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2008年1月18日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (44)

そんなこんなで、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の話はなおも続くのであった。今回は(1:40:34)から(1:43:37)までをば、やらかしてみる(笑)。

引き続き、「ポーランド・サイド」を舞台にした「イメージの連鎖」が提示されていく。ここで主に映像として提示されているのは、「ストリート」を舞台としたロスト・ガールとファントムの「邂逅」だが、このシーン自体が直前のシークエンスからの「イメージの連鎖」の結果として喚起されている。詳しくは後述するとして、まずはこのシークエンスの前半部分にあたる(1:40:34)から(1:42:12)までの二人の台詞を引用しておこう。

Phantom: I almost didn't recognize you.
Lost Girl: You startled me.
Phantom: Strange... to find you on the street.
Lost Girl: You seem upset... Are you?
Phantom: Should I be?
Lost Girl: (何かを言いかけてやめる) No, but...
Phantom: (遮るように) So I shouldn't be?
Lost Girl: (画面外から) No...
Lost Girl: But still, you seem so.
Phantom: I think you don't recognize me...
Phantom: my manner...
Lost Girl: That's true. You seems different.
Phantom: (画面外から) You too.
Phantom: I'm used to seeing you in our home... not on the street...
Phantom: (画面外から) at night.
Lost Girl: Me too.

このシーンに至って、はじめてロスト・ガールがポーランド・サイドの「ストリート」に姿を現わすことにまずは注目したい。それはすなわち、受容者=ロスト・ガールの登場人物=スーに対する「同一化=感情移入」が深化し、「感情の共有」が進んでいることの映像的提示に他ならないからだ。

二人の会話から読み取る限りにおいて、明らかにファントムはロスト・ガールの「感情移入=同一化」が「ストリート」のレベルに達するまで深化しているとは思っておらず、彼女が「家」のレベルで安全に「トラブル=機能しない家族」の事象を享受しているものと考えていたようだ。ロスト・ガールが指摘するように、彼は予期せぬ事態に「動揺(upset)」している。なぜ「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「心理展開のエスカレーション」に対して機能しているはずのファントムが、ロスト・ガールの「同一化=感情移入」が深まっていることに驚くのか?

ここで問題になるのは、もう一組の「心理展開のエスカレーションに対して機能するもの」、つまり「ロコモーション・ガールたち」の存在だ。可能性として考えられるのは、受容者=ロスト・ガールの「同一化=感情移入」を深化させるうえで、「ロコモーション・ガールたち」の働きがファントムの予測を越えていたのではないか……ということである。それは言い換えれば、演技者=ニッキーが採用した「情緒の記憶」が限りなく的確であり、かつ彼女がそれを見事に演技に反映させて、登場人物=スーの「感情」として表現していることを意味する。

ここでロスト・ガールの「同一化=感情移入」の深化を進める直接的なトリガーとなったのは、直前のシークエンスにおいてロコモーション・ガールたちが発した「彼女は誰?(Who is she?)」という「問い掛け」である。受容者=ロスト・ガールはこの「問い掛け」を受け止め自らを省みることによって、演技者=ニッキーの「情緒の記憶」を(登場人物=スーを通して)自分の「感情」として共有し始める。自分もまた「トラブルによって傷つく女性」の一員であるとともに、「娼婦」になぞらえられる「感情」を有する存在であることに気づこうとしているのだ。それを表わす映像が、この「『ストリート』に現われるロスト・ガール」のイメージであり、それは「ロコモーション・ガールたちの問い掛け」からの「連鎖」として喚起されている。

一方、ロスト・ガールもファントムが「ストリート」のレベルにいることに驚き、脅えている。このシーンにおける二人の力関係が(1:18:09)や(1:19:13)のシーンのままであることからもわかるように、ロスト・ガールにとってファントムはポーランド・サイドにおける「夫の抽象概念」(あるいは「トラブルの起因」)であり続けている。つまり、彼女にとってもファントムは「家」にいるはずの存在なのだ。その彼が自らの「感情」の奥深い(最下層の)場所にいることに、ロスト・ガールは驚いている。もちろん、ファントムが(0:07:29)で自ら発言しているように、彼が「ストリート」にいるのは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に入り込むこと(look to go in)を意図してである。彼にとって「ストリート」はそのための「通路」であり、この時点でそこに至ってるからには半ば「入り込むこと」に成功しているわけだが、ロスト・ガールはそのことを知らない。

もう一点指摘できるのは、二人とも「相手が認識(recognize)できないほど、自分は変わってしまっている」と考えているらしいことだ。実際にファントムは彼女に「危うく気づかないところだった(I almost didn't recognize you)」と発言しているし、ロスト・ガールも彼のことを「違って見える(You seems different)」と言う。これらの発言から思い起こされるのは、「妻バージョンのスーの容貌」と「娼婦バージョンのスーの容貌」との間の「変化と落差」だ。この「スーの変容」は、そのまま「『家』が表すもの」と「『ストリート』が表すもの」の関係性を物語っており、両者の「落差」を表わしていると捉えてよい。「インランド・エンパイア」に頻出する「高低のアナロジー」が示すように、「家」と「ストリート」は人間の内面における「表層」と「深層」の関係にあるといえる。「スーの二つの容貌」はこの両者の「乖離」や「捩れ」を表わすものであり、文字どおり「落差」を描いていると受け取ることが可能だ。リンチ作品においては、しばしば「内面」は「外面」として目に見える形で描かれるのだ。

この見方に基づくなら、自分が「ストリート」にいることを自覚しているファントムとロスト・ガールが、ともに「家」にいたときと比べて自らが「変容」していると考えるのも理解できるだろう。ファントムは「夫の抽象概念」としての自己を捨て、「映画の魔」として「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に入り込む途上にある。一方で、ロスト・ガールも登場人物=スーを通して「トラブルに傷つく女性」としての自分を自覚し始めたところだ。「口髭の男の妻」とピオトルケがそれぞれの「家」で口走るように、ファントムとロスト・ガールも等しく「自分はあなた(お前)が考えているような者ではない!(I'm not who you think I am!)」(1:18:50)(2:16:21)のである。

(んでもって、後半部分に続く)

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