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2007年12月 5日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (30)

落穂続々。今回は「侵入するカメラ」について。

リンチ作品のカメラは、さまざまな「開口部」から、いろいろなものの内部に入り込む。たとえば「イレイザーヘッド」の「惑星の穴」、たとえば「ブルー・ベルベット」の「耳の穴」、たとえば「マルホランド・ドライブ」の「ブルー・ボックス」……。いずれにせよ、モンタージュの基本で考えれば、開口部から侵入したカメラが次に写すものは、侵入した先の「内部そのもの」あるいは「内部にあるもの」ということになる。それがもっともシンプルな形で表わされているのがリンチ製作による香水のコマーシャルで、カメラが香水の瓶に入り込んだ直後に登場する「花のアニメーション」は、瓶の内部に存在する「もの」の提示に他ならない。この内部と外部の関係性は「惑星の穴」や「耳の穴」や「ブルー・ボックス」にもそのまま当てはまり、「侵入するカメラ」に続く(ときには映画の終わりまで至る)シークエンス群は、その「内部」に存在する「もの」の表象だ。繰り返し登場する「内部へ侵入するカメラ」という表現は、もはやリンチの映像的常套句のひとつといえる。

さて、では、「インランド・エンパイア」において、この「侵入するカメラ」はどのように表れているか。まず挙げられるのは、「ニッキー=スーとデヴォン=ビリーの情事が行われている現場をピオトルケが目撃する」シークエンス(0:57:30)に登場する、「スミシーの家」の廊下をベッド・ルームに向かって「侵入するカメラ」である。

もちろん、このシークエンスを、そのまま「主演俳優二人の情事の発生」という「(作品内)現実」として具象的に捉えることなどできない。「青のモチーフ」によって彩られたこのシークエンスは基本的に「心理展開」に帰属するものであるし、なによりシークエンスが展開される場所が「人間の内面」を表わす「スミシーの家」においてなのだから。あくまでこれは(それがなんであれ)抽象的表現に帰属するものであり、かつニッキーの(あるいはスーあるいはロスト・ガールの)「主観」に基づくものだ。つまり、ベッド・ルームで繰り広げられている「情事」は、スーに感情移入し同一化したニッキーの(あるいはロスト・ガールの)「心象風景」そのものであるということである。

その観点から捉えるとき、まず指摘できるのはこのシークエンスの「主観視点」に付随する「夫による監視」のイメージということになる。「ニッキーが役を得たことを告げられる」シークエンス(0:19:08)でも提示されていたこの「夫の監視」のイメージは、ニッキー=スーが「スミシーの家」に迷い込む直前のステージ4におけるシークエンスにおいても表れ(1:03:13)、実はニッキーの「家」に存在する「トラブル」はこの「監視」のイメージに関連(あるいは起因)していることを伺わせている。かつ、「ピオトルケによるデヴォンへの脅迫」(0:42:24)のシークエンスともつながって、夫による「監視」「干渉」「統制」といった複数のイメージが入り混じる「複合的なもの」として成立しているともいえるだろう。

だが、こうした「複合的イメージ」もまた、ニッキーの(あるいはロスト・ガール)の「主観」によるものだということを看過してはならない。つまり、ニッキーが(あるいはロスト・ガールが)「『夫の抽象概念=ピオトルケ』による監視・干渉・統制を受けている」と感じているからこそこのようなイメージが喚起されるのであって、極論すればその「主観の妥当性」や「真偽のほど」は本質的な問題ではないということだ。先に挙げた「情事」だけでなく、そこに「視点」として登場するピオトルケをも含めた「映像全体」が、ニッキー(あるいはロスト・ガール)の「心象風景」であり、彼女(たち)の「内省」である。

そしてこの「侵入するカメラ」のシークエンスは、もう一箇所の「侵入するカメラ」と対になっている。つまり、「スミシーの家」に初めて入り込んだスー=ニッキーが、これまた廊下をベッド・ルームに向かって侵入し、そこで就寝するピオトルケを見るシークエンス(1:06:56)において登場する「カメラ」である。両方の「侵入するカメラ」の動きが備える同一性からして、この二つのシークエンスがある種の「対」を成しているのは間違いない。が、重要なのは、この二つのカメラが侵入する先が、「スミシーの家」の内部の、そのなかでももっともプライヴェートな場所であるといえる「ベッド・ルーム」*であることだ。

以前に述べたように、後者のシークエンスはスーの「ロコモーション・ガールたち」との遭遇、ひいてはポーランドの「ストリート」への誘導のシークエンスへとつながっていくものだ。スーの心理状態を「ストリート」まで導く「トラブル」のそもそもの起点・起因は、この一連のシークエンスの発端である「ベッド・ルーム」の内部に存在する。そして、内部に入り込んだカメラが映し出す「もの」こそが、その「起因」に他ならない。リンチ作品に登場する「侵入するカメラ」が持つ重要性から鑑みるに、その映し出された「もの」もまた重要であることは間違いないはずだ。

(なんだか続いたりする)

*この「ベッド・ルーム」の映像に対置されるものとして捉えられるのが、何度かインサート・カット気味に登場する「無人のリビング・ルーム」のショット(1:08:27)(1:16:56)だ。つまり、「家」のなかでも「プライヴェートな場」として存在するベッド・ルームと、「公共の場」として存在するリビング・ルームとの対比である。この無人のリビング・ルームが伝える「空虚なイメージ」は、それ自体が「機能しない家族」を表象するものといえるだろう。

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