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2007年11月 5日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (19)

さて、次の落穂に行ってみよう(笑)。

「インランド・エンパイア」に登場する女性たちは、何度も何度も自分たちのアイデンティティを確認しようとする。自分はどこにいるのか、あなたは誰なのか、彼女は誰なのか、私(たち)を以前から見知っているか。繰り返し問いかける彼女たちは、自分たちが見当識を失っていることに恐怖する。なぜ、彼女たちは、自分たちのことを問いかけ、確認しようとするのか?

単純に考えると、これらの問いかけは「感情移入=同一化」の結果による「自己の喪失」あるいは「自己の変容」、端的にいうと「演技者=ニッキー」および「受容者=ロスト・ガール」による「登場人物=スー」とのアイデンティティの混濁を描いているかのようにみえる。それはたとえば、自宅の裏庭でスーが(1:37:21)、あるいはポーランドの「ストリート」でロスト・ガールがそれぞれロコモーション・ガールの二人に(2:11:22)「私を見て。私を前から知っているか教えて(Hey, look at me... and tell me if you've known me before.)」と問いかけるシークエンスに明らかだ。これは、ニッキーがデヴォンに対して繰り返し懇願する「私を見て(look at me)」という言葉(0:59:21)の、スーおよびロスト・ガールによる再現である。自分が自分に対して抱いているアイデンティティは正しいのか、彼女たちは他者が自分を何者であるとみなしているのかを通じて確認しようとする。

「インランド・エンパイア」が「映画についての映画」である以上、確かにそうした捉え方がひとつの核となるのは間違いない。しかし、こうした女性たちの度重なる「自己確認作業」に対し、「インランド・エンパイア」はたったひとつの回答を用意する。それはスーの「私は娼婦よ(I'm whore)」(2:07:37)という呟きだ。この呟きがもたらされた瞬間、「映画についての映画」というテーマは「機能しない家族」というもうひとつのテーマと完全に融合し、「インランド・エンパイア」という作品として一体化する。

この叫びに続く「ここはどこ? 怖いわ(Where am I? I'm afraid!)」というスーの台詞は、そのまま作品冒頭の「顔のない女性」が発する台詞(0:02:55)の再現だが、そのニュアンスはまるで違う。スーは自分(および他の女性)が「娼婦」であることを知っているし、自分(および他の女性)が「ストリート」(によって表される場所)にいることを知っている。そして、最終的にこの作品に登場する演技者・受容者を含めた女性たち全員が、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という作品に感情移入することによって、スーの呟きを確認し共有する。彼女たちの「自己確認」はこうして完了する。

こうした見方もまた、「インランド・エンパイア」のひとつの捉え方であるはずだ。

(さて、次の落穂はどれだ?)

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