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2007年12月18日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (35)

前回に引き続き、「インランド・エンパイア」における(1:00:00)から(1:15:25)までの「イメージの連鎖」を俯瞰してみる。今回は(1:13:08)あたりからスタート。

……ってな具合に前項で述べたような状態までニッキーによる「スーの心理」の理解が進んだところに、「シルクに開けた穴を覗く行為」というモチーフが提示される。以前に述べたように、これは「映画を作る行為」と「映画を見る行為」の同一性を、つまり「感情移入=同一化」の視点から見た同機能性を表したものだ。言葉をかえれば、ニッキーが獲得した「スーの心理への理解」は、「映画」という優秀な「感情移入装置=媒体」を介することによって、不特定多数の受容者に理解され共有され得るということだ。

と同時に、このシークエンスにおいては、ロスト・ガールによって語られる「映画」という「メディア」を前景にして、その背景で「再生されるレコード」というもうひとつの「メディア」の映像が提示されている。それは、開巻直後にこれまた「再生されるレコード」によって伝えれた「ラジオ」という「メディア」に関する我々の記憶を呼び起こし、「インランド・エンパイア」に登場する(「テレビ」「ビデオ」「サーカス」を含めた)すべてのメディアが「感情移入装置の一種」であることをも想起させずにはおかないだろう。

前述した「不特定多数の受容者による共有」という概念は、「家」と「ストリート」の位置関係を伝える「上下に交わされる視線」のシークエンスを挟んで、次のシークエンスへとイメージを連鎖させる。つまり、眼下にある「ストリート」を挟み、階上の部屋の窓からロスト・ガールの「家」があるらしき建物を望むシークエンスだ。ロコモーション・ガールたちが「観たい?(Do you want to see?)」という問い掛けをもってニッキー=スーに最終的に見せようとしていたのは、この(後に「40」というナンバーが表示されていることがわかる)「建物」に他ならないことが、二人のロコモーション・ガールたちが窓のカーテンを開ける映像によって提示される。

この「建物」の映像は、「不特定多数の受容者によるスーの心理の理解と共有」という概念の、形を変えたリフレインである。向かいの建物に見えるいくつもの窓が表わすように、そこにはいくつもの「家」があるのは明らかだ。そのひとつひとつが「スミシーの家」と同じく「なにかよくないことがおきる可能性のある場所」であり、「機能しない家族」が住むところであり得る。そして、当然ながらそのひとつひとつの「家」は、建物の最下層の入り口で「ストリート」につながっているのだ。

このシークエンスが提示する「イメージ」によってニッキーが(そして我々が)「理解」するのは、「『家』と『ストリート』の関係性」が「スミシーの家」に住む「演技者=ニッキー」や「登場人物=スー」だけに適用されるのではなく、「向かいの建物」に住む「不特定の受容者=ロスト・ガール」にも適用されるということだ。メソッド演技によって呼び起こされた「情緒の記憶」は演技者=ニッキー個人に属するものだが、それは登場人物=スーの「心理」に重ねあわされることによって、不特定の受容者=ロスト・ガールにも感得・共有が可能な「普遍性」を備えたものになるのである。

このシークエンスにみられるような「映像による概念の図式化」というべき表現は、たとえば「イレイザーヘッド」における「ヘンリーの頭が落ちて消しゴムに加工されるシーン」や「ロスト・ハイウェイ」における「山道での交通道徳講座」、あるいは「マルホランド・ドライブ」における「ウェンディーズ・ハリウッド店の構造」などにもみられるものだ。こうした表現はリンチがそもそも映画製作に手を染める動機となった「時間経過とともに変化する絵画」の延長線上にあり、いわばこの監督の基本的表現のひとつだといえるだろう。たとえば立方体が解体されて二次元の展開図に変換されるように、ここでは「概念」が時間軸に沿って展開され「映像」に変換されているのだ。

ニッキーのスーに対する「感情移入=同一性」の過程を表わす「イメージの連鎖」は、「情緒の記憶」から始まり、「映画」の媒介を通じたロスト・ガールによる「感情の共有」の可能性を提示して、ひとまずの決着をつける。こうした視点から捉えるならば、リンチ作品が提示する「イメージの連鎖」はいっそロジカルといってよく、それは「インランド・エンパイア」に限らない。

それにしても、ロコモーション・ガールたちがカーテンを開けた窓越しに浮かび上がる暗い「建物」、そしてその最下層に口を開ける「入り口」の奥に潜む闇を映して終わる映像は、「インランド・エンパイア」前半における白眉とでもいうべきものだ。そのメゾンセンが伝える不気味さもあって、この「建物」を目にした我々は「漠たる不安」を感じ、自らに問わずにはいられない……我々の「家」もまた、「ストリート」に通じているのではないか? 我々自身の家族は「機能」しているのか?

(一応この項おしまい。でもオマケのようなものが続く予定)

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