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2008年1月15日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (42)

つなことで「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(1:37:20)から(1:38:55)までをば追いかけてみる。しかし、このペースでやっていくってえと、最後までたどり着くのにどのくらいかかるですかね。前半の一時間分も残ってるしな。うーん、まあ、ボチボチやるです。

(1:37:20)からのシークエンスは、「スミシーの家」の「裏庭」のシーンから始まる。あらかじめ大きな流れとして指摘しておきたいのは、この(1:37:20)からの「裏庭」のシーンは、後に現れる(1:43:37)からの「裏庭」のシーンと対になるものとして捉えられることだ。

以前にも触れたように、リンチが繰り返し提示する「何かよくないことが起きる可能性がある場所としての『家』」というモチーフの延長線上にあるものとして「裏庭」をみた場合、そこは「私的なものと公的なものが交錯する場所」として、あるいは「内面と外界が入り混じる場所」として捉えることができる。この観点からみたとき、後の「裏庭」が「公的なもの」もしくは「外界」の事象に傾いたものとして理解できるのに対して、先に表れる「裏庭」が提示するものは「私的なもの」もしくは「内面」の方向に傾いた事象であるといえるだろう。また、あえて指摘するなら、徹底的に「女性の視点」から描かれている「インランド・エンパイア」においては、先に表れる「裏庭」は「女性に属するもの」であり、後の「裏庭」は(女性の目から見たものではあるが)「男性に属するもの」であるといえないこともない。

そのことを端的に表わすのが、スーと二人の女性によって交わされる以下のような会話である。

スー: (笑いを浮かべて) Look at me... and tell me if you've known me before.
右側の女性: (うなずいて) Yes. We will do that.

以前にも指摘したとおり、「インランド・エンパイア」に登場する女性たちは、形を変えて繰り返し自分のアイデンティティに関する問い掛けを行う。ここではスーによって為される「私(たち)を知っているか?」という問い掛け自体も、すでにロコモーション・ガールの一人からスー=ニッキーに対して行われているし(1:09:30)、後のシークエンスではロスト・ガールからロコモーション・ガールの二人に向かって発されることになる(2:11:22)。そして、それらの問い掛けに対する回答が「私は娼婦よ(I'm whore)」というスーのつぶやき(2:07:37)にすべて回収されていくことも、以前述べたとおりだ。当然ながら、「娼婦」である(かのような「感情」を抱いたことがある)という意味合いにおいて、彼女たちは全員「顔見知り」である。ロコモーション・ガールたちが演技者=ニッキーの「情緒の記憶」であり、それによって登場人物=スーの「感情」が形成され、その「感情」を受容者=ロスト・ガールが共有するというネスティングが成立している限り、彼女たちは互いを「知っている」のだ。

……という具合に、「裏庭」において「内面的」「私的」「女性に属するもの」に関する事象が進行している途中に、「ケチャップ」を腹にぶちまけた「男性=ピオトルケ」による介入が発生する。が、その「介入」はここではむしろ「内面」的な事象の進行を促進する方向に働く。ピオトルケのシャツについた「ケチャップ=フェイクの血」は、「互いに向けられた悪意」を表わす「スクリュー・ドライヴァー」によって腹部を刺される「痛み」を想起させ、「クィーン・ケリー」の台詞を引用する(ポーランド・サイドの)ロスト・ガールのインサート・カット(1:38:10)を喚起してしまう。そして最終的には、「ロスト・ガールの死」から始まる一連の「ポーランド・サイド」のシークエンスまでイメージを連鎖させるまで続く。

この「クィーン・ケリー」からの台詞の引用「私の心に潜む邪悪な夢を追い出してください(Cast out this wicked dream whitch has seized my heart)」の「邪悪な夢」が何を指すのかは、前後のシークエンスから形成されるコンテキストから明らかだろう。第一義的には「ケチャップ」から想起された「スクリュー・ドライヴァーに刺される痛み」であり、自らを「『ストリート』に立つ『娼婦』」に喩えざるを得ないような「感情」のことである。そして、最終的にはそのすべての「起因」である「機能しない家族」と、彼らが住む場所としての「家」のイメージにまでつながる。と同時に、「インランド・エンパイア」の随所にちりばめられている(「クィーン・ケリー」をはじめとする)「すべての中断された映画」へのリンチの言及の意も、間違いなく含まれていると思われる。それはポーランドやハリウッドの映画産業の現状に対する、ひいては「映画」というメディアそのものが内包する「コントロールの概念」に対するリンチの私的な思いの表れでもあるといえる。「製作の断念」は、そうした「コントロール」のある究極の形(あるいは完全な崩壊)であろうからだ。

いずれにせよ、「インランド・エンパイア」は、この付近から受容者=ロスト・ガールが抱く「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」への「同一化=感情移入」を、明確に提示し始める……ってなことをつぶやきつつ、以下、次回。

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