉えたとき、「ファントム」には「公的」「男性に属するもの」としてのイメージが付加されるのに対し、ニッキーの「情緒の記憶」である「ロコモーション・ガール」には「私的」「女性に属するもの」のイメージが付随しているといえる。つまり、両者の「共通項」を前提としたうえで、加えて「対置」されるものとしての「連鎖」も発生していることが読み取れるだろう。ただし、「ビリーの家」での修羅場までを連続したシークエンスとしてみた場合、この「対比構造」の様相は少しく異なることになるのだが、それはまたそのシークエンスの詳細を述べる際に触れたい。

という「大きな流れ」を踏まえつつ、具体的映像が伝えるものを追いかけていくなら、まず発生しているのは(1)(3)の「演技者=ニッキー」の「情緒の記憶」である「ロコモーション・ガールたち」が機能した結果の「心理展開のエスカーレーション」である。(2)のシーンでは「シルクの布に煙草の火で開けられた穴を覗く行為=映画を撮る行為=映画を観る行為」が提示されるが、このシーンにおけるスー=ニッキーの「視点」は明らかに「シルクの布の穴」から後退する動きをみせるとともに、スー自身がシルクの布から身を離す動作をしているカットもあり、この行為の「終結」あるいは「中断」を表していると捉えられるだろう*(1)(2)(そして(3))をつなぐカッティングが表すものをごく単純に捉えるなら、「シルクの布の穴」から観えていたものこそが「ロコモーション・ガール=ニッキーの情緒の記憶」であったことになる。そして、(1)(3)の結果として導き出されるのが(4)(5)で提示されるスーが「スミシーの家」を出るシークエンスであり、(6)のシーンにおいて彼女の行き先が「ビリーの屋敷」であったことが明らかにされる。

ここで注意を惹くのは、(1)のシーンにおいて、カーテンがかかった窓からの光が表すようにこのシーンが(そしてそれに継続する(3)のシーンが)昼間であるのに対し、(2)(4)以降のシーンが夜間であることだ。つまり、すでに触れたようにこれらのシーンを通じて「Walkin' on the Sky」が流れ、一塊のシークエンスを表しているのにもかかわらず、各シーン間で時制の不一致がみられるということである。ここでは、この不一致は(1)(3)の各シーンと他のシーンの「質的差異」を明確にしていると理解しておきたい。要するに、「ロコモーション・ガール」のシーンがニッキーの「情緒の記憶」、要するに「内面」に属するものであり、それが「シルクの布の穴を覗く行為=映画を観る行為」によって共有されることを示しているのである。

という具合に、このシークエンスで表されているのは、登場人物=スーの(それはつまり「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の)「心理展開のエスカレーション」と、それに促されてスーがとった行動という「原因」と「結果」の提示だ。そしてその「結果」は、「『ビリーの屋敷』での修羅場」という事象を引き起こし、また新たな「結果」へと連鎖していくことになる。

*実際、「シルクの布に開いた穴」が映像として登場するのは、これが最後である。なぜここで、「シルクに開いた穴を覗く行為」が「中断」あるいは「終了」させられるのか? ここでもやはり、ニッキー=スーが左腕にはめている「腕時計」が映像として提示されていることに注目しておきたい。要するに、ニッキー=スーが「(現実)時間のコントロール」を受けた結果、「映画を作る行為」が「中断」あるいは「終了」されたのである。演技者=ニッキーに対しては、この後も何回となく「時間のコントロール」を主としたなんらかの「コントロール」が施される。
だが、基本的にこの後のシークエンスにおいて描かれる「心理展開のエスカレーション」は、激しくその度合いを高めていく一方だ。それに連動して、「演技者=ニッキー」と「受容者=ロスト・ガール」の「登場人物=スー」に対する「同一化=感情移入」はどんどん深まっていく。
少なくとも、受容者=ロスト・ガールはとっくに「現実時間のコントロール」の圏外にあり、自分が「シルクの布の穴を覗く行為=映画を観る行為」を行っていること自体を忘れている。であるから、ロスト・ガールに対する「コントロール」を表す映像は、この後、一切ない。また、演技者=ニッキー自身も、ロスト・ガールと同じように「シルクの布の穴を覗く行為=映画を作る行為」の認識を次第に危うくしていくのだ。そして、それは「ファントム崩壊」のシーンまで続く。

**であるから、実は(6)(7)のシーンは次の「『ビリーの屋敷』での修羅場」のシークエンスの一部であるといえる。ここでは「原因」と「結果」の関係性を明確にするために、敢えて一連のものとして挙げておいた。

2008年2月 2日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (49)

引き続き、「インランド・エンパイア」の(1:45:47)から(1:48:40)までのシークエンスをばチンタラ追う今日この頃。

……の前に、ちょいといろいろと入り組んできたんで、「インランド・エンパイア」に登場する「コントロール」のイメージを図表化して、整理なんかしてみる。リンチが提示する「複合的なイメージ」を無理矢理「分解」してみたら、たとえばこういう具合になるんでないか……という例であったりする。

たとえば、このシークエンスで具体的な映像として提示されている「コントロール」のイメージは、以下のようなものだ。

「インランド・エンパイア」の「コントロール」のイメージ
分類項目コントロール被コントロール
サーカス ファントム 団員・ピオトルケ
サーカス ピオトルケ

おわかりのように、横軸の左端がイメージの「分類項目名」で、真ん中が「コントロールを行うもの」、右側が「コントロールを受けるもの」(つまり「動物」)という関係である。

これを、「インランド・エンパイア」全体を通じて提示されている他の「コントロール」のイメージについて当てはめて図表化すると、下図のようになる。かなり乱暴に簡略化したものであるので、詳細な点で現実とは異なっている項目があるかもしれないが、ざっくりした概念図として理解してもらえると、これ幸いである。

組織 上長 部下
会社 雇用者 被雇用者
映画製作 資本提供者 監督
映画制作 監督 スタッフ
映画作品 監督・スタッフ 作品
メディア 作品 受容者
映画 作品 受容者

分類項目のうち、「組織」~「映画作品」までが「組織」のイメージに属しているのに対し、「メディア」「映画」は当然「メディア」のイメージに属していることになる。

「インランド・エンパイア」において表れている「具体的映像」には、上に挙げた「分類項目」のいくつかを複数内包しているケースが多数認められる。と同時に、各「分類項目」の横軸方向に対応した「コントロールするもの」「コントロールされるもの」も複数内包され、それぞれ重層的に積み重なることで複合的なイメージを形成している。たとえば「サーカス」のイメージには、上記の図表にある「組織」と「メディア」の「分類項目」のイメージが明瞭に内包されているが、場合によって、それは他の「分類項目」(たとえば「映画制作」のイメージや「心理展開」のイメージ)とのつながりを発生させる。そして、この「分類項目」のつながりに連動して、「コントロールするもの」としての「ファントム」は「監督」や「作品」につながり、「コントロールされるもの」としての「ピオトルケ」は「馬」や「受容者」へと重なり、複合していく。

リンチ作品における「イメージの連鎖」は、往々にして、こうした「複合的イメージの幅」を糊代にして成立している。通常ならつながらないはずの映像同士が、「複合的イメージの幅」によってつながってしまうのだ。それがゆえにリンチが提示する映像は「言語」との単純な置換を許さず、「言語的な理解」(「ナラティヴな理解」と言い換えてもいい)を不能にする。これらの「イメージ」群は複合的であるがゆえに「複合的なコンテキスト」を成立させてしまい、「言語」が持つ明瞭なコンテキストに向って収斂させてくれないのだ。リンチ作品の「難解さ」の要因のひとつは、間違いなくこのような「言語化の困難さ」にあるといえるだろう。しかしながら、リンチがこうした「イメージ」の複合化をすべて計算したうえで自分のアイデアを「映像」化しているとは思えない。おそらくはリンチのアイデア自体が、そもそも最初から「複合したイメージ」をはらんでいるだけのことなのだ。そしてそれは、「インランド・エンパイア」に限った話ではない。

それはさておき、「映画」の項目にぶら下がるものとして……

心理展開 ファントム 作品(受容者)
心理展開 ロコモーション・ガール 作品(受容者)
物語展開 ウサギたち・老人たち 作品(受容者)

……というようなものも「インランド・エンパイア」には表出しているといえるだろう。作品に対する「コントロール」を通じて、「受容者」はファントムやウサギたちの「コントロール」を受けているという構造だ。ただし、ここまで細目になると、無条件に重複可能とは限らない。当然ながら「ファントム」と「ウサギたち」は、「機能形態」としての共通項はあるものの「機能内容」はむしろ対置されるべきものであり、重複不能であるといえる。

なーんてなことをつぶやきつつ、長過ぎの前振りは終了。やっと本題に戻って、このシークエンスの後半部分のスーの台詞を引用してみよう。

スー: They all called him The Phantom. (沈黙) He got in a barroom fight one night. All the bar was arrested. A lot if them fucking circus clowns. So when they take'em all down too the station... guess what. The Phantom's done gone and disappeared. This is the kind of shit I'm talking about. (沈黙。唇を動かす) He was a Marine from North Carolina. He had a sister with one leg. She had a sorta... carved stick for the other one. She killed three kids in the first grade. This is the kind of shit...

スー: (目だけを動かして横目でMr.Kを見ながら) Fuckin' funny. People. They all got their own peculiarities... their own way of livin'. (右を見、上を見てからまっすぐにMr.Kを見る)

「ファントム」と「片足の妹(sister with one leg)」に関しては、「ノース・カロライナ」に関するこちらとかあちらとかの項で詳しく触れたので、ここでは繰り返さない。やはりこの台詞における「ファントム」や「片足の妹」もまた、リンチの極私的部分において「映画人」につながっていくと思われることだけを再確認しておきたい。スーが言うように、「彼ら=映画人」は「風変わり(got thier own peculiarities)」であり、「自分たちなりの生き方(their own way of livin')」をもっているのだ。それはデ・ラウレンティスのことであろうし、リンチ自身のことかもしれない。あるいは「映画関係者」に留まらず、「メディア」を通じ「自らの体と肉声」で受容者を「魅了」するすべての者たちのことかもしれない。見方によっては、彼らは全員「ファントム」の一員であるのだ。

「酒場での乱闘」が「幼児性」の発露であると受け取れることも、すでに述べたとおりだ。敢えて触れておくなら「ファントム」の「神出鬼没性」だろうか。乱闘の後に姿を消した「ファントム」は、サーカス団員ゴーディの話を信じるなら(1:56:08)、この後「インランド・エンパイア」とかいう場所に向っている。まず「ファントム」が辿り着いたのが「スミシーの家」の隣家であるならば、そこは「映画館」から階段をのぼった所にある「通路」、すなわち「スミシーの家」と「Axxon.nの扉」でつながるいずことも知れぬ「通路」のすぐ近くのはずだが、それはまた後の話題だ。

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