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2007年11月 3日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (18)

「動物」が表わすものについての続き。

さて、「映画」が内包するもので「自律性を有し、かつより上位のもののコントロールを受ける存在」とはなにか……と見まわしてみると、実はそういうもので満ち溢れていることに気づく。そしてそれは、「映画」が産業であり商品である限りにおいて、基本的に複合的なものだ。

なによりもリンチ自身が、プロデューサー制のもとでは映画監督である自分も「自律性を有し、かつコントロールを受ける存在」であることを自覚している。「砂の惑星」製作時の経験はともかく、「ロスト・ハイウェイ」のメイキング映像ともいえる「ナイト・ピープル」(1997)に登場する、プロデューサーであるディーパック・ナヤールが行う製作作業に対するコントロールの実例は、リンチが実際に置かれている状況を如実に表すものだろう。「ファイナル・カット」の権限の有無にかかわらず、映画制作上の権限分担が機能しているかぎり、映画監督もまた「動物」にならざるを得ない。そこからの(部分的にであるにせよ)逸脱を目指したのが「インランド・エンパイア」であったのかもしれないが、であるならば余計に、この作品内でリンチが「動物」という概念で表されるものに触れたことの意味合いは明快であるといえるのかもしれない。

一方で、たとえば「物語上のエスカレーション」や「感情のエスカレーション」などに置換される、作品としてのコントロールの部分がある。ハリウッドがもっとも気をつかい、そのコントロールにつとめてきた部分でもあり、そのためのマーケット・リサーチを含め、ハリウッド映画が「商品としての汎世界性」を獲得するために払っている労力は並大抵ではない。その実現手段として「空間や時間のコントロール」や「美術や照明のコントロール」、あるいは「音響のコントロール」「編集のコントロール」といった具体的作業を必要とするが、それはそれぞれ自律的でありながら、最終的には「感情移入」や「同一化」の喚起という最終目的のために「使われる」ものであるともいえる。当然ながら、そうした各種の具体的製作作業上のコントロールは、(演技者を含めた)作業を分担する各パーソネルへのコントロールを通じて行われるものだ。

いずれにせよ、「映画」におけるコントロールの問題は、複合的なものにならざるを得ない。リンチがナヤールの作業を評していう「金と時間と人間によるパズル」である。そしてそのコントロールが失敗したとき、映画は「叫び声をあげながら、そこらじゅうに糞を撒き散らす猿(This monkey shit everywhere. This monkey can scream)」と化すのだ。

だがしかし、と思い当たる。「映画=世界」によって「同一化」を(なかば強制的に)誘われる我々「受容者」も「自律性を有し、かつコントロールを受ける存在」、すなわち「動物」であるのではないだろうか? 「演技者」個人にまで「感情移入」し、「ハリウッド伝説」をマスコミのコントロール下で共有する我々もまた? であるならば、浮浪者2による「動物」に関する言及が「スーが死に至る映像」に被され、裏切られることを予見しつつスーに「同一化」を余儀なくされている我々に向ってなされるのは、まさか偶然ではあるまい。

(とりあえず、「動物」の落穂はおしまい)

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