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2008年1月29日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (48)

それこそ地を這うがごとく、地道に進行中の「インランド・エンパイア」話であったりする(笑)。今回は(1:45:47)から(1:48:40)までのシークエンスの中間部分をば、細かく見てみたりなんかして。

前回のおさらいというか、行ったり来たりがメンドくさいので(笑)、もう一度この部分で提示されている映像を再度書き出してみる。

(1)Mr.Kのオフィスで話をしているスー
(2)茶色のセーターを着たファントムのバスト・ショット。背後には、サーカスのバン・トラックが見える
(3)左にサーカスのテントの一部が、右に二台のトラックが駐車している。サーカスの団員たちがテントの横を歩いてくる。二人の団員がトラックとトラックの間から出てくる
(4)馬と並んで立っているピオトルケ。画面に向かって左のほうを見ている
(5)Mr.Kのオフィスで話をしているスー

そして、以下に、対応しているカットの番号を末尾に付ける形で、スーの台詞を引用してみる。一部、前回で引用した台詞と重複してます。

スー: (前略)There was this guy they had working there. (2)
スー: He'd start talking... (2)
スー: you know, real regular... talking up the crowd.(3)
スー: They'd start listening, pushing in closer.(4)
スー: He did done sort of thing on people.(5)
スー: They all called him The Phantom.(後略)(5)

「インランド・エンパイア」開巻以来、ここに至って初めて「ポーランド・サイド」でロスト・ガールの夫を務めていた男の呼称が「ファントム」であること、そして彼が「あるコントロールのイメージ」を付随させていることが明確にされる。映像として直接的に提示されているのは、「ファントム」と「ピオトルケを含むサーカス団員たち」の間に結ばれた「雇用」と「被雇用」の関係だ。ファントムは「雇用者」として、「使用人」あるいは「部下」であるサーカス団員たちを「コントロール」する立場であることが明示されている。もちろん、ここで強調されているのは、「組織」を表すものとしての「サーカス」だ。

では、その一方で「サーカス」を「メディア」を表すものと捉えた場合、「ファントム」はいったい何をコントロールするのか。スーの言葉を借りるなら、「人々に向かって話し始めると、みんなが近寄って来る」というのが「ファントム」の「特性」だ。「人々(people)」を表すものとして映像で具体的に提示されているのは、(3)のサーカス団員たちと(4)のピオトルケのみである。が、同義のものを表す言葉として「群衆(crowd)」という表現が使われており、ここでの「人々」はたとえば「サーカスの観客」を含めたもっと「不特定多数の人間」を指すと考えてさしつかえないはずだ。スーの台詞によって明らかにされているのは、「ファントム」が「人々の心を操る」ということに他ならない。彼(が表すもの)が備える「特性」は、聞く者の耳を傾けさせ、観る者を魅了する「能力」あるいは「機能」なのである。それはすなわち、観客の「同一化=感情移入」を獲得する「能力」あるいは「機能」であり、観客の「心理的エスカレーション」に向けて発揮される「能力」あるいは「機能」である。

「インランド・エンパイア」を「映画についての映画」と捉える限りにおいて、こうした「ファントム」が付随させる(あるいは「ファントム」自身が表す)複合的な「コントロール」のイメージは、やはり「映画」に関する複合的イメージに収斂していくことになる。「組織」としての「映画」という視点からみるとき、製作上必要とされる「金銭的あるいは人的なコントロール」や、「メディア」としての「映画」が必要とする「作品クォリテイに関するコントロール」についてはいうまでもない。それに加えて、「ファントム」(が表すもの)は、「受容者の『同一化=感情移入』に対するコントロール」のイメージを付随させているわけだ。

と同時に、「動物(animal)」が表すものの意味、すなわち「自律性を有しながら、他者にコントロールされる存在」についても、このシークエンスにおいて明示されている。以前触れたように、(4)のピオトルケと馬が「並立」して描かれている映像は、「動物」としての両者の「等価性」を表すものだ。だが、「メディア」としての「サーカス」という視点でこの映像を読み取るとき、このピオトルケの映像は、「被雇用者を表すもの」としての「動物」だけではなく、「観客を表すもの」としての「動物」をも含意することになる。

前半部分の台詞でスーが漏らすように、「ファントム」は「サーカス」の、つまり「見世物芸人、ジプシー、詐欺師」という「胡散臭いもの」の一員である。その「胡散臭さ」は、まずは「組織」としての「サーカス」に対し、女性であるスーが感じたものだ。しかし、「メディア」としての「サーカス」の観点から捉えた場合、「動物」である「受容者」にとって、「ファントム」(によって表されるもの)が備える「人の心を操る」能力も、これまた相当に「胡散臭いもの」ではないだろうか? たとえ自分が「映画作品」を観ることを自律的に選択し、自分の感情をコントロールされることを望んだとしてもだ。

今更「プロパガンダの手段」としての「映画」の歴史を振り返る必要もないだろう。「映画」は(現在ある)他のメディアに比べて、非常に強力な「同一化=感情移入」を喚起する能力を備えている。それこそが、リンチが繰り返し言及する「映画の魔法」の実体であり、「インランド・エンパイア」の主題のひとつだ。が、それは受け取りようによっては、すこぶる「胡散臭い」ものといえるし、時と場合によっては危険ですらあるのは間違いない。極端な話、「映画」による「同一化=感情移入」という観点において、我々が映画作品を観て感動することと、情感に訴える独裁者の主張を受け入れることの間に、いったいどれくらいの実質的な差があるというのか?

であるからこそ、「インランド・エンパイア」において、「ファントム」は「胡散臭いもの」として描かれている。指を突き出し、わけのわからない呪文を唱えてドリスに催眠術をかける「ファントム」の姿は、限りなく怪しく、「胡散臭い」としかいいようがない(1:53:32)。彼こそがリンチの言う「映画の魔法」であり、見方によっては「映画の魔」でもあるのだ。

(これがまた、まだ終わらんのだわ、この項)

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