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2008年1月20日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (45)

なんだかんだで「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続き。前回に引き続き、今回も(1:40:34)から(1:43:37)までのシークエンスの後半部分を、やっつけてみる(笑)。

まずは、当該部分のファントムとロスト・ガールの会話の引用から。

Phantom: (チラリと足元に目を落とし、鼻を鳴らして) There was a murder...
Lost Girl: (しばらく言葉が出ない) How awful. Where?
Phantom: (画面外から) Just down the way. I think...
Phantom: you know the person.
Lost Girl: Who was it?
Phantom: (画面外から) Don't know the name...
Phantom: but have seen you with this person.
Lost Girl: You have?
Phantom: (画面外から) Yes.
Phantom: I think... I've seen the two of you together.
Lost Girl: (沈黙。深く息を吸って) That's awful.

この会話に引き続いて……

(1)階段の踊り場に横たわる「口髭の男」の死体(1:43:17)
(2)モニターを見詰めて涙を流すロスト・ガール

……の二つのカットが提示され、ポーランド・サイドのシークエンスは、ひとまずの区切りをつけることになる。

ファントムが告げる「殺人の発生」と、それに続く(1)のカットの提示を合わせてストレートに受け取るなら、ファントムが「口髭の男」を殺したように読み取れる。が、それを明示する映像は「インランド・エンパイア」にはまったく存在せず、確実なものではない。「口髭の男」が殺害された「理由」を含めて、あくまで受容者の解釈に任されていると考えていいだろう。

どちらにせよ、ロスト・ガールの「夫」としてのファントムが「口髭の男」を殺したのかどうかは、作品解釈上、あまり重要な事項ではない。繰り返しになるが、これもまた「インランド・エンパイア」が提示する「トラブル=機能しない家族」の個別例のひとつに過ぎず、他例を含め総体として「抽象概念」として捉えられるべきものであるからだ。こうした具体的な人間関係が重大な要素にならないことは、ファントムが「口髭の男」の名前すら知らない(Don't know the name)ことにも逆説的に表れているといえる*

より抽象的な観点からのアプローチとしてまず重視しなければならない点は、「口髭の男」を殺害することによって「映画の魔」としてのファントムが受けるメリットだろう。「心理展開のエスカレーション」を促し、受容者=ロスト・ガールの「同一化=感情移入」を深化させることがファントムの目的であるなら、それは彼が「口髭の男」を殺害する充分な理由になるということである。なぜなら、「口髭の男の死」は、間違いなく(ポーランド・サイドの)ロスト・ガールに降りかかる新たな「トラブル」の要素になり得るからだ。

また、「口髭の男」が付随させていた「時間コントロール」のイメージ(1:19:24)もまた、ファントムが彼を殺害する「理由」となることは以前に述べた。ファントムの「映画の魔」としての意図を考えるなら、受容者=ロスト・ガールが「現実の時間」を忘れるまで「同一化=感情移入」を進めることは彼の意に則しているといえる。であるならば、ファントムが「口髭の男」を殺害することは、ロスト・ガールを「『現実時間のくびき』から開放する」という象徴的な行為として捉えることが可能なわけだ。

だが、このシークエンスに至るまでの「イメージの連鎖」を考慮に入れたとき、はたして「口髭の男の死」をすべてファントムの積に帰することができるだろうかという疑問もわく。前回述べたように、「ロスト・ガールが『ストリート』に現われる」イメージは、直前のシークエンスでロコモーション・ガールたちが放った「彼女は誰?」という「問い掛け」によって喚起されている。つまり、この局面におけるロスト・ガールの「同一化=感情移入」の深化は、ロコモーション・ガールたちが「心理展開のエスカレーション」に対して機能した結果であるということだ。ならば、この「口髭の男の死=現実時間からの開放」という事象もまた、ロコモーション・ガールたちがもたらしたものだという解釈も成り立つのではないだろうか?

もっといえば、そこに至る契機がファントムであろうがロコモーション・ガールであろうが関係なく、ロスト・ガールが「同一化=感情移入」を深め「ストリート」に姿を現したこと自体が、「口髭の男の死=現実時間からの開放」をもたらしたとも解釈できるように思う。まさしくそれを表すかのように、「口髭の男」は「階段の踊り場」で、すなわち「家」と「ストリート」の狭間で、両者間の「移動の過程」でこときれているのだ……左手を階段の上方に伸ばし、まるで「家」を希求するかのような姿勢で。そう考えるとき、ロスト・ガールがつぶやく「恐ろしい(That's awful)」という台詞からは、「知り合い(あるいは不倫相手)」が殺されたことに対する「衝撃」以上の意味が浮かび上がってくる。それは、自身が常に一緒にいるはずの「現実時間」に対する見当識を失ってしまったことに対する「脅え」だ。

最終的にこのシークエンスは、「モニター画面を観ながら涙を流すロスト・ガール」のカットで終わる。それは、遡るそれ以前のシークエンスが彼女の「主観」であり「心象風景」であることを物語るものだ。具体的にいえば、(1:38:55)から(1:43:37)までのシークエンスは「ロスト・ガールの視点」から観られたものであり、彼女の「括弧」で括られている。ここにきて、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」を巡るニッキーとスーとロスト・ガールの(すなわち演技者と登場人物と受容者の)「ネスティング」は、急激に交錯し始めるのだ。

*「口髭の男」に限らず、「ポーランド・サイド」の登場人物たちは全員、固有名詞としての「名前」を持たない(少なくとも、作品中では明らかにされない)。というより、彼らは普遍的かつ抽象的な存在であるがゆえに、具体的な名前を「持てない」のだ。

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