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2008年1月 6日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (39)

てなわけで年があらたまったが、旧年の回顧や新年に向けての抱負など一切あるわけもなく、粛々と「インランド・エンパイア」話を進めることとする(笑)。そうさの、いつもと違うところは酒量がいささか増えたことぐらいかの(笑)。やっぱ酔っ払っているとまともな文章が書けないことがわかったのは収穫であった……って、ナニを言うておるのやら。

それはさておき。

「Mr.Kのオフィス」から続くシークエンスをとりあえず区切りのいいところでブロックに分けるなら、(1:25:53)から(1:31:16)までになる。このブロックはまた、(1:25:53)から(1:29:26)までのシークエンスと、(1:29:26)から(1:31:16)までのシークエンスの二つのブロックに分けられる。

このうち、前半のブロックは「心理的展開」に関するものを提示している。まず提示されるのが、「スミシーの家」のベッド・ルームから短い廊下を通ってスーが小部屋に入るカット、そしてスーの主観ショットによる小部屋内部の様子だ。このシークエンスは、まず、続くシークエンスにおいてスーがどこにいるかの明示として機能している。と同時に、床に落ちている「シルクの布」や「灰皿の上の火のついた煙草」や」によって、この小部屋が「シルクの布に開いた穴を覗く行為」が行われている場所であることも明瞭にする。なぜこの二つを表すカットが必要であったかは、次に表れるシークエンスが「ロコモーション・ガールたちを幻視するスー」(1:26:28)であることで理解できるはずだ。つまり、このシークエンスで表されているのは、「トラブル」が発生する場所としてのベッド・ルームからスー=ニッキー自身の「内面」への移行であり、ニッキーの「情緒の記憶」をたどる作業は継続されていることになる。

その「情緒の記憶」がどのようなものであるかは、ロコモーション・ガールたちの会話によって明らかだろう。概していうなら、ここで彼女たちによって語られるのは「夫・恋人との破綻した関係」という「トラブル」であり、それを回復する手段としての自らの「セクシャリティ」だ。それが評価される限りにおいて、破綻した関係の修復や新しい関係の獲得に「セクシャリティの使用」は有効な手段であり、その習得は「ロコモーション」の歌詞にあるがごとく「ABCを習うよりやさしい(It's easier than learnin' your ABCs)」ことを彼女たちは知っている。逆に、ハリウッド・ブルバードのシークエンスにおいて登場する「サロンの着用を拒否したドロシー・ラムーアの星」(2:23:41)によって表されるように、「セクシャリティの使用」を完全に拒否することの困難さも彼女たちは認識しているはずだ。また、そうした「セクシャリティの使用」がすべて彼女たちの意思であるわけではないことは、「Mr.Kのオフィス」におけるスーの種々の発言にも表れている。かつ、意思に反して「セクシャリティ」を使用せざるを得なかった彼女たちが感じるのは、自らを「娼婦」に例えるような感情であることも後のシークエンス群によって提示される。ニッキーの「情緒の記憶」によって喚起されたものは、そうした事柄だ。

これを受けて(1:29:26)からの後半のブロックでは、「スミシーの家」のダイニング・ルームでのスーとピオトルケの会話のシークエンスがまず提示される。「物語の展開」が進み、「スミシーの家」における「トラブル=機能しない家族」の様相が明らかになり始める。最終的に「ピオトルケによるスーの殴打」シーン(2:16:32)で彼が告白するように、ピオトルケは「自分が子供を作れないことを知っている(I know it for a fact. I can't father children)」。となれば、スーが妊娠を告げたことによって、ピオトルケが何を理解したかは明らかだろう。同時に、このピオトルケの告白が、ポーランド・サイドにおける口髭の男の妻が彼に向かって言う「私は子供を生めない(I can't give you children... I know that...)」という台詞(1:18:41)と対をなしているのは明白である(他にも呼応している台詞がある)。こうした表現から読み取れるのは、「スミシーの家」で起きている「トラブル」が、形こそ変わっていても「ポーランド・サイド」で起きている「トラブル」と「等価」であり、「普遍のなかの個別例」のひとつに過ぎないということだ。繰り返しになるが、こうした「トラブル」の諸例は、すべてひっくるめて「機能しない家族」の抽象概念として捉えられるべきものなのである。

このダイニング・ルームでのシークエンスは、再びリビング・ルームで輪になって踊るロコモーション・ガールたちのインサート・カットへと続いていく。もちろん、このインサート・カットもスーの内面における幻視であり、ここでもまた「物語上の展開」をトリガーとした「心理上の展開」への移行が行われているわけだ。具体的にいうなら、ダイニング・ルームでのピオトルケの言動がスーに与えた(とニッキーが自らの「情緒の記憶」から理解した)「情動」がトリガーとなって、この移行が発生していることは明白である。また、このシーン間の移行の際にEtta Jamesの「At Last」がサウンド・ブリッジとして使われており、両者の因果関係は明らかに強調されていることがわかるだろう。この曲はロコモーション・ガールのカットのあいだずっと流れ、続く「スミシーの家」のベッド・ルームで真夜中に目覚めるスーのシークエンスに対してもサウンド・ブリッジの役目を果たす。目覚めたスーはリビング・ルームで電話を掛け、その電話はサイド家ではなく「Rabbitsの部屋」につながる……という具合に、ここで述べているブロックと重なった形で別のブロックを発生させつつ、「物語上の展開」と「心理上の展開」のエスカレーションは形を変えて何度も繰り返されていく。

このように「ナラティヴな作品のもつ特性」という視点でみる限り、この互いに対応する前後半のブロックが提示しているものは(そしてそれに続く一連のシークエンスが示しているものは)、「物語展開と心理展開の連動性」の具体例であり、直前で提示されている「Mr.Kのオフィスでのスー」のシークエンスのリフレインであるとともに、その「展開図」とでもいうべき関係にあるといえるわけだ。

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