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2008年1月

2008年1月29日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (48)

それこそ地を這うがごとく、地道に進行中の「インランド・エンパイア」話であったりする(笑)。今回は(1:45:47)から(1:48:40)までのシークエンスの中間部分をば、細かく見てみたりなんかして。

前回のおさらいというか、行ったり来たりがメンドくさいので(笑)、もう一度この部分で提示されている映像を再度書き出してみる。

(1)Mr.Kのオフィスで話をしているスー
(2)茶色のセーターを着たファントムのバスト・ショット。背後には、サーカスのバン・トラックが見える
(3)左にサーカスのテントの一部が、右に二台のトラックが駐車している。サーカスの団員たちがテントの横を歩いてくる。二人の団員がトラックとトラックの間から出てくる
(4)馬と並んで立っているピオトルケ。画面に向かって左のほうを見ている
(5)Mr.Kのオフィスで話をしているスー

そして、以下に、対応しているカットの番号を末尾に付ける形で、スーの台詞を引用してみる。一部、前回で引用した台詞と重複してます。

スー: (前略)There was this guy they had working there. (2)
スー: He'd start talking... (2)
スー: you know, real regular... talking up the crowd.(3)
スー: They'd start listening, pushing in closer.(4)
スー: He did done sort of thing on people.(5)
スー: They all called him The Phantom.(後略)(5)

「インランド・エンパイア」開巻以来、ここに至って初めて「ポーランド・サイド」でロスト・ガールの夫を務めていた男の呼称が「ファントム」であること、そして彼が「あるコントロールのイメージ」を付随させていることが明確にされる。映像として直接的に提示されているのは、「ファントム」と「ピオトルケを含むサーカス団員たち」の間に結ばれた「雇用」と「被雇用」の関係だ。ファントムは「雇用者」として、「使用人」あるいは「部下」であるサーカス団員たちを「コントロール」する立場であることが明示されている。もちろん、ここで強調されているのは、「組織」を表すものとしての「サーカス」だ。

では、その一方で「サーカス」を「メディア」を表すものと捉えた場合、「ファントム」はいったい何をコントロールするのか。スーの言葉を借りるなら、「人々に向かって話し始めると、みんなが近寄って来る」というのが「ファントム」の「特性」だ。「人々(people)」を表すものとして映像で具体的に提示されているのは、(3)のサーカス団員たちと(4)のピオトルケのみである。が、同義のものを表す言葉として「群衆(crowd)」という表現が使われており、ここでの「人々」はたとえば「サーカスの観客」を含めたもっと「不特定多数の人間」を指すと考えてさしつかえないはずだ。スーの台詞によって明らかにされているのは、「ファントム」が「人々の心を操る」ということに他ならない。彼(が表すもの)が備える「特性」は、聞く者の耳を傾けさせ、観る者を魅了する「能力」あるいは「機能」なのである。それはすなわち、観客の「同一化=感情移入」を獲得する「能力」あるいは「機能」であり、観客の「心理的エスカレーション」に向けて発揮される「能力」あるいは「機能」である。

「インランド・エンパイア」を「映画についての映画」と捉える限りにおいて、こうした「ファントム」が付随させる(あるいは「ファントム」自身が表す)複合的な「コントロール」のイメージは、やはり「映画」に関する複合的イメージに収斂していくことになる。「組織」としての「映画」という視点からみるとき、製作上必要とされる「金銭的あるいは人的なコントロール」や、「メディア」としての「映画」が必要とする「作品クォリテイに関するコントロール」についてはいうまでもない。それに加えて、「ファントム」(が表すもの)は、「受容者の『同一化=感情移入』に対するコントロール」のイメージを付随させているわけだ。

と同時に、「動物(animal)」が表すものの意味、すなわち「自律性を有しながら、他者にコントロールされる存在」についても、このシークエンスにおいて明示されている。以前触れたように、(4)のピオトルケと馬が「並立」して描かれている映像は、「動物」としての両者の「等価性」を表すものだ。だが、「メディア」としての「サーカス」という視点でこの映像を読み取るとき、このピオトルケの映像は、「被雇用者を表すもの」としての「動物」だけではなく、「観客を表すもの」としての「動物」をも含意することになる。

前半部分の台詞でスーが漏らすように、「ファントム」は「サーカス」の、つまり「見世物芸人、ジプシー、詐欺師」という「胡散臭いもの」の一員である。その「胡散臭さ」は、まずは「組織」としての「サーカス」に対し、女性であるスーが感じたものだ。しかし、「メディア」としての「サーカス」の観点から捉えた場合、「動物」である「受容者」にとって、「ファントム」(によって表されるもの)が備える「人の心を操る」能力も、これまた相当に「胡散臭いもの」ではないだろうか? たとえ自分が「映画作品」を観ることを自律的に選択し、自分の感情をコントロールされることを望んだとしてもだ。

今更「プロパガンダの手段」としての「映画」の歴史を振り返る必要もないだろう。「映画」は(現在ある)他のメディアに比べて、非常に強力な「同一化=感情移入」を喚起する能力を備えている。それこそが、リンチが繰り返し言及する「映画の魔法」の実体であり、「インランド・エンパイア」の主題のひとつだ。が、それは受け取りようによっては、すこぶる「胡散臭い」ものといえるし、時と場合によっては危険ですらあるのは間違いない。極端な話、「映画」による「同一化=感情移入」という観点において、我々が映画作品を観て感動することと、情感に訴える独裁者の主張を受け入れることの間に、いったいどれくらいの実質的な差があるというのか?

であるからこそ、「インランド・エンパイア」において、「ファントム」は「胡散臭いもの」として描かれている。指を突き出し、わけのわからない呪文を唱えてドリスに催眠術をかける「ファントム」の姿は、限りなく怪しく、「胡散臭い」としかいいようがない(1:53:32)。彼こそがリンチの言う「映画の魔法」であり、見方によっては「映画の魔」でもあるのだ。

(これがまた、まだ終わらんのだわ、この項)

2008年1月26日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (47)

え、すゎて、寒さ厳しきなか、十年一日が如く続く「インランド・エンパイア」話である。今回は、前回の続きである(1:45:47)から(1:48:40)までをば、行ってみることにする。

「『スミシーの家』の裏庭」で行われた「サーカスに入団する」あるいは「動物の扱いがうまいといわれる」というピオトルケの発言は……

・銀のコスチュームと白いタイツを身に着けたサーカスの女性団員が、口に噛み締めたロープでポールからぶら下がり、回転している

……という映像をブリッジにして、「サーカス」と「ファントム」に関するシークエンスへと、非常にわかりやすくイメージを連鎖させていく。このシークエンスで提示されている映像を順に挙げると、以下のような流れになる。

(1)Mr.Kのオフィスで話をしているスー
(2)茶色のセーターを着たファントムのバスト・ショット。背後には、サーカスのバン・トラックが見える
(3)左にサーカスのテントの一部が、右に二台のトラックが駐車している。サーカスの団員たちがテントの横を歩いてくる。二人の団員がトラックとトラックの間から出てくる
(4)馬と並んで立っているピオトルケ。画面に向かって左のほうを見ている
(5)Mr.Kのオフィスで話をしているスー

これらの映像のうち、(2)(3)(4)は(1)の映像にオーヴァーラップする形で提示され、スーがMr.Kに向かって語る話と連動し、互いに補強しつつテクストを形成している。

ここでの文字通りの「語り手」は、Mr.Kに向かって話すスーであり、基本的には「効率のよい物語展開」に属するシークエンスであるわけだ。もちろん語っているのは「ストリート」に属する「娼婦バージョンのスー」である。「家」と「ストリート」の関係(つまり「表層」と「深層」の関係)に基づくなら、彼女が話しているのは、ピオトルケの宣言を聞かされたときに「家のスー」が心の奥で抱いた「感情」であるといえるだろう。さて、それはどのような「感情」であったのか、(1)の部分のスーの台詞を引用してみる。

スー: Fucker went to some Eastern Europe shithole with the fucking circus.
スー: (画面外から) can you fucking beleive that?
スー: That circus. Talk about carnies. Carnies, gypsies, con men, you name it. A real fucking ball of shit. (沈黙) There was this guy they had working there.

「サーカス」を「組織」を表すものという文脈に置くとき、スーの「深い感情」において、それは「見世物芸人、ジプシー*、詐欺師」の集まりであり、まったくの「糞の塊」でしかない。基本的に「男性に属するもの」であり、「インランド・エンパイア」が描く女性たちが共有する「感情」を引き起こすもの、つまりは「トラブル=機能しない家族」の起因のひとつであるとさえいえる**

と同時に、「サーカス」を「メディアの一形態」ひいては「メディアそのもの」を表すものとして捉えるならば、スーの台詞から読み取れるのは、それが内包する一種の「胡散臭さ」への言及だ。その「胡散臭さ」は「ファントム=映画の魔(法)」という存在に集約されていくわけだが、それについてはこのシークエンスの後半部分に関連させて述べるべきだろう。

そして、この「組織」と「メディア」という「サーカスが表すもの」の二つのイメージを結び付ける「核」になるのが、「映画」が持つ「複合的なイメージ」だといえる。「映画」が持ち備える「集団組織作業によって製作される『工業製品』」としての側面と、「表現・創造・伝達のための『メディア』」としての側面がない混ぜになって、「サーカス」が持つ「複合的なイメージ」の一部を形成しているわけだ。

(後半部分に続く)

*スーの台詞に、「ジプシー」についての言及があることには留意しておきたい。「サーカス」が表すものとの関連において、キングズレイ監督が「47」に関して言及した「ポーランドのジプシー民話をもとにしている(It was based on a Polish gypsy folktale)」(0:33:30)という台詞には、これまた複合的な意味合いが含まれていると考えられるからだ。

**照明係のバッキーもまた「トラブル」を抱えていたことを思い出してみよう(0:44:27)。だが、男性である彼の「トラブル」は、「公的なもの」である「組織」の中において表出する形で描かれている。「私的なもの」である「家」の中で「トラブル」が表れているスー=ニッキー=ロスト・ガールとは、ちょうど逆の状況である。

2008年1月23日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (46)

てんやわんやのうちに「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続きである。今回は(1:43:37)から(1:45:47)までの、「『スミシーの家』の裏庭」のシーンについて。

前回で「ポーランド・サイド」が一区切りしたところで、またもや舞台は「『スミシーの家』の裏庭」に戻ってくる。(1:37:20)から(1:38:55)までの「『スミシーの家』の裏庭」と対置される部分であり、「公的」「外界」「男性」に属する事象が表出したものと捉えることができることは以前に触れた。考えてみれば、この「裏庭」で開かれている「プライヴェート・パーティ」と称するもの自体が、「公私」の点で非常に曖昧な性格を持つ場合があるといえるだろう。そこに自分がこれから入団するサーカス団員たちを招いたピオトルケの意図は、はたして純粋に「私的なもの」であったかどうか。

さて、ピオトルケのシャツにぶちまけられた「ケチャップ」からもわかるように、この二つの「『スミシーの家』の裏庭」で起きる事象の時制自体は継続しており、このシークエンスは分割されたワン・シーンと捉えることも可能だ。となると、(1:38:55)から(1:43:37)までの「ポーランド・サイド」のシークエンスは、それに対する挿入部分であると理解することが可能であるかのようにもみえる。ただし、「インランド・エンパイア」全体のシークエンスを通してみた場合、なかなかそうした単純な(別な意味で複雑な)理解は許されない。

なぜなら、リンチによる他の非ナラティヴな作品がそうであるように、「インランド・エンパイア」にも、いわゆる「物語記述」の方法論としての「時制の操作」は存在しないからだ。映像として提示されている「事象」は、作品の開始から終了に向かって、「イメージの連鎖」に従い直線的(リニア)に発生しているだけである。言いかえれば、作品内の「時間軸」からみて、「『スミシーの家』の裏庭」がメインで「ポーランド・サイド」がサブであるというような比較はできない。「作品内の時制」の観点からいえば、どちらも「リアル・タイム」に発生している事象であるという意味で、まったく「均等」であるといえる。

それはさておき、このシークエンスにおける「サーカス」が「映画に関するもの」という範疇を越えて、一般的な「組織」や「社会」を表わすものとして捉えることができるという話は、以前にも述べたとおり。サーカスの団員たちとピオトルケが付随させている「幼児性」のイメージについてもすでに触れたので、詳述しない。

仔細に見ると、サーカスの団員たちはそれぞれ「星の付いた杖」だの「ロープ」だの「ジャグル用のピン」だのといった、「サーカス」という組織内で彼らが担っている「役割」を示すかのような「付属物(アトリビュート)」を手にしている。「サーカス=組織」というコンテキストに従ってこれらの「付属物」をみるなら、二人の団員の間で突如勃発する「ハンマー争奪戦」は、そのまま「組織内の権力抗争」を表わすものと読み取ることも可能だろう。ただし、「争奪戦」の有様を眺めるスーのカットが挿入され(1:44:31)、それが彼女の視点から観たものとして表現されていることは見逃せない。サーカス団員たちが付随させている「滑稽さ」や「幼児性」のイメージは、スーの(ひいては女性の)「主観的」なものなのだ。

また、途中で席を立ってテーブルの方に向う二人の女性(スーが話しかけた二人ではない)が映し出される映像(1:44:58)が認められる。彼女たちは再び映像に現れることなく姿を消すが、それもこのシークエンスが「男性に属するもの」であることを表していると受け取れなくもない。いずれにせよ、そこに女性たちが座る席はないのだ。

最終的にこのシーンはピオトルケの「サーカスに入団する」という宣言と「動物の扱いがうまいといわれる」という告白で終わり、以降の「サーカス」と「ファントム」関連のシークエンスへとイメージを連鎖させていくことになる。

2008年1月20日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (45)

なんだかんだで「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続き。前回に引き続き、今回も(1:40:34)から(1:43:37)までのシークエンスの後半部分を、やっつけてみる(笑)。

まずは、当該部分のファントムとロスト・ガールの会話の引用から。

Phantom: (チラリと足元に目を落とし、鼻を鳴らして) There was a murder...
Lost Girl: (しばらく言葉が出ない) How awful. Where?
Phantom: (画面外から) Just down the way. I think...
Phantom: you know the person.
Lost Girl: Who was it?
Phantom: (画面外から) Don't know the name...
Phantom: but have seen you with this person.
Lost Girl: You have?
Phantom: (画面外から) Yes.
Phantom: I think... I've seen the two of you together.
Lost Girl: (沈黙。深く息を吸って) That's awful.

この会話に引き続いて……

(1)階段の踊り場に横たわる「口髭の男」の死体(1:43:17)
(2)モニターを見詰めて涙を流すロスト・ガール

……の二つのカットが提示され、ポーランド・サイドのシークエンスは、ひとまずの区切りをつけることになる。

ファントムが告げる「殺人の発生」と、それに続く(1)のカットの提示を合わせてストレートに受け取るなら、ファントムが「口髭の男」を殺したように読み取れる。が、それを明示する映像は「インランド・エンパイア」にはまったく存在せず、確実なものではない。「口髭の男」が殺害された「理由」を含めて、あくまで受容者の解釈に任されていると考えていいだろう。

どちらにせよ、ロスト・ガールの「夫」としてのファントムが「口髭の男」を殺したのかどうかは、作品解釈上、あまり重要な事項ではない。繰り返しになるが、これもまた「インランド・エンパイア」が提示する「トラブル=機能しない家族」の個別例のひとつに過ぎず、他例を含め総体として「抽象概念」として捉えられるべきものであるからだ。こうした具体的な人間関係が重大な要素にならないことは、ファントムが「口髭の男」の名前すら知らない(Don't know the name)ことにも逆説的に表れているといえる*

より抽象的な観点からのアプローチとしてまず重視しなければならない点は、「口髭の男」を殺害することによって「映画の魔」としてのファントムが受けるメリットだろう。「心理展開のエスカレーション」を促し、受容者=ロスト・ガールの「同一化=感情移入」を深化させることがファントムの目的であるなら、それは彼が「口髭の男」を殺害する充分な理由になるということである。なぜなら、「口髭の男の死」は、間違いなく(ポーランド・サイドの)ロスト・ガールに降りかかる新たな「トラブル」の要素になり得るからだ。

また、「口髭の男」が付随させていた「時間コントロール」のイメージ(1:19:24)もまた、ファントムが彼を殺害する「理由」となることは以前に述べた。ファントムの「映画の魔」としての意図を考えるなら、受容者=ロスト・ガールが「現実の時間」を忘れるまで「同一化=感情移入」を進めることは彼の意に則しているといえる。であるならば、ファントムが「口髭の男」を殺害することは、ロスト・ガールを「『現実時間のくびき』から開放する」という象徴的な行為として捉えることが可能なわけだ。

だが、このシークエンスに至るまでの「イメージの連鎖」を考慮に入れたとき、はたして「口髭の男の死」をすべてファントムの積に帰することができるだろうかという疑問もわく。前回述べたように、「ロスト・ガールが『ストリート』に現われる」イメージは、直前のシークエンスでロコモーション・ガールたちが放った「彼女は誰?」という「問い掛け」によって喚起されている。つまり、この局面におけるロスト・ガールの「同一化=感情移入」の深化は、ロコモーション・ガールたちが「心理展開のエスカレーション」に対して機能した結果であるということだ。ならば、この「口髭の男の死=現実時間からの開放」という事象もまた、ロコモーション・ガールたちがもたらしたものだという解釈も成り立つのではないだろうか?

もっといえば、そこに至る契機がファントムであろうがロコモーション・ガールであろうが関係なく、ロスト・ガールが「同一化=感情移入」を深め「ストリート」に姿を現したこと自体が、「口髭の男の死=現実時間からの開放」をもたらしたとも解釈できるように思う。まさしくそれを表すかのように、「口髭の男」は「階段の踊り場」で、すなわち「家」と「ストリート」の狭間で、両者間の「移動の過程」でこときれているのだ……左手を階段の上方に伸ばし、まるで「家」を希求するかのような姿勢で。そう考えるとき、ロスト・ガールがつぶやく「恐ろしい(That's awful)」という台詞からは、「知り合い(あるいは不倫相手)」が殺されたことに対する「衝撃」以上の意味が浮かび上がってくる。それは、自身が常に一緒にいるはずの「現実時間」に対する見当識を失ってしまったことに対する「脅え」だ。

最終的にこのシークエンスは、「モニター画面を観ながら涙を流すロスト・ガール」のカットで終わる。それは、遡るそれ以前のシークエンスが彼女の「主観」であり「心象風景」であることを物語るものだ。具体的にいえば、(1:38:55)から(1:43:37)までのシークエンスは「ロスト・ガールの視点」から観られたものであり、彼女の「括弧」で括られている。ここにきて、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」を巡るニッキーとスーとロスト・ガールの(すなわち演技者と登場人物と受容者の)「ネスティング」は、急激に交錯し始めるのだ。

*「口髭の男」に限らず、「ポーランド・サイド」の登場人物たちは全員、固有名詞としての「名前」を持たない(少なくとも、作品中では明らかにされない)。というより、彼らは普遍的かつ抽象的な存在であるがゆえに、具体的な名前を「持てない」のだ。

2008年1月18日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (44)

そんなこんなで、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の話はなおも続くのであった。今回は(1:40:34)から(1:43:37)までをば、やらかしてみる(笑)。

引き続き、「ポーランド・サイド」を舞台にした「イメージの連鎖」が提示されていく。ここで主に映像として提示されているのは、「ストリート」を舞台としたロスト・ガールとファントムの「邂逅」だが、このシーン自体が直前のシークエンスからの「イメージの連鎖」の結果として喚起されている。詳しくは後述するとして、まずはこのシークエンスの前半部分にあたる(1:40:34)から(1:42:12)までの二人の台詞を引用しておこう。

Phantom: I almost didn't recognize you.
Lost Girl: You startled me.
Phantom: Strange... to find you on the street.
Lost Girl: You seem upset... Are you?
Phantom: Should I be?
Lost Girl: (何かを言いかけてやめる) No, but...
Phantom: (遮るように) So I shouldn't be?
Lost Girl: (画面外から) No...
Lost Girl: But still, you seem so.
Phantom: I think you don't recognize me...
Phantom: my manner...
Lost Girl: That's true. You seems different.
Phantom: (画面外から) You too.
Phantom: I'm used to seeing you in our home... not on the street...
Phantom: (画面外から) at night.
Lost Girl: Me too.

このシーンに至って、はじめてロスト・ガールがポーランド・サイドの「ストリート」に姿を現わすことにまずは注目したい。それはすなわち、受容者=ロスト・ガールの登場人物=スーに対する「同一化=感情移入」が深化し、「感情の共有」が進んでいることの映像的提示に他ならないからだ。

二人の会話から読み取る限りにおいて、明らかにファントムはロスト・ガールの「感情移入=同一化」が「ストリート」のレベルに達するまで深化しているとは思っておらず、彼女が「家」のレベルで安全に「トラブル=機能しない家族」の事象を享受しているものと考えていたようだ。ロスト・ガールが指摘するように、彼は予期せぬ事態に「動揺(upset)」している。なぜ「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「心理展開のエスカレーション」に対して機能しているはずのファントムが、ロスト・ガールの「同一化=感情移入」が深まっていることに驚くのか?

ここで問題になるのは、もう一組の「心理展開のエスカレーションに対して機能するもの」、つまり「ロコモーション・ガールたち」の存在だ。可能性として考えられるのは、受容者=ロスト・ガールの「同一化=感情移入」を深化させるうえで、「ロコモーション・ガールたち」の働きがファントムの予測を越えていたのではないか……ということである。それは言い換えれば、演技者=ニッキーが採用した「情緒の記憶」が限りなく的確であり、かつ彼女がそれを見事に演技に反映させて、登場人物=スーの「感情」として表現していることを意味する。

ここでロスト・ガールの「同一化=感情移入」の深化を進める直接的なトリガーとなったのは、直前のシークエンスにおいてロコモーション・ガールたちが発した「彼女は誰?(Who is she?)」という「問い掛け」である。受容者=ロスト・ガールはこの「問い掛け」を受け止め自らを省みることによって、演技者=ニッキーの「情緒の記憶」を(登場人物=スーを通して)自分の「感情」として共有し始める。自分もまた「トラブルによって傷つく女性」の一員であるとともに、「娼婦」になぞらえられる「感情」を有する存在であることに気づこうとしているのだ。それを表わす映像が、この「『ストリート』に現われるロスト・ガール」のイメージであり、それは「ロコモーション・ガールたちの問い掛け」からの「連鎖」として喚起されている。

一方、ロスト・ガールもファントムが「ストリート」のレベルにいることに驚き、脅えている。このシーンにおける二人の力関係が(1:18:09)や(1:19:13)のシーンのままであることからもわかるように、ロスト・ガールにとってファントムはポーランド・サイドにおける「夫の抽象概念」(あるいは「トラブルの起因」)であり続けている。つまり、彼女にとってもファントムは「家」にいるはずの存在なのだ。その彼が自らの「感情」の奥深い(最下層の)場所にいることに、ロスト・ガールは驚いている。もちろん、ファントムが(0:07:29)で自ら発言しているように、彼が「ストリート」にいるのは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に入り込むこと(look to go in)を意図してである。彼にとって「ストリート」はそのための「通路」であり、この時点でそこに至ってるからには半ば「入り込むこと」に成功しているわけだが、ロスト・ガールはそのことを知らない。

もう一点指摘できるのは、二人とも「相手が認識(recognize)できないほど、自分は変わってしまっている」と考えているらしいことだ。実際にファントムは彼女に「危うく気づかないところだった(I almost didn't recognize you)」と発言しているし、ロスト・ガールも彼のことを「違って見える(You seems different)」と言う。これらの発言から思い起こされるのは、「妻バージョンのスーの容貌」と「娼婦バージョンのスーの容貌」との間の「変化と落差」だ。この「スーの変容」は、そのまま「『家』が表すもの」と「『ストリート』が表すもの」の関係性を物語っており、両者の「落差」を表わしていると捉えてよい。「インランド・エンパイア」に頻出する「高低のアナロジー」が示すように、「家」と「ストリート」は人間の内面における「表層」と「深層」の関係にあるといえる。「スーの二つの容貌」はこの両者の「乖離」や「捩れ」を表わすものであり、文字どおり「落差」を描いていると受け取ることが可能だ。リンチ作品においては、しばしば「内面」は「外面」として目に見える形で描かれるのだ。

この見方に基づくなら、自分が「ストリート」にいることを自覚しているファントムとロスト・ガールが、ともに「家」にいたときと比べて自らが「変容」していると考えるのも理解できるだろう。ファントムは「夫の抽象概念」としての自己を捨て、「映画の魔」として「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に入り込む途上にある。一方で、ロスト・ガールも登場人物=スーを通して「トラブルに傷つく女性」としての自分を自覚し始めたところだ。「口髭の男の妻」とピオトルケがそれぞれの「家」で口走るように、ファントムとロスト・ガールも等しく「自分はあなた(お前)が考えているような者ではない!(I'm not who you think I am!)」(1:18:50)(2:16:21)のである。

(んでもって、後半部分に続く)

2008年1月17日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (43)

「今日もいい天気」な感じで「インランド・エンパイア」の「イメージの連鎖」などをチミチミと追ってみる……などとナニを口走っておるのか自分でもよくわからんが(笑)、とにかく今回は(1:38:55)から(1:40:34)まで。

前回述べたように、ピオトルケのシャツについた「ケチャップ=フェイクの血」をトリガーにして、シークエンスは「裏庭」から「ポーランド・サイド」へと連鎖していく。

まず提示される「走行している自動車の内部からみた街並み」のショットによって、シークエンスが「ポーランド・サイド」に移行したことが明確に宣言されるが、こうした「自動車のウィンド・シールド」越しのショットがシークエンス間のつなぎとして使われている事例は「インランド・エンパイア」の各所にある。たとえば、(1:18:00)のやはり「ポーランド・サイド」の車中からのショットや(1:49:43)のスーの自動車の内部からみた「アメリカ・サイド」の「夜の街」のショット、そして(1:53:55)の「バルチック地方の林道」のショットなどが挙げられる。このような「車中からのショット」による時制・場所の提示は映画全般に普遍的にみられるもので、特に「インランド・エンパイア」の何かを特徴付けるものではない。逆にリンチがこうした「映像文法」に準拠している傍証として、とりあえず指摘しておく*

一種のエスタブリッシング・ショットとして機能しているこの「車中からのショット」を経て、(1:39:04)から(1:40:34)までのシークエンスにおいて「ポーランド・サイド」における「ロスト・ガールの死」が描かれる。この一連のシークエンスにおいて提示されている映像は、以下のようなものだ。

(1)スクリュー・ドライヴァーを手に「建物」の階段を上る「口髭の男の妻」。彼女はそのままロスト・ガールの部屋に入る
(2)暗闇に沈む部屋の内部。女性の悲鳴と立ち去る足音
(3)暗い階段。扉が閉まる音。階段の踊り場にうずくまり、頭をかきむしる「口髭の男の妻」
(4)「口髭の男」の部屋に立ち尽くす「口髭の男の妻」((1:19:07)と同一のシチュエーション)。こちらを向いて「彼女は誰?(Who is she?)」と尋ねるロコモーション・ガールの一人。倒れているロスト・ガール(オーヴァーラップ)。こちらを向いて「彼女は誰?(Who is she?)」と尋ねるもう一人のロコモーション・ガール(オーヴァーラップ)。腹部から血を流して倒れているロスト・ガール(オーヴァーラップ)

(4)および(1:19:07)の「口髭の男の妻」が作品を通じて背中しかみせていないため、映像として明確にはされていないが、(1)および(3)でスクリュー・ドライヴァーを携えて登場する女性は「口髭の男の妻」である……と捉えるのが妥当だろう。それは、(1)(2)(3)の映像と(4)の映像の関連性において、そしてこの後のシーケンスにおいて提示される映像によって暗示されている。「口髭の男」とロスト・ガールが知己であることは、ファントムが「殺人の発生」を告げるシークエンス(1:42:21)において明示されており、一方で「口髭の男の妻」が夫に向かって言う「あの女のところへなんか行かせない!(I'll never let you have her!)」という台詞(1:18:53)がある。これらのシーンをあわせて考えたとき、「あの女」がロスト・ガールを指し、不倫のもつれの果てに「口髭の男の妻」に刺されたと捉えるのは一定の蓋然性をもつはずだ。

だが、その一方で、「ロスト・ガールの死」を「機能しない家族=トラブルの抽象概念が引き起こした普遍的な事象」として捉えるなら、このように具体的な人間関係を特定したところで、実はあまり意味がないともいえる。理由はともあれロスト・ガールが何らかの「トラブル」のせいで刺され、その刺した相手もまた「ポーランド・サイド」の「ストリート」に立つ存在である(2:10:58)ことさえ明確であるなら、作品解釈上、クリティカルな問題にはならない。

それはさておき、いまさら指摘するまでもなく、この「ロスト・ガールの死」は「象徴的な死」であって、「過去に発生した(作品内)現実」として具象的に理解されるものではない。「口髭の男の妻」によって凶器として使われる「スクリュー・ドライヴァー」は、デヴォンの妻であるドリスの腹部に刺さっていたもの(0:36:15)や、ドロシー・ラムーアの「星」の上でスーの横腹をえぐったもの(2:22:42)と同一のものだ。「スミシーの家」と「向かいの建物」の関係性と同じく、ここでも「スクリュー・ドライヴァーで刺される女性たち」は相互に「普遍と個別例」の関係性にある。彼女たちはすべて、「スクリュー・ドライヴァー」によって表わされる「悪意」でもって互いを傷つけ合う存在であるという意味において、「等価」であるわけだ。「機能しない家族」の諸例が総体として抽象概念を表わすのと同様に、彼女たちは「トラブルによって傷つく女性の抽象概念」であるといえる。

そうした「普遍と個別例の関係性」や「等価性」を表しているのが、(4)の映像だ。この映像によって提示されているのは、「口髭の男の妻」と「ロスト・ガール」が、ともにこの「彼女は誰?(Who is she?)」という質問の対象として、あるいはそれに対する回答において「等価」であることに他ならない。そして、その回答はもはや明白だろう。刺されたロスト・ガールも刺した「口髭の男の妻」も、ともに「トラブルによって傷ついた女性」であり、「私は娼婦よ(I'm whore)」とつぶやく存在なのである。

*「ロスト・ハイウェイ」のオープニング・クレジットは、それ自体が作品全体を象徴するものとして強烈な印象を残すが、たとえば「孤独な場所で(In a Lonely Space)」(1950)や(こちらは鉄路だが)「仕組まれた罠(Human Desire)」(1954)をはじめとする何本かのフィルム・ノワール作品などにも同様の意匠のオープニングが認められ、むしろそれらの作品を踏襲したものとして捉えるべきであるように思う。

2008年1月15日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (42)

つなことで「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」の続き。今回は(1:37:20)から(1:38:55)までをば追いかけてみる。しかし、このペースでやっていくってえと、最後までたどり着くのにどのくらいかかるですかね。前半の一時間分も残ってるしな。うーん、まあ、ボチボチやるです。

(1:37:20)からのシークエンスは、「スミシーの家」の「裏庭」のシーンから始まる。あらかじめ大きな流れとして指摘しておきたいのは、この(1:37:20)からの「裏庭」のシーンは、後に現れる(1:43:37)からの「裏庭」のシーンと対になるものとして捉えられることだ。

以前にも触れたように、リンチが繰り返し提示する「何かよくないことが起きる可能性がある場所としての『家』」というモチーフの延長線上にあるものとして「裏庭」をみた場合、そこは「私的なものと公的なものが交錯する場所」として、あるいは「内面と外界が入り混じる場所」として捉えることができる。この観点からみたとき、後の「裏庭」が「公的なもの」もしくは「外界」の事象に傾いたものとして理解できるのに対して、先に表れる「裏庭」が提示するものは「私的なもの」もしくは「内面」の方向に傾いた事象であるといえるだろう。また、あえて指摘するなら、徹底的に「女性の視点」から描かれている「インランド・エンパイア」においては、先に表れる「裏庭」は「女性に属するもの」であり、後の「裏庭」は(女性の目から見たものではあるが)「男性に属するもの」であるといえないこともない。

そのことを端的に表わすのが、スーと二人の女性によって交わされる以下のような会話である。

スー: (笑いを浮かべて) Look at me... and tell me if you've known me before.
右側の女性: (うなずいて) Yes. We will do that.

以前にも指摘したとおり、「インランド・エンパイア」に登場する女性たちは、形を変えて繰り返し自分のアイデンティティに関する問い掛けを行う。ここではスーによって為される「私(たち)を知っているか?」という問い掛け自体も、すでにロコモーション・ガールの一人からスー=ニッキーに対して行われているし(1:09:30)、後のシークエンスではロスト・ガールからロコモーション・ガールの二人に向かって発されることになる(2:11:22)。そして、それらの問い掛けに対する回答が「私は娼婦よ(I'm whore)」というスーのつぶやき(2:07:37)にすべて回収されていくことも、以前述べたとおりだ。当然ながら、「娼婦」である(かのような「感情」を抱いたことがある)という意味合いにおいて、彼女たちは全員「顔見知り」である。ロコモーション・ガールたちが演技者=ニッキーの「情緒の記憶」であり、それによって登場人物=スーの「感情」が形成され、その「感情」を受容者=ロスト・ガールが共有するというネスティングが成立している限り、彼女たちは互いを「知っている」のだ。

……という具合に、「裏庭」において「内面的」「私的」「女性に属するもの」に関する事象が進行している途中に、「ケチャップ」を腹にぶちまけた「男性=ピオトルケ」による介入が発生する。が、その「介入」はここではむしろ「内面」的な事象の進行を促進する方向に働く。ピオトルケのシャツについた「ケチャップ=フェイクの血」は、「互いに向けられた悪意」を表わす「スクリュー・ドライヴァー」によって腹部を刺される「痛み」を想起させ、「クィーン・ケリー」の台詞を引用する(ポーランド・サイドの)ロスト・ガールのインサート・カット(1:38:10)を喚起してしまう。そして最終的には、「ロスト・ガールの死」から始まる一連の「ポーランド・サイド」のシークエンスまでイメージを連鎖させるまで続く。

この「クィーン・ケリー」からの台詞の引用「私の心に潜む邪悪な夢を追い出してください(Cast out this wicked dream whitch has seized my heart)」の「邪悪な夢」が何を指すのかは、前後のシークエンスから形成されるコンテキストから明らかだろう。第一義的には「ケチャップ」から想起された「スクリュー・ドライヴァーに刺される痛み」であり、自らを「『ストリート』に立つ『娼婦』」に喩えざるを得ないような「感情」のことである。そして、最終的にはそのすべての「起因」である「機能しない家族」と、彼らが住む場所としての「家」のイメージにまでつながる。と同時に、「インランド・エンパイア」の随所にちりばめられている(「クィーン・ケリー」をはじめとする)「すべての中断された映画」へのリンチの言及の意も、間違いなく含まれていると思われる。それはポーランドやハリウッドの映画産業の現状に対する、ひいては「映画」というメディアそのものが内包する「コントロールの概念」に対するリンチの私的な思いの表れでもあるといえる。「製作の断念」は、そうした「コントロール」のある究極の形(あるいは完全な崩壊)であろうからだ。

いずれにせよ、「インランド・エンパイア」は、この付近から受容者=ロスト・ガールが抱く「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」への「同一化=感情移入」を、明確に提示し始める……ってなことをつぶやきつつ、以下、次回。

2008年1月13日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (41)

というわけでいつものように、「インランド・エンパイア」における「イメージの連鎖」をさぐる作業はダラダラと続くのであった。とりあえず前回の続き、(1:31:50)から(1:37:19)までの連鎖を追いかけてみる。

ここの一連のシークエンスで映像として提示されているものを順に追いかけると、以下のような流れになる。

(1)ベッドから抜け出すスー
(2)「スミシーの家」のリビング・ルームで電話をかけるスー
(3)「Rabbitsの部屋」の電話が鳴る
(4)誰かが電話をとるのを待つスー
(5)電話をとるジャック・ラビット。受話器からは「Billy?」と問いかけるスーの声がする
(6)受話器に耳をあてているスー(フェイド・アウト)

このように「スミシーの家」(2,4,6)と「Rabbitsの部屋」(3,5)がクロス・カッティングで交互に示され、本来「ビリー・サイドの家」に向けて発信されたはずの電話がジャック・ラビットによって受け取られたことが提示されている。このシークエンスによって表されているのは、やはり「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という映画作品が受けている「コントロール」のことだ。

このコントロールが非常に強いものであることは、上記のシークエンスにおいてみられるように、本来ビリーにつながるはずだったスーの電話をいわばウサギたちが横取りする形になっていることからも明らかだろう。この「横取り」は、ウサギたちによる「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対する「介入」のイメージを伝えている。以前も述べたように最終的に「Rabbitsの部屋」につながる限りにおいて、この「電話」はもともと「物語展開の要請」を行うものではあるが、ウサギたちは放逸な「物語展開のエスカレーション」を許さないのだ。ウサギたちが目指すものは「受容者の感情移入の獲得と維持」を前提とした「作品=商品」の成立であり、それを実現するうえで「不要」である要素や「障害」となる要素を、作品から積極的かつ強力に排除する。前もっての排除がかなわず、たとえそれが作品の中ですでに起きた事象であったとしても、つまりすでに撮影されフィルムとして残されているシーンであったとしても、最終的には「編集」という手段による「削除」でもって排除を達成する。

ウサギたちの介入を受け、彼らのコントロールによって修正された「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」は、さらにその修正を踏まえた「物語展開」を要請する。その要請は、「シルクの布に煙草の火で開けられた穴を覗く行為」のインサート・カット(1:33:18)を挟み、またしても「Mr.Kのオフィス」における「人生相談」(あるいは「自分語り」)という「効率のいい物語展開」(1:33:26)という形で応えられることになる。だが、なぜここに「シルクの布に煙草の火で開けられた穴を覗く行為=映画を作る行為=映画を観る行為」のカットがインサートされなければならないのか?

まず思いつくのは、ウサギたちによって削除・修正された「物語展開」は「分断」を引き起こす可能性があり、それは同時に「心理展開の分断」を発生させる可能性をも意味するということだ。ナラティヴな作品が「物語展開と心理展開の連動」という特性を備える以上、この「分断の連動」もまた不可避であるわけだが、当然ながらそれは望ましいことではない。古典的ハリウッドの映像編集は、まずなによりも「作品に対する受容者の感情移入の獲得と維持」を目標として発達したものである。もし何らかの理由で「物語展開の修正」が行われるならば、それは「心理展開」を断絶させない形で、つまり「受容者の感情移入」を破壊しない形で行われるのが原則だ(もちろん、何らかの効果を意図している場合はこの限りではない)。

その原則が達成できない場合、「物語展開の修正」はときとして「心理展開の修正」をも伴わなければならない。「編集」による修正であるにせよ、抜本的に「物語展開」と「心理展開」両面の改変作業を行うにせよ、それは基本的に「映画を作る作業」に還元されていく。ここで「映画を作る行為」としての「シルクの布に煙草の火で開けられた穴を覗く行為」のイメージが提示されるのは、こういう意味合いにおいてだ。

2008年1月11日 (金)

リンチ、iPhoneを斬る!

本日じゃないけどdugpa.comネタ。

よくわからんのだが、「iPhone」を「Fu*kin' Telephone」とくさすデイヴィッド・リンチの映像がYouTubeに上げられている……というネタが突然dugpa.comに掲載されている。「よくわからん」というのは、この映像は「インランド・エンパイア」の北米版DVDに映像特典として収録されている、「TRUE EXPERIENCE」と題されたリンチのトークの一部だから。なので、DVD買った人間は(全員じゃないにせよ)とっくの昔に観てるはずで、なぜ今頃になって話題になってるのか、理由が不明なんであります。直近にiPhone関連でなんかあったっけかなあ?

ここでリンチが語ってることの内容自体は、自著の「Catching The Big Fish」に収められている「Future of Cinema」と題する文章で書いていたのと同じようなことだったり。要するに、iPodやiPhoneの小さな画面で映画を観たんじゃ、本当の「別世界の体験」は出来ませんぜ、旦那……というようなことですね。「『映画=世界』であり、それを観ることは『別な世界』を体験することである」ってなことを、映画作品に仕立てて宣言しているのが「インランド・エンパイア」であるわけで、まあ、リンチの姿勢としては一貫しているわけでありますが。

あ、DVDに収録されている映像には、YouTube版の最後に出る「iPhone」のロゴはもちろん収録されてませんので、念のため(笑)。YouTubeに上げたヒトが面白がって付け加えたみたいなんだけど、いいのかなあ、それ(笑)

1/17追記:どうやら、「iTunes Movie Rental」と「iTunes Digital Copy」がらみで話題になったみたいだ。

2008年1月 9日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (40)

ここまで「イキバタ」な感じでエエのんかという疑問を抱きつつ続く「インランド・エンパイア」話(笑)。今回は「サーカス」と「裏庭」の関係について。

「インランド・エンパイア」において、「サーカス」が映画やラジオなどに先行する「メディア」のひとつとして表れていることは、以前にも述べたとおり。と同時に、ピオトルケが突然「サーカスに入る」と言い出すシークエンス(1:43:37)にみられるように、サーカスは「夫の抽象概念」であるピオトルケの、ひいては男性全般の「幼児性」を表わすイメージとしても使われているという見方もできそうな気がする。

たとえば「スミシーの家」の「裏庭」におけるシーケンスにおいて、ピオトルケが招待していた(スーにとっては突然の)訪問客であるサーカス団員たち(男性ばかりである)の言動によっても、彼らの「幼児性」は明らかだ*。トイレが我慢できないことを「危険な状況だ(The situation is becoming dangerous)」と言うかと思えば、「紙がない(There is no paper. For the toilet)」とか言い出す。二人の男は何を思ったか、ハンマーの争奪戦を始める。そんな彼らを背景にしながら、ピオトルケはTシャツに「ケチャップ=フェイクの血」をつけたまま、照れくさそうに「動物の扱いがうまいと言われるんだ(It was said that I have a way with animals)」などという何が根拠だかよくわからない脳天気なことを理由に、サーカスに入団すると宣言する。

そうやってつるんだ挙句、最後には酒場で乱闘騒ぎを起こして連行されるのだから、タチが悪い(笑)。お灸をすえられた男たちはすごすごと「家」に帰った結果、「Room to Dream」に登場する男性のように、「サーカスに行ったんだとばかり思ってた」と女性たちから揶揄される運命にあるはずだ。「インランド・エンパイア」における女性たちが「ストリート」に表わされるものに徹底的に結び付けられているのと同じように、夫の抽象概念であるピオトルケは「サーカス」に表されるものに結び付けられている。この「幼児性」もまた、「ニッキー=妻」が抱く「ピオトルケ=夫」に対するイメージのひとつに他ならないのは言うまでもない。

その一方で、デヴォンのマネージャーがいうようにピオトルケは「このあたりで一番の実力者(he is most powerful guy around)」(0:22:51)であるはずで、「デヴォンに対する恫喝」(0:42:23)のシークエンスからも、彼が「権力」を扱いなれている(とニッキーが感じている)ことが読み取れる。また、ニッキーがスーの役を獲得したシークエンスにおける「ピオトルケの監視」(0:19:08)からうかがえるように、彼女が職に就いていること、それも女優という職業であることを要因とした「夫婦間の確執」が以前から発生している(とニッキーが感じている)ことも示唆されているといえるだろう。

だが、その「幼児性」と「権力志向」のゆえに、ピオトルケたちは権力的により上位にある「ファントム」によって手なずけられ、簡単に見捨てられることになる。こうした表現を目にして思うのは、「インランド・エンパイア」における「サーカス」が「映画に関するもの」という範疇を越えて、一般的な「組織」や「社会」になぞらえられていると受け取ることも可能ではないかということだ。その「組織」あるいは「社会」の内部において、ピオトルケは「動物」として表されるもの、つまり「自律性を有しながら、より上位のもののコントロールを受ける存在」に過ぎないのだ。「インランド・エンパイア」が徹底的に女性の視点から「機能しない家族」を描いていることから考えると、とりあえずこうした表現も「女性が男性をどうみているか」の問題に還元されていくかのようにも捉えられる。

しかし、「ブルー・ベルベット」のフランクや「ロスト・ハイウェイ」のフレッド=ピート、あるいは「ツイン・ピークス」のホーン兄弟の描かれ方をみればわかるように、リンチ作品において描かれる「権力」と「幼児性」は往々にして不可分だ。この両者をつなぐのはしばしば「全能感」とでもいうものであり、それはたとえば「ロスト・ハイウェイ」でピートの人格を手に入れたフレッドが、自宅の裏庭で安楽椅子に座ってくつろぐシーン(0:56:09)において明確だ。フレッドとしての追及を逃れる「権力」を得た彼が塀越しに見るのは、隣家の庭に置かれた幼児用プールとそこに浮かぶヨットの玩具やボール、そして子犬という「子供」を表す記号群なのである。

もし「サーカス」が組織や会社という「公的な場」の謂いであるならば、「サーカスに入る」というピオトルケの宣言が「スミシーの家」の「裏庭」という半ば公的で半ば私的な場所で行われるのも、あるいは当然であるのかもしれない。リンチ作品における「家」のモチーフを考えるとき、プライベートであると同時にオープンでもある「裏庭」は、非常に興味深い場所であるといえる。この私的なものと公的なものが交錯する場所において、あるいは「内面」と「外界」が境界線を曖昧にする場所において、ピオトルケは「権力」を夢み、フレッド=ピートは「全能感」を謳歌する。だが、「家」の内部からの視線は時には冷ややかでしかないし、その境界は非常に脆く容易に「外界」の侵入を許すのだ。

*船長帽を被ったリーダー格の団員だけが「時刻」について言及する。

2008年1月 6日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (39)

てなわけで年があらたまったが、旧年の回顧や新年に向けての抱負など一切あるわけもなく、粛々と「インランド・エンパイア」話を進めることとする(笑)。そうさの、いつもと違うところは酒量がいささか増えたことぐらいかの(笑)。やっぱ酔っ払っているとまともな文章が書けないことがわかったのは収穫であった……って、ナニを言うておるのやら。

それはさておき。

「Mr.Kのオフィス」から続くシークエンスをとりあえず区切りのいいところでブロックに分けるなら、(1:25:53)から(1:31:16)までになる。このブロックはまた、(1:25:53)から(1:29:26)までのシークエンスと、(1:29:26)から(1:31:16)までのシークエンスの二つのブロックに分けられる。

このうち、前半のブロックは「心理的展開」に関するものを提示している。まず提示されるのが、「スミシーの家」のベッド・ルームから短い廊下を通ってスーが小部屋に入るカット、そしてスーの主観ショットによる小部屋内部の様子だ。このシークエンスは、まず、続くシークエンスにおいてスーがどこにいるかの明示として機能している。と同時に、床に落ちている「シルクの布」や「灰皿の上の火のついた煙草」や」によって、この小部屋が「シルクの布に開いた穴を覗く行為」が行われている場所であることも明瞭にする。なぜこの二つを表すカットが必要であったかは、次に表れるシークエンスが「ロコモーション・ガールたちを幻視するスー」(1:26:28)であることで理解できるはずだ。つまり、このシークエンスで表されているのは、「トラブル」が発生する場所としてのベッド・ルームからスー=ニッキー自身の「内面」への移行であり、ニッキーの「情緒の記憶」をたどる作業は継続されていることになる。

その「情緒の記憶」がどのようなものであるかは、ロコモーション・ガールたちの会話によって明らかだろう。概していうなら、ここで彼女たちによって語られるのは「夫・恋人との破綻した関係」という「トラブル」であり、それを回復する手段としての自らの「セクシャリティ」だ。それが評価される限りにおいて、破綻した関係の修復や新しい関係の獲得に「セクシャリティの使用」は有効な手段であり、その習得は「ロコモーション」の歌詞にあるがごとく「ABCを習うよりやさしい(It's easier than learnin' your ABCs)」ことを彼女たちは知っている。逆に、ハリウッド・ブルバードのシークエンスにおいて登場する「サロンの着用を拒否したドロシー・ラムーアの星」(2:23:41)によって表されるように、「セクシャリティの使用」を完全に拒否することの困難さも彼女たちは認識しているはずだ。また、そうした「セクシャリティの使用」がすべて彼女たちの意思であるわけではないことは、「Mr.Kのオフィス」におけるスーの種々の発言にも表れている。かつ、意思に反して「セクシャリティ」を使用せざるを得なかった彼女たちが感じるのは、自らを「娼婦」に例えるような感情であることも後のシークエンス群によって提示される。ニッキーの「情緒の記憶」によって喚起されたものは、そうした事柄だ。

これを受けて(1:29:26)からの後半のブロックでは、「スミシーの家」のダイニング・ルームでのスーとピオトルケの会話のシークエンスがまず提示される。「物語の展開」が進み、「スミシーの家」における「トラブル=機能しない家族」の様相が明らかになり始める。最終的に「ピオトルケによるスーの殴打」シーン(2:16:32)で彼が告白するように、ピオトルケは「自分が子供を作れないことを知っている(I know it for a fact. I can't father children)」。となれば、スーが妊娠を告げたことによって、ピオトルケが何を理解したかは明らかだろう。同時に、このピオトルケの告白が、ポーランド・サイドにおける口髭の男の妻が彼に向かって言う「私は子供を生めない(I can't give you children... I know that...)」という台詞(1:18:41)と対をなしているのは明白である(他にも呼応している台詞がある)。こうした表現から読み取れるのは、「スミシーの家」で起きている「トラブル」が、形こそ変わっていても「ポーランド・サイド」で起きている「トラブル」と「等価」であり、「普遍のなかの個別例」のひとつに過ぎないということだ。繰り返しになるが、こうした「トラブル」の諸例は、すべてひっくるめて「機能しない家族」の抽象概念として捉えられるべきものなのである。

このダイニング・ルームでのシークエンスは、再びリビング・ルームで輪になって踊るロコモーション・ガールたちのインサート・カットへと続いていく。もちろん、このインサート・カットもスーの内面における幻視であり、ここでもまた「物語上の展開」をトリガーとした「心理上の展開」への移行が行われているわけだ。具体的にいうなら、ダイニング・ルームでのピオトルケの言動がスーに与えた(とニッキーが自らの「情緒の記憶」から理解した)「情動」がトリガーとなって、この移行が発生していることは明白である。また、このシーン間の移行の際にEtta Jamesの「At Last」がサウンド・ブリッジとして使われており、両者の因果関係は明らかに強調されていることがわかるだろう。この曲はロコモーション・ガールのカットのあいだずっと流れ、続く「スミシーの家」のベッド・ルームで真夜中に目覚めるスーのシークエンスに対してもサウンド・ブリッジの役目を果たす。目覚めたスーはリビング・ルームで電話を掛け、その電話はサイド家ではなく「Rabbitsの部屋」につながる……という具合に、ここで述べているブロックと重なった形で別のブロックを発生させつつ、「物語上の展開」と「心理上の展開」のエスカレーションは形を変えて何度も繰り返されていく。

このように「ナラティヴな作品のもつ特性」という視点でみる限り、この互いに対応する前後半のブロックが提示しているものは(そしてそれに続く一連のシークエンスが示しているものは)、「物語展開と心理展開の連動性」の具体例であり、直前で提示されている「Mr.Kのオフィスでのスー」のシークエンスのリフレインであるとともに、その「展開図」とでもいうべき関係にあるといえるわけだ。

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