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2007年12月15日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (34)

とゆーことで、この近辺の「イメージの連鎖」がどのように起きているかを整理してみる。こーゆーときに実際の映像を提示ながらだとわかりやすいんだけど、著作権とのからみでそーゆーことが出来ないのが歯がゆいですね。まあ、仕方ないけど、文字だけでシークエンスを説明することの限界も感じつつある今日この頃であります。北米版DVDをお持ちならそれでもって、あるいは国内版DVDが出たらそれでもって、タイム・スタンプ近辺のシーンを呼び出しながら読んでみてちょんだいませ。

……なんてなことを呟きつつ、すでに述べたことの繰り返しになる部分も出るとは思うが、整理してみよう。まずいえるのは、一回目の「Axxon N.」「ストリートを挟んで、向かいの建物をスーが見る」までのシークエンスは、つまりタイム・スタンプでいうと(1:00:00)から(1:15:25)までの15分あまりは、演技者=ニッキーのネスティングからみた「インランド・エンパイア」の核心部分になるということだ。

ざっと実際の映像のみを即物的にたぐると、「裏口の扉に書かれた『Axxon N.』の目撃」→「スタジオ4への侵入」*→「ニッキーによる視線の交換」→「ピオトルケの監視に追われて『スミシーの家』へ侵入」→「寝室にいるピオトルケを目撃」→「ロコモーション・ガールたちによる『ストリート』への誘導」→「シルクの穴を覗く行為の示唆」→「上下に交わされる視線」→「『ストリート』を見下ろす二階から向かいの建物を望む」という形になる。

一方で、この一連のシークエンスを「連鎖するイメージ」という視点で抽象的に捉えた場合、それが表わしているのは、大雑把にいえば「演技者=ニッキーが登場人物=スーへの感情移入(同一化)を深めていく過程」である。言葉をかえれば、「女優ニッキーがスーという役になりきるに際して、彼女の内面で何が起きているか」が描かれているわけだ。

たとえば「二人のニッキーによる視線の交換」のあと、キングズレイたちといるほうのニッキーが消える(1:02:31)のは、ニッキーがスーとの感情移入=同一化を進め、「ニッキー=スー」とでもいうべき存在になったことの表れだ。完全な形での演技者=ニッキーはここで消滅し、このあと登場人物=スーへの同一化が次第に進むに連れて、彼女は「ニッキー=スー」から「スー=ニッキーへ」、最終的には「スー」としての存在になっていく。

そうした「感情移入」の深化を目的として、ニッキーが「スーの心理」を理解するために具体的に使っている方法論は、いわゆるメソッド演技の「情緒の記憶」の使用に類するものと捉えられる。それに従って自分の実生活における「情緒の記憶」を振り返ってみたとき、自分と夫の関係によってもたらされた「感情」が蘇えり、それは「ピオトルケ=夫の抽象概念」に「監視」「干渉」のイメージを付随させることになる(1:03:13)。こうした過程を経て出来上がった「ニッキ=スーの夫」のイメージによって、彼女(たち)は「スミシーの家」の内部に追い立てられるわけだが、このとき「スミシーの家」が「映画のセット」から「現実の家」に変貌するのは、ニッキーのスーへの同一化が一層進んだことの表れとしても捉えられるだろう。

だが、その「スミシーの家」のベッド・ルームで、寝ようとしているピオトルケの姿を目撃したとき、ニッキー=スーは「スーの心理」への理解をより一層深める。リンチが繰り返し自作で提示するように、問題=トラブルは「何かよくないことが起きるかもしれない家」の内部にこそあるのだ。当然ながらだが、ニッキーのこの理解は、基本的に「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」のシナリオから得られている。ナラティヴな作品である以上「心理的展開」は「物語展開」を通して描かれざるを得ないが、ここで「赤」と「青」のモチーフが登場するのは、逆にシナリオの形で提示されている「物語」を通してニッキーが「スーの心理」を読み取っていることの表れだ。と同時に、その理解は再びニッキーを自身の「情緒の記憶」に連れ戻し、ついにロコモーション・ガールたちとの邂逅に至る。こうした視点でみるなら、この「ロコモーション・ガールたち」はニッキーの裡なる「情緒の記憶」そのものを表しているといえる。

ロコモーション・ガールの案内で、ニッキー=スーが辿りつくのが「ストリート」だ。後に映像によって何度も具体的に提示されるように、そこは娼婦たちの集まるところであることはいうまでもない。ここで、ニッキー=スーは「スーの心理」の根底にあるもの、そのもっとも奥深くに存在する「感情」を、「商売女になったような気持ち」**を理解するのだ。「ストリート」にニッキー=スーを導く直前、ロコモーション・ガールたちは、彼女に向って「目を開けば、そこにはよく知っている誰かがいる(When you open your eyes...someone familiar will be there.)」(1:11:17)と言う。「スーの感情」に対する理解が「ニッキーの情緒の記憶」から導き出されたものである以上、それがニッキー=スーが「よく知っているもの」であるのは、まったく当然のことではないだろうか。

(ちょいと長くなったんで、この項、続く)

*一回目の「Axxon N.の扉」から建物入ってから「スタジオ4」に至るまでの暗闇にのなかで、一瞬、フラッシュライトで明るくなったとき見えるのは「下り階段に向うニッキー」の映像である(1:01:48)。ここにもすでに「高低のアナロジー」は登場しているのだ。

**それを追補するのが、マリリン・レーヴェンスの「Starlight Celebrity Show」関係のシークエンス(0:20:45)であるといえる。これも具体的なニッキーの「情緒の記憶」のひとつになっているはずだ。

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