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2008年1月17日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (43)

「今日もいい天気」な感じで「インランド・エンパイア」の「イメージの連鎖」などをチミチミと追ってみる……などとナニを口走っておるのか自分でもよくわからんが(笑)、とにかく今回は(1:38:55)から(1:40:34)まで。

前回述べたように、ピオトルケのシャツについた「ケチャップ=フェイクの血」をトリガーにして、シークエンスは「裏庭」から「ポーランド・サイド」へと連鎖していく。

まず提示される「走行している自動車の内部からみた街並み」のショットによって、シークエンスが「ポーランド・サイド」に移行したことが明確に宣言されるが、こうした「自動車のウィンド・シールド」越しのショットがシークエンス間のつなぎとして使われている事例は「インランド・エンパイア」の各所にある。たとえば、(1:18:00)のやはり「ポーランド・サイド」の車中からのショットや(1:49:43)のスーの自動車の内部からみた「アメリカ・サイド」の「夜の街」のショット、そして(1:53:55)の「バルチック地方の林道」のショットなどが挙げられる。このような「車中からのショット」による時制・場所の提示は映画全般に普遍的にみられるもので、特に「インランド・エンパイア」の何かを特徴付けるものではない。逆にリンチがこうした「映像文法」に準拠している傍証として、とりあえず指摘しておく*

一種のエスタブリッシング・ショットとして機能しているこの「車中からのショット」を経て、(1:39:04)から(1:40:34)までのシークエンスにおいて「ポーランド・サイド」における「ロスト・ガールの死」が描かれる。この一連のシークエンスにおいて提示されている映像は、以下のようなものだ。

(1)スクリュー・ドライヴァーを手に「建物」の階段を上る「口髭の男の妻」。彼女はそのままロスト・ガールの部屋に入る
(2)暗闇に沈む部屋の内部。女性の悲鳴と立ち去る足音
(3)暗い階段。扉が閉まる音。階段の踊り場にうずくまり、頭をかきむしる「口髭の男の妻」
(4)「口髭の男」の部屋に立ち尽くす「口髭の男の妻」((1:19:07)と同一のシチュエーション)。こちらを向いて「彼女は誰?(Who is she?)」と尋ねるロコモーション・ガールの一人。倒れているロスト・ガール(オーヴァーラップ)。こちらを向いて「彼女は誰?(Who is she?)」と尋ねるもう一人のロコモーション・ガール(オーヴァーラップ)。腹部から血を流して倒れているロスト・ガール(オーヴァーラップ)

(4)および(1:19:07)の「口髭の男の妻」が作品を通じて背中しかみせていないため、映像として明確にはされていないが、(1)および(3)でスクリュー・ドライヴァーを携えて登場する女性は「口髭の男の妻」である……と捉えるのが妥当だろう。それは、(1)(2)(3)の映像と(4)の映像の関連性において、そしてこの後のシーケンスにおいて提示される映像によって暗示されている。「口髭の男」とロスト・ガールが知己であることは、ファントムが「殺人の発生」を告げるシークエンス(1:42:21)において明示されており、一方で「口髭の男の妻」が夫に向かって言う「あの女のところへなんか行かせない!(I'll never let you have her!)」という台詞(1:18:53)がある。これらのシーンをあわせて考えたとき、「あの女」がロスト・ガールを指し、不倫のもつれの果てに「口髭の男の妻」に刺されたと捉えるのは一定の蓋然性をもつはずだ。

だが、その一方で、「ロスト・ガールの死」を「機能しない家族=トラブルの抽象概念が引き起こした普遍的な事象」として捉えるなら、このように具体的な人間関係を特定したところで、実はあまり意味がないともいえる。理由はともあれロスト・ガールが何らかの「トラブル」のせいで刺され、その刺した相手もまた「ポーランド・サイド」の「ストリート」に立つ存在である(2:10:58)ことさえ明確であるなら、作品解釈上、クリティカルな問題にはならない。

それはさておき、いまさら指摘するまでもなく、この「ロスト・ガールの死」は「象徴的な死」であって、「過去に発生した(作品内)現実」として具象的に理解されるものではない。「口髭の男の妻」によって凶器として使われる「スクリュー・ドライヴァー」は、デヴォンの妻であるドリスの腹部に刺さっていたもの(0:36:15)や、ドロシー・ラムーアの「星」の上でスーの横腹をえぐったもの(2:22:42)と同一のものだ。「スミシーの家」と「向かいの建物」の関係性と同じく、ここでも「スクリュー・ドライヴァーで刺される女性たち」は相互に「普遍と個別例」の関係性にある。彼女たちはすべて、「スクリュー・ドライヴァー」によって表わされる「悪意」でもって互いを傷つけ合う存在であるという意味において、「等価」であるわけだ。「機能しない家族」の諸例が総体として抽象概念を表わすのと同様に、彼女たちは「トラブルによって傷つく女性の抽象概念」であるといえる。

そうした「普遍と個別例の関係性」や「等価性」を表しているのが、(4)の映像だ。この映像によって提示されているのは、「口髭の男の妻」と「ロスト・ガール」が、ともにこの「彼女は誰?(Who is she?)」という質問の対象として、あるいはそれに対する回答において「等価」であることに他ならない。そして、その回答はもはや明白だろう。刺されたロスト・ガールも刺した「口髭の男の妻」も、ともに「トラブルによって傷ついた女性」であり、「私は娼婦よ(I'm whore)」とつぶやく存在なのである。

*「ロスト・ハイウェイ」のオープニング・クレジットは、それ自体が作品全体を象徴するものとして強烈な印象を残すが、たとえば「孤独な場所で(In a Lonely Space)」(1950)や(こちらは鉄路だが)「仕組まれた罠(Human Desire)」(1954)をはじめとする何本かのフィルム・ノワール作品などにも同様の意匠のオープニングが認められ、むしろそれらの作品を踏襲したものとして捉えるべきであるように思う。

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