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2007年12月

2007年12月30日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (38)

引き続き、「インランド・エンパイア」における(1:20:12)以降の「イメージの連鎖」を追ってみるとする。

前項で挙げた「モニターを見詰めて涙を流すロスト・ガール」のカットに続いて提示されるのが、(1:20:12)の「Rabbitsの部屋」である。「腕時計を見る口髭の男」が「時間のコントロール」のイメージを表しているとすれば、それはこの「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」に対する「物語上のコントロール」として機能している「Rabbitsの部屋」まで連鎖しているとも受け取れるが、とりあえずそれはおいといて。

それに続く一連のシークエンスは、Mr.Kとウサギたちの関連を表す「Mr.Kのオフィスにいるジャック・ラビット」のカットを挟んで、スーが「赤いカーテンの通路」や「死ぬほど長い階段」を経て「Mr.Kのオフィス」に至る経緯の概略(1:20:49)-(1:21:44)であり、これは第1回目の「Mr.Kに対するスーの独白」にまで連鎖する。「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の物語展開はこのように「効率」を考慮されつつ進むのだが、この「Mr.Kのオフィス」に現れたスーの服装をみても明らかなように(あるいは後の詳細なシークエンスによって明らかなように(2:12:44))、ここでの彼女がダーティな崩れた英語をしゃべる「娼婦バージョン」であることは注目しておくべきだと思う。

つまり、このシークエンスにおけるスーによって表されるものを、「登場人物=スーの内面」、それも「ストリート」のレベルにある「内面」として捉えることが可能なのだ。であるからこそ、彼女は「Mr.Kのオフィス」に辿りつくまで長い階段を上ってこなければならなかったのだし、「上下に交わされる視線」の例として挙げたように「家」のレベルにいるスー(あるいはニッキー)からは位置的に見下ろされる存在(2:16:55)となる。

……という具合に受け取るなら、結局のところ、このシークエンスでは「心理的展開」に関連するものであるはずの「スーの内面」が、Mr.Kのコントロールのもとで「効率のよい物語展開」を行っていることになる。要するに、「Mr.Kのオフィス」で行われる「スーとMr.Kの面談」自体が、ナラティヴな作品の持つ「物語展開と心理展開の連動性」を表す概念図であるともいえるのだ。そして、ハリウッドの映画製作に関する限り、この「連動性の確保」が徹底的なコントロール下において行われているのはご存知のとおりだ。

そして、「物語展開と心理展開の連動性」は、続くシークエンスにおいて具体的な「展開図」として提示される。大きく流れを捉えるならほぼ「心理展開」→「物語展開」→「心理展開」→「物語展開」という形で「イメージの連鎖」が続くのだが、詳細は長くなりそうなので次回以降に持ち越すことにしよう。

(てなわけで、この項は越年しそうな気配)

2007年12月25日 (火)

ボカノウスキーの「天使」を観る

さて、「インランド・エンパイア」には「高低のアナロジー」に伴って「階段」の映像が繰り返し登場する。が、もちろん映画に「階段」 が登場するのは、これが初めてというわけではない。それどころか、枚挙の暇がないといったほうが正しいだろう。有名どころでいえば 「戦艦ポチョムキン」(1925)の「オデッサの階段」のシーンがまず思い浮かぶし、ロバート・シオドマク監督の「らせん階段」 (1946)というそのものズバリなタイトルの作品があったりなんかもする。映画は「階段」をいろいろな形で登場させ、 「頭上から降りかかる、権力による理不尽な暴力」だの「紆余曲折を経なければ辿り着けない、入り組んだ真相」だのといった、 さまざまな象徴的意味合いをもたせてきた。

だが、もし、「階段映画」などというようなジャンルがあったとしたら、 その筆頭として挙げられるであろう作品がある。それがパトリック・ボカノウスキー監督の「天使(L'Ange)」(1982)だ。

l'ange01

……といいたくなるくらい、この抽象的で非ナラティヴな作品は「階段」のモチーフに支配されている。暗闇の中、ミシェール・ ボカノウスキーの音楽にあわせて浮かび上がる「行き止まりの階段」や「折れ曲がった階段」や「螺旋階段」などの断片的なイメージと、 その階段を上り続ける「上昇」のイメージこそがこの作品の主役だといえるだろう。

階段と階段の「間」……つまり「階層」において、いくつもの抽象的かつ観念的なイメージが提示される。アングルを変えスピードを変え、 いわば時間と空間を同列に扱い混淆させながら、各階層におけるイメージは延々とリフレインされる。 リフレインは永遠に続くかのように感じられ、それぞれの階層でのそれぞれイメージが「普遍的なもの」であることを伝えているようだ。だが、 それらのイメージにコンテキストを与えるのは、一連の「階段」と「上昇」のイメージに他ならない。そのコンテキストに基づいて捉えたとき、 各階のイメージが伝えるのは、たとえば……

・弱者に対する暴力と支配
・なす術もなく起きる、とりかえしのつかない失敗
・放埓に寝そべって数えられる財産
・幼児的に取り繕われる外見
・傾いた基準のもとでの日常
・どこにも飛び立たない、知識のためにあるかのような知識
・手が届いた瞬間に新たなベールをまとう真理

l'ange02
・ベールをまとった真理に対する科学の調査
・真理がまとうベールに対する化学による分析
・手に触れられないものに対して続く検証とその伝承
・高い壁のある茫漠たる暗い部屋

……といったようなものだ。こうした一連のモチーフが全体として伝えるものは、我々がかつて辿った状況であり、 あるいは今なお自身を置いている状況そのものであるのだろう。

そうした「階層」の描写を経て、この作品の結尾を飾るのは「長い階段」の圧倒的な映像である。我々にはまだ、 上らなければならない遥かな「階悌」が残されていると、この作品は伝える。そして、その永遠に続くかのような階段の頂上に待つものが、 画面全体を覆う「光」に表されるものであることも提示される。最後の「階段」を上る「異形の者たち」の姿が示すように、その「高み」 に近づくためには、もしかしたら我々は今ある姿を放棄しなければならないのだろうか?

我々は「茫漠たる暗い部屋」から脱出し、最後にはそうした「高み」に辿り着くことができるのか? そもそも、そうした「高み」 は本当に存在するのか? あるいは、我々はそうした「高み」をそれと認識できるのか? 「天使」はいろいろな疑問を投げかけて終わる。 我々にはその疑問に答える術はなく、おそらく可能なのは願うことだけだ……もし我々が変わっていくとしたら、それが「天使」 であれなんであれ、「善きもの」の姿に似ていることを。

2007年12月23日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (37)

あああ、続いた(笑)。引き続き「インランド・エンパイア」の(1:15:25)から(1:20:13)までのシークエンスのお話。

前項では、映像が提示される順番にしたがって、ニッキー=スーの視点から「イメージの連鎖」を追った。だが、この「イメージの連鎖」は逆方向にたどることも可能であることはいうまでもない。「受容者=ロスト・ガール」の視点からみるならば、ポーランド・サイドとして描かれている彼女が想起した「機能しない家族」のイメージのは、「スミシーの家」内で発生しているニッキー=スーの「機能しない家族」の例示がトリガーとなっているといえるわけだ。この後、「個」と「普遍」は互いにトリガーの役目を果たし、交錯しつつ連鎖していくことになるのだが、それは後の記述に譲ることにする。

もうひとつこのシークエンスで興味深いのは、前述した「モニターを見詰めながら涙を流すロスト・ガール」のカット(1:19:56)が、ポーランド・サイドの「ストリート」に立つ口髭の男性の映像(1:19:24)に続いて提示されていることだ。この男性は、先立つカットで「他の女と会おうとして妻から詰られている夫」であり、おそらくはポーランド・サイドにおけるロスト・ガールの不倫相手であろうことが、これより後のいくつかのシークエンスにおいて示唆される(1:40:04)。

このシーンのつながりをごく単純に捉えるなら、該当するロスト・ガールのカットを喚起しているのは、この口髭の男性だということになる。なによりも、ロスト・ガールが見詰めるモニターの画面には、この男性の映像が映し出されているからだ。だが、ここでむしろ注目しておきたいのは、この男性の映像が、彼自身が確かめる「腕時計」や通行人から尋ねられる「時刻」といった具合に、「時間」そのもののイメージを、あるいは「時間に対するコントロール」のイメージを伴っている点である。

もしこの点を重視するなら、この個所での「受容者=ロスト・ガール」のイメージは、「時間のコントロール」や「時刻」というイメージによっても喚起されていると捉えられるように思う。たとえ受容者が「映画=世界」に没頭しており、そこに流れる「独自のコントロールが施された時間」が現実から切り離されたものであるとしても、その一方で受容者は「現実の時間」によって確実に縛られているからだ。訪問者1がニッキーに向って言うように「9時45分だと思ったら真夜中過ぎだった(I suppose if it was 9:45, I'd think it was after midnight.)」(0:17:04)ようなことが起きるのが、映画が優秀な「感情移入装置」であることの証ではなかったか。

はたしてこれは、たとえば「忘我の刻」を過ごしていたロスト・ガールが、ふと我に返って「現実の時間経過」を気にしたことの表れであるのかどうか。もしそうであれば、ネスティングのもっとも外側に存在し、いわばより「現実」に近い場所にいるロスト・ガールのカットがここで呼び出されるのは、あるいは当然なのかもしれない。

くわえて、口髭の男性が「時間」のイメージを表わす存在だとすれば、後のシークエンスにおいてファントムが「口髭の男の殺害」を示唆する(1:42:13)のは、非常に象徴的であることになる。「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「心理上の要請」を司り、「感情移入=同一化」に向かって機能する「映画の魔=ファントム」にとって、受容者=ロスト・ガールと一緒にいる*「現実の時間」はそれこそ邪魔者に違いないはずなのだから。

(この項、おしまいね)

*このファントムが「口髭の男の殺害」を示唆するシークエンスにおいて、彼はロスト・ガールに向かって「お前たちが一緒にいるところを見た(I think... I've seen the two of you together)」と発言する。

2007年12月21日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (36)

オマケなんぞと言いながら、「インランド・エンパイア」話はまたもや「シルクの布に開いた穴」に戻ってしまうのだが。まあ、それこそ全体構成なんかなーんも考えないで行き当たりばったりに書いてるメモなんで、あきらめてください(笑)。しかし、マクロとミクロを行き来するが如くの錯綜した形でしかリンチ作品は語れないというのも、また真実ではないでしょーか。とりあえず、そーしとけ(笑)。

それはさておき、前々回の続き。

さて一方、「向かいの建物」にあるいくつもの「家」では、いったい何事が起きているのか。それを表わすのが、(1:17:03)からの「シルクの布に開いた穴を覗く行為」のイメージに続いて提示される「ポーランド・サイド」のシークエンスになる。タイム・スタンプでいうと(1:18:00)から(1:19:55)まで。今更な指摘だろうが、「建物」とこれらのシーンの「同一性」は、その共通する画面の色調からも明らかだ。

このシークエンスにおいて、具体的映像として描かれているのは「ファントムから暴力を受けるロスト・ガール」であったり、「他の女と会おうとしている夫を詰る妻」であったりする。しかし、以前にも述べたように、これらの映像は全部ひっくるめて「『機能しない家族』の抽象概念」の一部として捉えられるべきものだ。つまり、「不特定多数の受容者」が住む「不特定多数の家」がある「建物」の内部において、普遍的に起きている事象を例示しているということである。

このことを押さえたうえで、今度は遡って「『ストリート』を挟んで向かいの『建物』をみる」シークエンス(1:15:25)から「シルクの布に開いた穴を覗く行為」(1:17:03)の間のシークエンスを振り返ってみる。すると、そこで提示されているのは……

・青い光に包まれたベッド・ルームで寝ているスーとピオトルケ
・妊娠に気づくキッチンのスー
・"Hello"と言いながら「スミシーの家」に入るスー
・廊下からのピオトルケによる監視
・無人のリビング・ルーム

……といった、「スミシーの家」の内部で発生している「機能しない家族」を示唆する事象の例示であることがわかる。

要するに(1:15:25)から(1:17:03)の間で描かれているのは、「スミシーの家」の内部で発生している事象と(それは、ここでは「『ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS』という作品の中で発生している事象ということだが)、「建物」の内部に存在するいくつもの「家」で発生している事象の対比だ。言葉をかえれば「個」と「普遍」の対比であるわけだが、当然ながらこの「個」も「普遍」の中の一部分に過ぎず、すべてをひっくるめて「抽象概念」として取り扱われるべきものである。早い話が「スミシーの家」と「建物の中の家」は、その内部で発生している事象という観点からすれば「等価」なのだ。そしてこの「等価性」を保障するのは、(1:17:03)からの「シルクの布に煙草の火で開けた穴から覗く行為=映画を作る行為=映画を観る行為」*に他ならない。

しかし、この箇所の「イメージの連鎖」はここでとどまらない。この「ポーランド・サイド」のシークエンスの直後にインサートされるのは、モニターを見詰めながら涙を流すロスト・ガールのカット(1:19:56)なのだ。それぞれの「家」の内部で起きている事象の「等価性」を糊代にして、今度は「シルクの布の穴を覗くニッキー=スー」と「モニターを見詰めるロスト・ガール」の「等価性」が提示されているのである。ここでは「演技者=登場人物=受容者」のネスティングについても、あるいは「感情の共有」という視点からみた「映画を作る行為」と「映画を観る行為」の「等価性」についても、複合した形で触れられているのだ。

広い意味では、この(1:15:25)から(1:20:13)までの一連のシークエンスが伝えるのは、以前俯瞰した(1:00:00)から(1:15:25)までのシークエンスと同じく「映画を介した感情の共有」であるといえる。異なっているのは、このシークエンスがより具体的な事象を提示していることで、二つのシークエンスはいわば「概念」とその「具体例」の関係にあるといえるかもしれない。

(あああ、続くです)

*クリスチャン・メッツは「映画と精神分析 想像的シニフィアン」(1977)において、撮影機による「映像の撮影」と映写機による「映像の投影」が「鏡像的な反復関係」にあること、そして映画館における映写機によるスクリーンへの「映像の投影」とそれに対する受容者の「知覚」がその「鏡像的な反復関係」を(暗喩として)反復していることを、ラカンが提唱する「鏡像段階」における幼児の「自我形成」を念頭におきながら述べている。
「(撮影機、映写機、フィルム、スクリーンなどの)装置類が、制度化された心的過程の(現実的な源であると同時に)暗喩(メタフォール)にもなっているのである」(白水社版 P.106)

2007年12月19日 (水)

「ロスト・ハイウェイ」北米版DVDの続報ね

「ロスト・ハイウェイ」北米版リマスターDVDの続報(アーンド、字幕のお話)。

米アマゾンですでに予約受付が開始されておりマス。定価$19.98で、今ンとこの予約価格は30%引きの$13.99。「どうなんだよ!」の発売日は3月25日が正しいみたい。

あと気になってるのはPALマスターの早回しじゃねーだろーなってことぐらいなのだが、これまた現在のところのランタイムは135分になっているので問題ないハズ。まあ、この時期の米アマゾンの情報は割といーかげんだったりするので(笑)、これに関しては追加情報を待ったほうがいいかもしれんス。

さて、このリマスター版「ロスト・ハイウェイ」の国内DVDが出るのかどうか。結局、リマスター版の「砂の惑星」が国内ではDVD未発売なままな現状からして、これまた予断を許さない感じではある。世の経済原理というものから推し量るに、ひょっとしたら「ツイン・ピークス」やら「インランド・エンパイア」やらのDVDの売れ行き次第なのかもしれんなあ。ところで、結局、「リンチ・イヤー」って盛り上がったンすかね? よくわかりません。

……てな状況のところにマコトに厚かましいお願いかとは思いますが、「ロスト・ハイウェイ」の国内版DVDが出るのなら、できれば字幕翻訳を一部見直してもらえないかなーとか思う次第なんでありますけども、いかがなもんでございますでしょーか。

もちろん、ナニガシか翻訳作業にも関わった経験がある人間として、異なった言語同士を一対一で置換できない以上、翻訳というものがすべからく翻訳者の「解釈」に基づいた「意訳」にならざるを得ないのは、重々承知。かつ、これまた当然ながら、原意に含まれているものを取りこぼさざるを得ない局面がままあるのも、残念ながら仕方がない。でも、同時に、リンチ作品のような抽象的な映画の翻訳字幕に関しては、もちっと気をつかってもいいんじゃないかと感じることがあるのも、また確か。

具体例でいうと、「ロスト・ハイウェイ」におけるミスター・エディの「You and me, mister... We can really outugly them sumbitces...Can't we?」という台詞。現行の国内DVDでの字幕は「お前と俺なら--もっとすごいポルノを撮れたな。そうだろ?」(2:05:34)となっているんだけど、ちょっとこの訳文は飛躍しすぎているような気がする。そもそも原文には影も形もない「ポルノ」などという語句をもってくることにまず疑義がある。と同時に、おそらく直前の映像に引っ張られたとおぼしき翻訳者のこの「解釈」の正当性自体が、どうにもアヤシイのではないかと。百歩譲ってこれをひとつの「解釈」に基づいた「意訳」として認めるとしても、ここまで「ロスト・ハイウェイ」という作品に対する解釈の幅を狭めてしまっていいのかどうか、正直いって疑問だったりするのだな。

思うに、もともと漠然とした「台詞」であるのだから、もっと漠然とした「訳文」が当てはめられるのが妥当なんじゃなかろーか。この部分、「ロスト・ハイウェイ」のシナリオ本の翻訳では「お前も俺も。なあ。俺たちはほんとにろくでもねえ野郎なんだよな?」(P.238)という具合になっていて、「漠然とした具合」からすれば、こちらのほうがずっと優れているんではないでしょーかしらん。

ちょいと真剣モードでいうなら、「ロード・オブ・ザ・リング」の字幕の例を引くまでもなく、こうした誤訳・悪訳の最大の被害者は翻訳に頼らざるを得ない「一般的な受容者」であるのは間違いない。もちろん、字幕翻訳の場合、字数や作業時間を含めたさまざまな事情があるのは理解できるにしても、それはあくまで「翻訳者側」あるいは「売り手側」の論理でしかないことを「翻訳者側」あるいは「売り手側」の人間はキチンと認識しておかないとマズイと思う。ましてや、(ままあることとはいえ)翻訳者の不見識や調査不足がゆえの誤訳など、本来起きてはならないことであるハズ。最近は字幕翻訳に監修者をつけるケースも増えているようで、こうした問題点を「売り手側」も認識していることがうかがえる。この傾向は双方にとってオヨロしいことなんではないでしょうか……と思う反面、たとえばリンチ作品の字幕の問題点って、そーゆー方法論では解決できんであろうことが悩ましい(笑)。

いずれにせよ、理由はともあれ、「翻訳」によって受容者の解釈が歪められたり幅が狭められたりする事態が起きているのならば、それは作品にとってヒジョーに不幸なことなんではないだろーか……ってなことを自戒をこめて呟く、今日この頃なのであった。

こそっと言っちゃうと、試写で観た限りでは「インランド・エンパイア」の字幕にも「ん?」と思う箇所があったりしたのよ。DVDで直ってたらいーな……と願う大山崎の思いは、はたしてお星様に届くのでせうか(笑)。

2007年12月18日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (35)

前回に引き続き、「インランド・エンパイア」における(1:00:00)から(1:15:25)までの「イメージの連鎖」を俯瞰してみる。今回は(1:13:08)あたりからスタート。

……ってな具合に前項で述べたような状態までニッキーによる「スーの心理」の理解が進んだところに、「シルクに開けた穴を覗く行為」というモチーフが提示される。以前に述べたように、これは「映画を作る行為」と「映画を見る行為」の同一性を、つまり「感情移入=同一化」の視点から見た同機能性を表したものだ。言葉をかえれば、ニッキーが獲得した「スーの心理への理解」は、「映画」という優秀な「感情移入装置=媒体」を介することによって、不特定多数の受容者に理解され共有され得るということだ。

と同時に、このシークエンスにおいては、ロスト・ガールによって語られる「映画」という「メディア」を前景にして、その背景で「再生されるレコード」というもうひとつの「メディア」の映像が提示されている。それは、開巻直後にこれまた「再生されるレコード」によって伝えれた「ラジオ」という「メディア」に関する我々の記憶を呼び起こし、「インランド・エンパイア」に登場する(「テレビ」「ビデオ」「サーカス」を含めた)すべてのメディアが「感情移入装置の一種」であることをも想起させずにはおかないだろう。

前述した「不特定多数の受容者による共有」という概念は、「家」と「ストリート」の位置関係を伝える「上下に交わされる視線」のシークエンスを挟んで、次のシークエンスへとイメージを連鎖させる。つまり、眼下にある「ストリート」を挟み、階上の部屋の窓からロスト・ガールの「家」があるらしき建物を望むシークエンスだ。ロコモーション・ガールたちが「観たい?(Do you want to see?)」という問い掛けをもってニッキー=スーに最終的に見せようとしていたのは、この(後に「40」というナンバーが表示されていることがわかる)「建物」に他ならないことが、二人のロコモーション・ガールたちが窓のカーテンを開ける映像によって提示される。

この「建物」の映像は、「不特定多数の受容者によるスーの心理の理解と共有」という概念の、形を変えたリフレインである。向かいの建物に見えるいくつもの窓が表わすように、そこにはいくつもの「家」があるのは明らかだ。そのひとつひとつが「スミシーの家」と同じく「なにかよくないことがおきる可能性のある場所」であり、「機能しない家族」が住むところであり得る。そして、当然ながらそのひとつひとつの「家」は、建物の最下層の入り口で「ストリート」につながっているのだ。

このシークエンスが提示する「イメージ」によってニッキーが(そして我々が)「理解」するのは、「『家』と『ストリート』の関係性」が「スミシーの家」に住む「演技者=ニッキー」や「登場人物=スー」だけに適用されるのではなく、「向かいの建物」に住む「不特定の受容者=ロスト・ガール」にも適用されるということだ。メソッド演技によって呼び起こされた「情緒の記憶」は演技者=ニッキー個人に属するものだが、それは登場人物=スーの「心理」に重ねあわされることによって、不特定の受容者=ロスト・ガールにも感得・共有が可能な「普遍性」を備えたものになるのである。

このシークエンスにみられるような「映像による概念の図式化」というべき表現は、たとえば「イレイザーヘッド」における「ヘンリーの頭が落ちて消しゴムに加工されるシーン」や「ロスト・ハイウェイ」における「山道での交通道徳講座」、あるいは「マルホランド・ドライブ」における「ウェンディーズ・ハリウッド店の構造」などにもみられるものだ。こうした表現はリンチがそもそも映画製作に手を染める動機となった「時間経過とともに変化する絵画」の延長線上にあり、いわばこの監督の基本的表現のひとつだといえるだろう。たとえば立方体が解体されて二次元の展開図に変換されるように、ここでは「概念」が時間軸に沿って展開され「映像」に変換されているのだ。

ニッキーのスーに対する「感情移入=同一性」の過程を表わす「イメージの連鎖」は、「情緒の記憶」から始まり、「映画」の媒介を通じたロスト・ガールによる「感情の共有」の可能性を提示して、ひとまずの決着をつける。こうした視点から捉えるならば、リンチ作品が提示する「イメージの連鎖」はいっそロジカルといってよく、それは「インランド・エンパイア」に限らない。

それにしても、ロコモーション・ガールたちがカーテンを開けた窓越しに浮かび上がる暗い「建物」、そしてその最下層に口を開ける「入り口」の奥に潜む闇を映して終わる映像は、「インランド・エンパイア」前半における白眉とでもいうべきものだ。そのメゾンセンが伝える不気味さもあって、この「建物」を目にした我々は「漠たる不安」を感じ、自らに問わずにはいられない……我々の「家」もまた、「ストリート」に通じているのではないか? 我々自身の家族は「機能」しているのか?

(一応この項おしまい。でもオマケのようなものが続く予定)

2007年12月15日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (34)

とゆーことで、この近辺の「イメージの連鎖」がどのように起きているかを整理してみる。こーゆーときに実際の映像を提示ながらだとわかりやすいんだけど、著作権とのからみでそーゆーことが出来ないのが歯がゆいですね。まあ、仕方ないけど、文字だけでシークエンスを説明することの限界も感じつつある今日この頃であります。北米版DVDをお持ちならそれでもって、あるいは国内版DVDが出たらそれでもって、タイム・スタンプ近辺のシーンを呼び出しながら読んでみてちょんだいませ。

……なんてなことを呟きつつ、すでに述べたことの繰り返しになる部分も出るとは思うが、整理してみよう。まずいえるのは、一回目の「Axxon N.」「ストリートを挟んで、向かいの建物をスーが見る」までのシークエンスは、つまりタイム・スタンプでいうと(1:00:00)から(1:15:25)までの15分あまりは、演技者=ニッキーのネスティングからみた「インランド・エンパイア」の核心部分になるということだ。

ざっと実際の映像のみを即物的にたぐると、「裏口の扉に書かれた『Axxon N.』の目撃」→「スタジオ4への侵入」*→「ニッキーによる視線の交換」→「ピオトルケの監視に追われて『スミシーの家』へ侵入」→「寝室にいるピオトルケを目撃」→「ロコモーション・ガールたちによる『ストリート』への誘導」→「シルクの穴を覗く行為の示唆」→「上下に交わされる視線」→「『ストリート』を見下ろす二階から向かいの建物を望む」という形になる。

一方で、この一連のシークエンスを「連鎖するイメージ」という視点で抽象的に捉えた場合、それが表わしているのは、大雑把にいえば「演技者=ニッキーが登場人物=スーへの感情移入(同一化)を深めていく過程」である。言葉をかえれば、「女優ニッキーがスーという役になりきるに際して、彼女の内面で何が起きているか」が描かれているわけだ。

たとえば「二人のニッキーによる視線の交換」のあと、キングズレイたちといるほうのニッキーが消える(1:02:31)のは、ニッキーがスーとの感情移入=同一化を進め、「ニッキー=スー」とでもいうべき存在になったことの表れだ。完全な形での演技者=ニッキーはここで消滅し、このあと登場人物=スーへの同一化が次第に進むに連れて、彼女は「ニッキー=スー」から「スー=ニッキーへ」、最終的には「スー」としての存在になっていく。

そうした「感情移入」の深化を目的として、ニッキーが「スーの心理」を理解するために具体的に使っている方法論は、いわゆるメソッド演技の「情緒の記憶」の使用に類するものと捉えられる。それに従って自分の実生活における「情緒の記憶」を振り返ってみたとき、自分と夫の関係によってもたらされた「感情」が蘇えり、それは「ピオトルケ=夫の抽象概念」に「監視」「干渉」のイメージを付随させることになる(1:03:13)。こうした過程を経て出来上がった「ニッキ=スーの夫」のイメージによって、彼女(たち)は「スミシーの家」の内部に追い立てられるわけだが、このとき「スミシーの家」が「映画のセット」から「現実の家」に変貌するのは、ニッキーのスーへの同一化が一層進んだことの表れとしても捉えられるだろう。

だが、その「スミシーの家」のベッド・ルームで、寝ようとしているピオトルケの姿を目撃したとき、ニッキー=スーは「スーの心理」への理解をより一層深める。リンチが繰り返し自作で提示するように、問題=トラブルは「何かよくないことが起きるかもしれない家」の内部にこそあるのだ。当然ながらだが、ニッキーのこの理解は、基本的に「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」のシナリオから得られている。ナラティヴな作品である以上「心理的展開」は「物語展開」を通して描かれざるを得ないが、ここで「赤」と「青」のモチーフが登場するのは、逆にシナリオの形で提示されている「物語」を通してニッキーが「スーの心理」を読み取っていることの表れだ。と同時に、その理解は再びニッキーを自身の「情緒の記憶」に連れ戻し、ついにロコモーション・ガールたちとの邂逅に至る。こうした視点でみるなら、この「ロコモーション・ガールたち」はニッキーの裡なる「情緒の記憶」そのものを表しているといえる。

ロコモーション・ガールの案内で、ニッキー=スーが辿りつくのが「ストリート」だ。後に映像によって何度も具体的に提示されるように、そこは娼婦たちの集まるところであることはいうまでもない。ここで、ニッキー=スーは「スーの心理」の根底にあるもの、そのもっとも奥深くに存在する「感情」を、「商売女になったような気持ち」**を理解するのだ。「ストリート」にニッキー=スーを導く直前、ロコモーション・ガールたちは、彼女に向って「目を開けば、そこにはよく知っている誰かがいる(When you open your eyes...someone familiar will be there.)」(1:11:17)と言う。「スーの感情」に対する理解が「ニッキーの情緒の記憶」から導き出されたものである以上、それがニッキー=スーが「よく知っているもの」であるのは、まったく当然のことではないだろうか。

(ちょいと長くなったんで、この項、続く)

*一回目の「Axxon N.の扉」から建物入ってから「スタジオ4」に至るまでの暗闇にのなかで、一瞬、フラッシュライトで明るくなったとき見えるのは「下り階段に向うニッキー」の映像である(1:01:48)。ここにもすでに「高低のアナロジー」は登場しているのだ。

**それを追補するのが、マリリン・レーヴェンスの「Starlight Celebrity Show」関係のシークエンス(0:20:45)であるといえる。これも具体的なニッキーの「情緒の記憶」のひとつになっているはずだ。

2007年12月13日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (33)

というわけで、話はいつの間にか「シルクの布に煙草の火で穴を開ける行為」に移ってますが、まあ、あまり気にしないということで(笑)。

さて、前々項で触れた、ロスト・ガールによる「シルクの布に煙草の火で穴を開ける行為」の示唆に連続して提示されるシークエンスは、以下のようなものだ。

(1:13:55)
襟の付いた暗いの色服を着たのスーのアップ。彼女は何かを見ている。揺れる画面。ときどきアウト・フォーカスになる。視点は彼女の目をクロース・アップしたあと、その背中に回りこむ。アウト・フォーカスで何か赤いイメージのものが映し出される。

小部屋に座っているスーのアップ。彼女の頭の上からのショット。床の上には、4本の煙草が載った灰皿、ライター、シルクの布が見える。彼女の左手にはライトがある様子。アウト・フォーカス気味。彼女の目にズーム・イン。

何かを見下ろしているスーのアップ。下から見上げるショット。バックには「スミシーの家」の暗い天井が見えている。

小部屋に座っているスーの目のアップ。上からのショット。

何かを見下ろしているスーのアップ。下から見上げるショット。バックには「スミシーの家」の暗い天井が見えている。

何かを見下ろしているタンク・トップ姿のスーのアップ。下から見上げるショット。バックには「スミシーの家」の暗い天井が見えている。彼女は左を向く。

隣り合った両角の壁にある二つの戸口に立つスー。左手の部屋の中からは赤い光が、右側の部屋の中からは青い光が見えている。

これは、以前にも挙げた「上下に交わされる視線」が初めて登場するシークエンスである。同時に、「インランド・エンパイア」に何度なく登場する「高低のアナロジー」の表れのひとつであり、かつ「観る者」と「観られる者」の関係発生の表れのひとつでもある。

この「上下に交わされる視線」のシークエンスがどういうイメージの連鎖によって登場しているか、もう一度、作品構造の模式図を参照しつつ振り返ってみよう。もちろん、直前にあるのはロスト・ガールによる「シルクの布に開けた穴を覗く行為の示唆」であるわけだが、そのひとつ前のシークエンスは「二人のロコモーション・ガールに誘われて『ストリート』に立つスー=ニッキー」だ(1:11:40)。つまり、この段階でのスー=ニッキーの「意識」は「ストリート」の高さにあって、それはこの「上下に交わされる視線」のシークエンスに至るまで続いていると捉えられるのだ。

一方、逆に、「見下ろしている側のスー」がいる「高さ」は、「視線の交換」以降のシークエンスにおいて明らかだ。そこでは「見下ろした側のスー」が、「ストリート」を見下ろす「階上の部屋の窓」から、ロスト・ガールが住むであろう建物を望んでいるのである(1:14:38)。つまり、「見下ろした側のスー」の「意識」は、「ストリート」ではなく「家」の高さにあることになる。

……といった具合に、「ストリート」の高さにいて「シルクの布の穴を覗いている」スーが、「家」の高さにいるスーから見下ろされている。それとは対称する形で、前者のスーは後者のスーを見上げている。このように「上下に交わされる視線」は、「家」と「ストリート」の位置関係によって成立しているのだ。そして、この「位置関係」によって、すなわち「シルクの布に開けられた穴」を覗いているスーが「より低い位置=ストリート」にいることによって最終的に提示されているのは、「シルクの布に煙草の火で開けた穴から覗く行為=映画を作る行為=映画を観る行為」が、「ストリートに降りる行為=感情移入を深める行為」と同義であることである。

要するに、「X回目(32)」で述べたような「『感情移入=同一化』=『映画=世界』という等式の提示」が、ここでも形を変えてリフレインされているわけだが、実はこれもまたリンチが提示している「複合的なイメージ」の「一断面」に過ぎない。次回はもう少し俯瞰する形で、この近辺の「イメージの連鎖」を整理してみることにする。

(てな具合に、あっちこっちしながら続く)

2007年12月12日 (水)

「ロスト・ハイウェイ」のリマスターDVD(北米版)が出るそーな

本日のdugpa.comネタ。

レタボなうえに片面1層で画質がおヨロシクないと評判悪かった「ロスト・ハイウェイ」のDVDだが、やっとリマスターされた北米版が出るらしい。現在のところの予価は$19.98で、発売元はユニバーサル・ホーム・ビデオ。発売予定が2008年の3月5日説3月25日説の二つあって、どっちやねン、はっきりせんか、コラ(笑)。

losthighwayrdvd

映像特典としてリンチのインタヴューが収録されるようで、モノとしては、おそらく以前発売された仏版と同じもののハズ。

そういえば、リマスター仏版が出たあと、なかなかその北米版DVDが発売されなかったのは、ミステリー・マン役のロバート・ブレイクが妻殺しの嫌疑での裁判中だからだ……という話があった。いやもう、作中のフレッドそのまんまの状況だったわけで、なんともはやな感じだったのだが、その裁判の模様を追っかけたこのようなページもあったりなんかして、 これもまたなんともはやであった。

結局、刑事裁判では2005年3月に無罪判決が下りた。が、一方で4人の子供たちから損害賠償を求められていた民事裁判では、同年11月に支払いを命じる判決が出た。これまたO・J・シンプソン事件と同じような結果になったわけで、ニュースを読みながらなんともフクザツな思いを抱いた記憶がある。3,000万ドルの支払いを命じられたブレイクは翌年に破産してしまい、小さなアパートに住みつつどこかの牧場で働いているらいしい……というのが、自分が耳にしたブレイクの最後の消息になる。本人は俳優としての復帰を望んでいるらしいけど、現実問題としてはたしてどうなのか……あ、もしかしたら、ジョン・ウォーターズが出演依頼するかもしれんなあ。

その後、映画「カポーティ」つながりでブレイクの出世作である「冷血」のDVDが再発されたりしたので、もうそろそろ「ロスト・ハイウェイ」の方も大丈夫なんじゃないの? ……とは思っていた。まあ、日本版が出るかどうかは現在のところまったく不明だし、とりあえずは行っとくでしょう、北米版に(笑)。

というわけで、続報を待て!

3/19追記:っつーわけで、本日、米アマゾンから発送通知が来ました。届きましたら、また。

2007年12月10日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (32)

ちょいと横道にそれて落穂拾い。

デイヴィッド・リンチの公式サイトで公開されていた作品に「Darkened Room」(2002)という短編がある(現在は公開終了済。DVD「DYNAMIC:01 THE BEST OF DAVID LYNCH.COM」に収録されている)。「シルクの布の穴」のモチーフは、この短編においてよりシンプルな形で登場している。

この短編には、ロスト・ガールの原型である「涙を流すブロンドの女性」が登場する。彼女の前にブルネットの女性が差し示すのが、自分が着ているスリップの裾に空いた「煙草の火による穴」だ。「シガレットバーン」と「シルクの布」そして「それに空いた穴」という要素がすでにこの短編で提示されているのだ。そればかりでなく、ブルネットの女性は「腕時計」についてもその台詞の中で言及すると同時に、涙を流す女性を言葉でいたぶる。まるで「インランド・エンパイア」を凝縮したような作品だともいえるが、それだけに、最初この短編を観たときにはなかなかそのコンテキストが読み取れなかった。しかし、「インランド・エンパイア」を観てしまったいま、これらのモチーフの表すものはそれなりに明らかのように感じられる。なにより、作品タイトルの「暗い部屋」が何を表すか、これはもう明確なのではないだろうか?

この短編が「インランド・エンパイア」と共有するアイデアはそれだけではない。「涙を流すブロンドの女性」を受容者に向かって紹介する役目は、その友人と称する日本人女性に託されているのだ。東京に住み、バナナについてアレコレを「英語字幕付き」の日本語英語で語るこのEthuko Shikata嬢は、なんらかの形で裕木奈江が演じた日本人浮浪者のアイデアとして発展して行ったと考えられなくもない。もしかしたら、Shikata嬢が語る「大量に産出され消費されるバナナ」とは、すなわち「ハリウッド映画」のことなのではないだろうか? もしそうならば、彼女の姿は「日本人の浮浪者がハリウッド伝説のごった煮を語る姿」にも重なる部分があるといえる。

また、この日本人女性の登場シーンに「泣いている友人が見えるか? 私には見えない (Do you see her? I can't see my friend. )」と受容者に向かって問いかけ自ら答える台詞がある。これは、「インランド・エンパイア」における老人たちとピオトルケのやりとりに出てくる「彼女がわかるか?(Do you recognize her?)」(2:02:11)と、まったく同一だといっていいだろう。こうして見る限りでは、「Darkened Room」で提示されている様々なアイデアやモチーフが、「インランド・エンパイア」の「核」のひとつとして発展していったことはまず間違いないように思える。

話が脱線ついでに、もう一発(笑)。2006年にアヴィッド・テクノロジー社(Avid Technology, Inc.)がリンチの協力を仰ぎ、「ROOM TO DREAM」という自社映像編集ソフトのプロモートDVDを製作して、無料で配布したことがあった。試しに取り寄せてみたら、日本まで本当にタダで送ってくれたのには驚いた。あの節はとてもお世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。

それはそれとして(笑)、このDVDにリンチ製作の短編がサンプルとして収録されているのだが、その製作がちょうど「インランド・エンパイア」の「裏庭でのパーティ・シーン」(1:43:37)の撮影と同時期であったらしく、当該シーンに登場する三人の俳優を使った作品になっている。「サーカスに行くはずだった男」を、二人の女性がからかい男性が逆ギレするこの作品も、やはり単体で観たときには何のことやらわからなかったが、今ならばやはりこれも、「サーカス」という「インランド・エンパイア」と共通したものに言及している作品であることが理解できる。その当時、この短編が「インランド・エンパイア」の一部ではないかという噂もあったが、ある意味では正しかったわけだ。しかし、そういう目で見れば、この男女のやり取りは、なんとなくサーカスからスーの元に戻ったピオトルケの図であるようにも見えてこないでもないのだが、どんなものだろうか(笑)。

こうして見ていくと、間違いなく「インランド・エンパイア」は何年にもわたってリンチが暖めてきたアイデアの集成であることがわかる。あるいは、この2本の短編と「インランド・エンパイア」の関係性こそが、リンチが繰り返し述べる「アイデア同士がくっつき、また新たなアイデアを呼びながら一本の作品となっていく過程」のいい実例であるといえるだろう。「リンチ・ワン」がこうした過程の実際を、またいくらかでも明らかにしてくれるかもしれないと期待している。

(横道は終わったけど、まだ続くのかしらん?)

2007年12月 8日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (31)

なんだか続いた「侵入するカメラ」の続き。

もうひとつ、「インランド・エンパイア」には重要な「侵入するカメラ」が登場する。それは「シルクの布に煙草の火で開けられた穴」へと侵入していくカメラだ。この「シルクの布に開けられた穴」の具体的映像が登場するシークエンス(あるいはカット)は、以下の3箇所になる。

(1:17:03)
ソファの上に置かれた腕時計のクローズ・アップ。スーがそれを取り上げ、左手首に巻く。
シルクの布に煙草の火で穴を開ける、タンク・トップ姿のスー。
腕時計のアップ。急激に逆転する腕時計の針。
スーがシルクの布に開いた穴を覗く。
(スーのPOV) シルクの布に開いた穴のクローズ・アップ。穴を通して、別のシルクの布が見える。
Sueの目のクローズ・アップ。
シルクの布に開いた穴のクローズ・アップ。アウト・フォーカスへ。

(1:33:17)
(スーのPOV) シルクの布に開いた穴。ズーム・イン。
シルクの布のクローズ・アップ。

(1:49:02)
シルクの布に開いた穴から後退していく視点。
穴から後退していくスーの目のクローズ・アップ。
半袖のピンクの服を着たスーが、シルクの布の穴を覗いている。彼女の左手首には腕時計が巻かれている。

このように2箇所において「腕時計」の映像が付随して提示され、「撮影カメラのファインダーを覗く行為=空間のコントロール」と「時計=時間のコントロール」の二つのイメージを伝えていることは、以前も述べたとおりだ。

だが、「インランド・エンパイア」は「映画についての映画」であり、かつ「映画を作ることの映画」であると同時に「映画を観ることの映画」でもある。この視点に立つなら、上記の「シルクの布の穴を覗く」イメージと「時計」のイメージは「映画を作る行為」の表象であると同時に、「映画を観る行為」の表象であるとも捉えられるだろう。つまり、「コントロールされた空間を受容する行為」と「コントロールされた時間を受容する行為」を表わすものと受け取ることもできるわけだ。

なにより、「シルクの布に開いた穴」を覗いた先に見えるものが「もうひとつのシルクの布」であることが、それを端的に表わしていないだろうか。なぜなら、「シガレットバーン」「覗く行為」「時計」といった「映画」に関連するイメージに満ちたこのシークエンスにおいて、穴から「侵入するカメラ」が映し出す「もうひとつのシルクの布」は、すなわち「映写スクリーン」のことであると理解できるからだ。ならば、上記の三つのシークエンスに登場する「侵入するカメラ」が映し出している「もの=概念」は、これまた「映写スクリーン」を介して提示され受容され共有される「映画=世界のこと」であることになる。

ロスト・ガールがスー=ニッキーに向って、「煙草の火でシルクの布に開けた穴を覗く行為」を示唆するシークエンスを振り返ってみよう。まず、ロコモーション・ガールの一人が、ポーランドの「ストリート」に誘い出したスーに向かって「観たい?(Do you want to see?)」と問いかける(1:12:18)。そしてそのイメージは、回転するレコードを背景にしたロスト・ガールが「観たい?(Do you want...to see?)」と問いかけるとともに、「映画を作る行為=映画を観る行為=シルクの布に煙草の火で穴を開けて覗く行為」を示唆するシークエンスへと連鎖していく(1:13:08)。

この連鎖するシークエンスで提示されている映像に基づくなら、前者の「観たい?」は、ポーランドの「ストリート」を前にしての問いかけである。つまり、ニッキーの裡なるものであるロコモーション・ガールがここで観せようとしている対象とは、「ストリート」の深奥に存在する「感情移入=同一化」の根底となるもの……すなわち、スーやニッキーやロスト・ガール(および他のすべての女性たち)が共有する「感情」に関するものだということだ。そして、この「観たい?(Do you want to see?)」という台詞をキーワードにしてつながる次のシークエンスにおいてロスト・ガールが観せようとしているのは、「シルクの布の穴を通して観えるもの=映画」ということになる。この連続する二つのシークエンスが最終的に提示しているのは、「感情移入=同一化」と「映画=世界」の結びつきである。いうなれば「Do you want to see?」という台詞が「等号」となって、「感情移入=同一化」=「映画=世界」という等式を作り上げているのだ。

(あら? まだ続きますね、こりゃ)

2007年12月 5日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (30)

落穂続々。今回は「侵入するカメラ」について。

リンチ作品のカメラは、さまざまな「開口部」から、いろいろなものの内部に入り込む。たとえば「イレイザーヘッド」の「惑星の穴」、たとえば「ブルー・ベルベット」の「耳の穴」、たとえば「マルホランド・ドライブ」の「ブルー・ボックス」……。いずれにせよ、モンタージュの基本で考えれば、開口部から侵入したカメラが次に写すものは、侵入した先の「内部そのもの」あるいは「内部にあるもの」ということになる。それがもっともシンプルな形で表わされているのがリンチ製作による香水のコマーシャルで、カメラが香水の瓶に入り込んだ直後に登場する「花のアニメーション」は、瓶の内部に存在する「もの」の提示に他ならない。この内部と外部の関係性は「惑星の穴」や「耳の穴」や「ブルー・ボックス」にもそのまま当てはまり、「侵入するカメラ」に続く(ときには映画の終わりまで至る)シークエンス群は、その「内部」に存在する「もの」の表象だ。繰り返し登場する「内部へ侵入するカメラ」という表現は、もはやリンチの映像的常套句のひとつといえる。

さて、では、「インランド・エンパイア」において、この「侵入するカメラ」はどのように表れているか。まず挙げられるのは、「ニッキー=スーとデヴォン=ビリーの情事が行われている現場をピオトルケが目撃する」シークエンス(0:57:30)に登場する、「スミシーの家」の廊下をベッド・ルームに向かって「侵入するカメラ」である。

もちろん、このシークエンスを、そのまま「主演俳優二人の情事の発生」という「(作品内)現実」として具象的に捉えることなどできない。「青のモチーフ」によって彩られたこのシークエンスは基本的に「心理展開」に帰属するものであるし、なによりシークエンスが展開される場所が「人間の内面」を表わす「スミシーの家」においてなのだから。あくまでこれは(それがなんであれ)抽象的表現に帰属するものであり、かつニッキーの(あるいはスーあるいはロスト・ガールの)「主観」に基づくものだ。つまり、ベッド・ルームで繰り広げられている「情事」は、スーに感情移入し同一化したニッキーの(あるいはロスト・ガールの)「心象風景」そのものであるということである。

その観点から捉えるとき、まず指摘できるのはこのシークエンスの「主観視点」に付随する「夫による監視」のイメージということになる。「ニッキーが役を得たことを告げられる」シークエンス(0:19:08)でも提示されていたこの「夫の監視」のイメージは、ニッキー=スーが「スミシーの家」に迷い込む直前のステージ4におけるシークエンスにおいても表れ(1:03:13)、実はニッキーの「家」に存在する「トラブル」はこの「監視」のイメージに関連(あるいは起因)していることを伺わせている。かつ、「ピオトルケによるデヴォンへの脅迫」(0:42:24)のシークエンスともつながって、夫による「監視」「干渉」「統制」といった複数のイメージが入り混じる「複合的なもの」として成立しているともいえるだろう。

だが、こうした「複合的イメージ」もまた、ニッキーの(あるいはロスト・ガール)の「主観」によるものだということを看過してはならない。つまり、ニッキーが(あるいはロスト・ガールが)「『夫の抽象概念=ピオトルケ』による監視・干渉・統制を受けている」と感じているからこそこのようなイメージが喚起されるのであって、極論すればその「主観の妥当性」や「真偽のほど」は本質的な問題ではないということだ。先に挙げた「情事」だけでなく、そこに「視点」として登場するピオトルケをも含めた「映像全体」が、ニッキー(あるいはロスト・ガール)の「心象風景」であり、彼女(たち)の「内省」である。

そしてこの「侵入するカメラ」のシークエンスは、もう一箇所の「侵入するカメラ」と対になっている。つまり、「スミシーの家」に初めて入り込んだスー=ニッキーが、これまた廊下をベッド・ルームに向かって侵入し、そこで就寝するピオトルケを見るシークエンス(1:06:56)において登場する「カメラ」である。両方の「侵入するカメラ」の動きが備える同一性からして、この二つのシークエンスがある種の「対」を成しているのは間違いない。が、重要なのは、この二つのカメラが侵入する先が、「スミシーの家」の内部の、そのなかでももっともプライヴェートな場所であるといえる「ベッド・ルーム」*であることだ。

以前に述べたように、後者のシークエンスはスーの「ロコモーション・ガールたち」との遭遇、ひいてはポーランドの「ストリート」への誘導のシークエンスへとつながっていくものだ。スーの心理状態を「ストリート」まで導く「トラブル」のそもそもの起点・起因は、この一連のシークエンスの発端である「ベッド・ルーム」の内部に存在する。そして、内部に入り込んだカメラが映し出す「もの」こそが、その「起因」に他ならない。リンチ作品に登場する「侵入するカメラ」が持つ重要性から鑑みるに、その映し出された「もの」もまた重要であることは間違いないはずだ。

(なんだか続いたりする)

*この「ベッド・ルーム」の映像に対置されるものとして捉えられるのが、何度かインサート・カット気味に登場する「無人のリビング・ルーム」のショット(1:08:27)(1:16:56)だ。つまり、「家」のなかでも「プライヴェートな場」として存在するベッド・ルームと、「公共の場」として存在するリビング・ルームとの対比である。この無人のリビング・ルームが伝える「空虚なイメージ」は、それ自体が「機能しない家族」を表象するものといえるだろう。

2007年12月 3日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (29)

「ノース・カロライナ」の落穂の落穂(笑)。

さて、こんなふうに「インランド・エンパイア」で言及されている「ノース・カロライナ」にまつわるアレコレを見るにつけ、リンチが非常に私的な部分に基づいたイメージによって作品を創っていることが改めて伺えるような気がする。思えば、「イレイザーヘッド」やそれに先立つ初期短中編作品から、リンチ作品は非常にリンチの私的なものの発露であったといえる。が、特に「インランド・エンパイア」はその「私的な部分の濃度」において、そうした初期作品と並ぶものであるように思う。

しかし、スーを「赤いカーテンの通路」に導く「赤いドレスの女性」からして、どうやら名前がCarolinaであるのだな。その名前を出してクラブ内部に入れてもらおうと懇願するスーの姿(I know that girl! Carolina. I know Carolina. Let me in. Let me in.)(2:12:24)は、その当時の切羽詰ったリンチの姿そのものではないのか……という意地悪な見方もできるかもしれない。この見方に即するなら、カロリーナが「出口のサイン」を指差し、次に「赤いカーテンの通路の奥」を指差して、どちらに進むか選択させるシーンは実に意味深だ(2:14:04)。

リンチ作品が提示するイメージは、このように複合的なのが常だ。加えてこのシーンのケースでは、以前に述べたリンチが抱く「赤のモチーフ」への根源的なものとも重なっている可能性をも指摘しておきたい。

それにしても、だ。これまた意地の悪い見方をするならば、現在のリンチの状況自体が、「ブルー・ベルベット」を撮る直前のリンチの状況と重なってみえて仕方がないのだ。以前も触れたように、リンチはここ久しくハリウッド資本で作品を撮っていない。それどころか、「インランド・エンパイア」に関しては、北米での配給会社探しも難航し、結局リンチ自身が「ABUSRDA」という会社を立ち上げて自作品の配給に乗り出すことになった。そういえば「ブルー・ベルベット」も、その内容の過激さから配給会社探しに苦労し、最終的にデ・ラウレンティスが「DEG(De Laurentis Entertainment Group)」を立ち上げて配給することになったのではなかったか。確かにベネツィアで栄誉金獅子賞を獲得するなど、リンチの映画監督としての評価は高い。だが、こと新作の製作に関する限り、リンチが置かれている現状の厳しさは「ブルー・ベルベット」のころに比べてどれほど差異があるのだろう。

……てな余計な斟酌をさせていただきつつ思うのは(笑)、今回採用された「DVカメラ」を使った撮影方法は、リンチの新たな「曲がった木の棒」に成りえるのではないかということだ。製作のスタイルの問題や現場での取り回しの良さ、あるいはポスト・プロダクションの容易さといった製作面の範疇にとどまらず、将来的にデジタル・データでの上映館が普及すれば、配給に関しても何らか突破口が広がる可能性もゼロではない……とリンチは踏んでいるのではないだろうか。現実問題として、設備投資の問題が大きく、デジタルでの上映に関してはあまり普及してはいないのが現状であるにしても。

とまあ、勝手なことを書き綴ってみたが、いずれにせよ、感じるのはどのような形であろうと新しい作品を作ろうとするリンチの意欲だ。そして、自分としてもどのような形であろうとリンチの新しい作品を観たいと思うばかりなんである。

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