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2007年12月21日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (36)

オマケなんぞと言いながら、「インランド・エンパイア」話はまたもや「シルクの布に開いた穴」に戻ってしまうのだが。まあ、それこそ全体構成なんかなーんも考えないで行き当たりばったりに書いてるメモなんで、あきらめてください(笑)。しかし、マクロとミクロを行き来するが如くの錯綜した形でしかリンチ作品は語れないというのも、また真実ではないでしょーか。とりあえず、そーしとけ(笑)。

それはさておき、前々回の続き。

さて一方、「向かいの建物」にあるいくつもの「家」では、いったい何事が起きているのか。それを表わすのが、(1:17:03)からの「シルクの布に開いた穴を覗く行為」のイメージに続いて提示される「ポーランド・サイド」のシークエンスになる。タイム・スタンプでいうと(1:18:00)から(1:19:55)まで。今更な指摘だろうが、「建物」とこれらのシーンの「同一性」は、その共通する画面の色調からも明らかだ。

このシークエンスにおいて、具体的映像として描かれているのは「ファントムから暴力を受けるロスト・ガール」であったり、「他の女と会おうとしている夫を詰る妻」であったりする。しかし、以前にも述べたように、これらの映像は全部ひっくるめて「『機能しない家族』の抽象概念」の一部として捉えられるべきものだ。つまり、「不特定多数の受容者」が住む「不特定多数の家」がある「建物」の内部において、普遍的に起きている事象を例示しているということである。

このことを押さえたうえで、今度は遡って「『ストリート』を挟んで向かいの『建物』をみる」シークエンス(1:15:25)から「シルクの布に開いた穴を覗く行為」(1:17:03)の間のシークエンスを振り返ってみる。すると、そこで提示されているのは……

・青い光に包まれたベッド・ルームで寝ているスーとピオトルケ
・妊娠に気づくキッチンのスー
・"Hello"と言いながら「スミシーの家」に入るスー
・廊下からのピオトルケによる監視
・無人のリビング・ルーム

……といった、「スミシーの家」の内部で発生している「機能しない家族」を示唆する事象の例示であることがわかる。

要するに(1:15:25)から(1:17:03)の間で描かれているのは、「スミシーの家」の内部で発生している事象と(それは、ここでは「『ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS』という作品の中で発生している事象ということだが)、「建物」の内部に存在するいくつもの「家」で発生している事象の対比だ。言葉をかえれば「個」と「普遍」の対比であるわけだが、当然ながらこの「個」も「普遍」の中の一部分に過ぎず、すべてをひっくるめて「抽象概念」として取り扱われるべきものである。早い話が「スミシーの家」と「建物の中の家」は、その内部で発生している事象という観点からすれば「等価」なのだ。そしてこの「等価性」を保障するのは、(1:17:03)からの「シルクの布に煙草の火で開けた穴から覗く行為=映画を作る行為=映画を観る行為」*に他ならない。

しかし、この箇所の「イメージの連鎖」はここでとどまらない。この「ポーランド・サイド」のシークエンスの直後にインサートされるのは、モニターを見詰めながら涙を流すロスト・ガールのカット(1:19:56)なのだ。それぞれの「家」の内部で起きている事象の「等価性」を糊代にして、今度は「シルクの布の穴を覗くニッキー=スー」と「モニターを見詰めるロスト・ガール」の「等価性」が提示されているのである。ここでは「演技者=登場人物=受容者」のネスティングについても、あるいは「感情の共有」という視点からみた「映画を作る行為」と「映画を観る行為」の「等価性」についても、複合した形で触れられているのだ。

広い意味では、この(1:15:25)から(1:20:13)までの一連のシークエンスが伝えるのは、以前俯瞰した(1:00:00)から(1:15:25)までのシークエンスと同じく「映画を介した感情の共有」であるといえる。異なっているのは、このシークエンスがより具体的な事象を提示していることで、二つのシークエンスはいわば「概念」とその「具体例」の関係にあるといえるかもしれない。

(あああ、続くです)

*クリスチャン・メッツは「映画と精神分析 想像的シニフィアン」(1977)において、撮影機による「映像の撮影」と映写機による「映像の投影」が「鏡像的な反復関係」にあること、そして映画館における映写機によるスクリーンへの「映像の投影」とそれに対する受容者の「知覚」がその「鏡像的な反復関係」を(暗喩として)反復していることを、ラカンが提唱する「鏡像段階」における幼児の「自我形成」を念頭におきながら述べている。
「(撮影機、映写機、フィルム、スクリーンなどの)装置類が、制度化された心的過程の(現実的な源であると同時に)暗喩(メタフォール)にもなっているのである」(白水社版 P.106)

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