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2007年11月24日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (26)

さて、何回目になるかわからんけど、またまた雑感とか。

ずっと以前から、リンチ作品に対して自分なりの「テクスト分析」めいたことを試みてみたいという気持ちがあったりなんかした。特に「イレイザーヘッド」「ロスト・ハイウェイ」「マルホランド・ドライブ」といった非ナラティヴ系作品に関して(それについて流布されている様々な言説を含めて)思うところが多々あったのは事実で、なんらか作品に沿った形で自分の考えをまとめてみたかった。今回「インランド・エンパイア」という新作でもってその機会ができたのは、一リンチ・ファンとしても単純にウレシイ……いや、みてのとおりこれをして「テクスト分析」と呼ぶにはかなりの勇気がいるけれど、まあ、そこはひとつ(笑)。

ある意味で、対象として「インランド・エンパイア」を選択できたのはラッキーだったかもしれない。リンチ作品の系譜に沿っていうなら、「インランド・エンパイア」もまた「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」と同じく、「人間の認知や認識の問題」を扱っているといえる。ただし、前二作における「認識の対象」が「登場人物の(作品内)現実=(作品内)外界」であるのに対し、「インランド・エンパイア」ではその対象が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という「映画作品」であるところが大きく異なる点だ。っつーことは、「フィルム・スタディーズ」が取り扱っているモロモロの事項が、そのまんま分析対象となる「テクスト」自体に内包されているといえるわけで、その点では非常に楽チンではあるのだな。

とはいえ、それがゆえの「論としての脆弱性」を抱えてしまっている部分もある。映画作品に対する「精神分析」方面からのアプローチというのは多々あるが、それらに対して「それは映画作品の登場人物を対象とした精神分析のケース・スタディであって、映画作品の解釈ではない」という(主に「フィルム・スタディーズ」方面からの)批判がある。実際、「インランド・エンパイア」に関する精神分析的な視点からのアプローチもいくつか目にするけれど、やはり「登場人物の症例特定」が主眼となっていて、「映画作品の解釈」としてはあまり魅力的でないというのが正直な感想だ*。だが、しかし、この「症例特定」を「フィルム・スタディーズ関連」に置きかえれば、この批判はまんま自分の「テクスト分析」にも当てはまるという見方もできるわけで、いや、メタな感じに厄介ですね(笑)。

それはそれとして、「映画」が提示するものによって、どのようにして受容者の内面に(いろいろなレベルの)「意味」が形成されるのかについては、意味論の領域を含めて様々な視点で論じられてきた。「インランド・エンパイア」は、そうした問題についてのリンチなりの考えを提出している作品だともいえないこともない。いつものことながら、リンチ自身は誰かの特定の論に拠って立つわけではなく、しかし提示されているものはなんとなく直感的に(あるいは本能的に)理解できるものではあるけれど。と同時に、これはリンチが製作者としてのみならず、一受容者としてどのように「映画=世界」と接しているかの表明でもある。

正直な話、リンチがこういう方向にその表現の対象を向けてくるとは予測しておらず、「インランド・エンパイア」を試写で観ている最中にも何度か「視点の転換」を迫られたのは事実だ。そういう意味では、過去のリンチ作品を含めて、リンチの映像表現とはどういうものかを再確認するいいきっかけになったような気する。現在のところ、まだ地方での公開が続いている日本はもちろんとして、DVDが発売済みのアメリカにおいても「インランド・エンパイア」に対する定まった評価は下されていないように思う。洋の東西を問わず、年季の入ったリンチ・ファンの大多数までが「インランド・エンパイア」をどう扱ってよいか迷っている様子をみるにつけ、やはり今までの作品とこの作品の「距離」を感じずにはいられない。ただ、逆にいうと、これは「今までリンチ作品をどのように受容してきたか」を我々個々の受容者が問われているのに等しいのだということも、一度は立ち止まって考えてみるべきなのかもしれない。それは本当に「作品間の距離」の問題だけに還元できるのか、そのうちどれくらいが「リンチ作品の本質と我々の受容の距離」の問題なのか? 「インランド・エンパイア」を「理解不能」と判断するのは、それからだって遅くはない。どうせ次のリンチ作品が公開されるはまた5年後だろうし(笑)、それまで時間は一杯あるのだから。

*延々とスー(あるいはニッキー、あるいはロスト・ガール)の「症例特定」が続いた挙句、最終的に導き出されたのものが「省略されたストーリー」の存在を前提としたナラティヴで「具象的」な理解だったりしたら、大山崎としてはかなりガッカリする。

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