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2008年1月 9日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (40)

ここまで「イキバタ」な感じでエエのんかという疑問を抱きつつ続く「インランド・エンパイア」話(笑)。今回は「サーカス」と「裏庭」の関係について。

「インランド・エンパイア」において、「サーカス」が映画やラジオなどに先行する「メディア」のひとつとして表れていることは、以前にも述べたとおり。と同時に、ピオトルケが突然「サーカスに入る」と言い出すシークエンス(1:43:37)にみられるように、サーカスは「夫の抽象概念」であるピオトルケの、ひいては男性全般の「幼児性」を表わすイメージとしても使われているという見方もできそうな気がする。

たとえば「スミシーの家」の「裏庭」におけるシーケンスにおいて、ピオトルケが招待していた(スーにとっては突然の)訪問客であるサーカス団員たち(男性ばかりである)の言動によっても、彼らの「幼児性」は明らかだ*。トイレが我慢できないことを「危険な状況だ(The situation is becoming dangerous)」と言うかと思えば、「紙がない(There is no paper. For the toilet)」とか言い出す。二人の男は何を思ったか、ハンマーの争奪戦を始める。そんな彼らを背景にしながら、ピオトルケはTシャツに「ケチャップ=フェイクの血」をつけたまま、照れくさそうに「動物の扱いがうまいと言われるんだ(It was said that I have a way with animals)」などという何が根拠だかよくわからない脳天気なことを理由に、サーカスに入団すると宣言する。

そうやってつるんだ挙句、最後には酒場で乱闘騒ぎを起こして連行されるのだから、タチが悪い(笑)。お灸をすえられた男たちはすごすごと「家」に帰った結果、「Room to Dream」に登場する男性のように、「サーカスに行ったんだとばかり思ってた」と女性たちから揶揄される運命にあるはずだ。「インランド・エンパイア」における女性たちが「ストリート」に表わされるものに徹底的に結び付けられているのと同じように、夫の抽象概念であるピオトルケは「サーカス」に表されるものに結び付けられている。この「幼児性」もまた、「ニッキー=妻」が抱く「ピオトルケ=夫」に対するイメージのひとつに他ならないのは言うまでもない。

その一方で、デヴォンのマネージャーがいうようにピオトルケは「このあたりで一番の実力者(he is most powerful guy around)」(0:22:51)であるはずで、「デヴォンに対する恫喝」(0:42:23)のシークエンスからも、彼が「権力」を扱いなれている(とニッキーが感じている)ことが読み取れる。また、ニッキーがスーの役を獲得したシークエンスにおける「ピオトルケの監視」(0:19:08)からうかがえるように、彼女が職に就いていること、それも女優という職業であることを要因とした「夫婦間の確執」が以前から発生している(とニッキーが感じている)ことも示唆されているといえるだろう。

だが、その「幼児性」と「権力志向」のゆえに、ピオトルケたちは権力的により上位にある「ファントム」によって手なずけられ、簡単に見捨てられることになる。こうした表現を目にして思うのは、「インランド・エンパイア」における「サーカス」が「映画に関するもの」という範疇を越えて、一般的な「組織」や「社会」になぞらえられていると受け取ることも可能ではないかということだ。その「組織」あるいは「社会」の内部において、ピオトルケは「動物」として表されるもの、つまり「自律性を有しながら、より上位のもののコントロールを受ける存在」に過ぎないのだ。「インランド・エンパイア」が徹底的に女性の視点から「機能しない家族」を描いていることから考えると、とりあえずこうした表現も「女性が男性をどうみているか」の問題に還元されていくかのようにも捉えられる。

しかし、「ブルー・ベルベット」のフランクや「ロスト・ハイウェイ」のフレッド=ピート、あるいは「ツイン・ピークス」のホーン兄弟の描かれ方をみればわかるように、リンチ作品において描かれる「権力」と「幼児性」は往々にして不可分だ。この両者をつなぐのはしばしば「全能感」とでもいうものであり、それはたとえば「ロスト・ハイウェイ」でピートの人格を手に入れたフレッドが、自宅の裏庭で安楽椅子に座ってくつろぐシーン(0:56:09)において明確だ。フレッドとしての追及を逃れる「権力」を得た彼が塀越しに見るのは、隣家の庭に置かれた幼児用プールとそこに浮かぶヨットの玩具やボール、そして子犬という「子供」を表す記号群なのである。

もし「サーカス」が組織や会社という「公的な場」の謂いであるならば、「サーカスに入る」というピオトルケの宣言が「スミシーの家」の「裏庭」という半ば公的で半ば私的な場所で行われるのも、あるいは当然であるのかもしれない。リンチ作品における「家」のモチーフを考えるとき、プライベートであると同時にオープンでもある「裏庭」は、非常に興味深い場所であるといえる。この私的なものと公的なものが交錯する場所において、あるいは「内面」と「外界」が境界線を曖昧にする場所において、ピオトルケは「権力」を夢み、フレッド=ピートは「全能感」を謳歌する。だが、「家」の内部からの視線は時には冷ややかでしかないし、その境界は非常に脆く容易に「外界」の侵入を許すのだ。

*船長帽を被ったリーダー格の団員だけが「時刻」について言及する。

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