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2007年11月

2007年11月30日 (金)

「インランド・エンパイア」日本版DVD予約開始ダス!

つなことで、駄文エントリー101件目にあわせて(笑)、「インランド・エンパイア」日本版DVD予約開始のアナウンスが日アマゾンに。「1枚組通常版」と「2枚組初回限定 デイヴィッド・リンチインスタレーション/インランド・エンパイア+リンチ1」の2種、発売予定は2008年2月22日(金)。さあ、良い子のみんなは、がんばってお年玉を貯金しておこう(笑)。

Inlandnormaldvd

リンチ者としては、当然、通常版じゃな い方をポチってみるでしょー。そーでしょー。

installation

なんせ同梱されているドキュメンタリー「リンチ1(Lynch One)」は本国メリケンでもまだソフト化されていないんだから、これを快挙と呼ばずしてなんと呼ぼうかってな感じのお買い得。わざわざツイン・ピークス・フェスティヴァルまで観に行かなくて、ヨカッタヨカッタ(笑)。北米版に先駆けて伊版DVDも買ったあちらのコア・ファンの皆様も、今度は日本版をお買い求めになるんじゃないでしょーかー。

そのかわりといっちゃなんだが、現在のところの総収録時間(267分)が正確であるならば、北米版DVDに収録されていた90分に及ぶ各種映像特典は入ってないっぽい。本編180分+「リンチ1」84分で、すでに264分だもんな。おそらく、通常版にも収録されている「予告編&特報&TVコマーシャル」で残り3分ってなところでしょーかね。うーむ、「リンチのお料理教室」等々が収録されないとなれば、それはそれで残念ではあるが、すでに北米版DVDを買ってしまった身としてはこっちのほーがウレシイぞ。

なにやらオマケとして台本もついてるみたいなのだが、そりゃ、リンチがバラバラ書き殴ったヤツですか?(笑) どうせ掲載されるのは一部なんだろうけど、それでも「残ってたんだ……」と驚くとともに(笑)、実際の映像と対比してみるのも興味深いんでわないかい、とこれまた楽しみな今日この頃でありマス。

2007年11月29日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (28)

どこまでいくのか「インランド・エンパイア」の落穂拾い(笑)。お題は引き続き「ノース・カロライナ」について。

「ブルー・ベルベット」の撮影は、前項で触れたノース・カロライナ州ウィルミントンの各所と、同州のランバートン(Lumberton)で行われた。撮影には「GEOスタジオ」が使われたとする資料もある。が、その一方で、当時「GEOスタジオ」は建設途上にあってその撮影ステージは防音設備が間に合っておらず、2マイルほど北にある飛行場の騒音がダダ漏れだったというリンチの発言がある。最終的に「ぴったりの防音ステージを借りられた」らしいが、それがどこのスタジオのものなのか正確にはわからない。

「商業」映画監督デイヴィッド・リンチにとって、この「ブルー・ベルベット」という作品が大きなターニング・ポイントになったことは間違いない。自主制作だった「イレイザーヘッド」(1976)はさておいて、「エレファント・マン」(1980)と「砂の惑星」の二作はすでに企画が存在し、そこに監督としてリンチが嵌め込まれる形で成立した作品だといえる。要するに、リンチが主導して作られた作品ではない。スタート段階からリンチ自身の企画として「商業作品」が作られたのは、この「ブルー・ベルベット」が最初であることになる。

「エレファント・マン」のときは、比較的リンチは自由にできたようだ。しかし、そのプロデュースを行ったメル・ブルックスのプロダクションはやはり資金難で座礁し、白紙の小切手をオファーされたデ・ラウレンティスとの仕事は自分の意に沿わない編集が施されたあげく、厳しい評価を受けてしまう。この時点で、リンチが映画監督としての自分のキャリアに不安を覚えたとしても、まったく不思議はない。

そのような状態のなかで、「ブルー・ベルベット」という作品で自分自身の企画と表現が実現できたこと、「予算半額、ギャラ半額」という制約と引き換えにファイナル・カット権を確保できたこと、そして結果的に作品が一定の評価を得たことは、かなりな僥倖だったというほかないだろう。そう考えるとき、リンチにとってノース・カロライナがもつ重要性や、「インランド・エンパイア」におけるその地への言及の意味、ひいては「ファントムの片足の妹(He had a sister with one leg)」が何を表わすのかが、おぼろげにみえてくる。

映画・TVを問わず、何らかの理由で頓挫する映像作品は星の数ほどある。「マルホランド・ドライブ」のようにパイロット製作まで至ればまだマシなほうで、企画書段階やシナリオ段階でボツになる企画となると、過去いくつあったことかわからない。そうして厳選された企画のみが資金を注ぎ込まれ、「人と時間のパズル」という管理を受けつつ、「商品=フィルム」として完成される。それが「工業製品」であるとともに「投資の対象」である映像作品が作られる通常のシステムだ。

そうした篩い分けで落とされた「中断された映画」は、「中断されなかった映画」の何千倍何万倍と存在し、いわばこの世は「47」で満ち溢れているといえる。リンチ自身にも、「ロニー・ロケット」をはじめとする「中断された映画」が何本もあるのはいうまでもない。だいたい、転機となった「ブルー・ベルベット」のシナリオからして、最初はワーナー・ブラザーズに持ち込まれたが、ずっと放置されていた。デ・ラウレンティスの決断がなければ、そのまま「中断された映画」のひとつになっていたとしても何の不思議もない状態だったのだ。

その経緯はどうであれ、断念せざるを得なかった自分の企画を、リンチはどのような思いで葬り去ってきたのだろう。もしかしたら、それは「幼い子供を殺す(She killed three kids in the first grade)」ような気分であったのかもしれない。そうであるならば、この「ファントムの妹」は、リンチ自身をはじめとするすべての「映画関係者たち」のことであるように思えてくる。彼女=彼らは「ファントム=映画の魔」の類族でありながら、制約を受ける不自由な体をもち、映画がもたらすさまざまな伝説を見上げながら「ステキ(Sweet)」(2:53:15)と呟くのだ。

しかし、それでもなお、「ブルー・ベルベット」の製作経緯とその結果がもたらしたものは、リンチのその後を決定する貴重な体験だったといえる。それがファイナル・カット権と引き換えの、「予算半額、ギャラ半額」という「片足を失った」かのごとくの不自由な状態でのことであったとしてもだ。ジェフリーは野原で「耳」を見つけた。その一方で、きっとリンチはノース・カロライナの森で「削った木の棒(carved stick)」を見つけたのだ……失くした片足がわりの木の棒を。

2007年11月27日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (27)

んだば、ぼちぼち「インランド・エンパイア」の落穂拾いの続き(笑)。

さて、スーがMr.Kに対して語る台詞の中に、ファントムの出自に関する言及がある。念のため、該当する箇所のスーの台詞を抜き出してみよう。

Sue: They all called him The Phantom. He got in a barroom fight one night. All the bar was arrested. A lot if them fucking circus clowns. So when they take'em all down too the station... guess what. The Phantom's done gone and disappeared. This is the kind of shit I'm talking about. He was a Marine from North Carolina. He had a sister with one leg. She had a sorta... carved stick for the other one. She killed three kids in the first grade. This is the kind of shit...

スーは、ファントムが「ノース・カロライナの海兵隊員であった」と語っている。確かに大西洋に面するノース・カロライナ州には、たとえばジャクソンヴィル(JacsonVille)*にキャンプ・レジューン(Camp Lejeune)という海兵隊基地があるし、その南西のケープ・フィア川沿いにはウィルミントン・マリーン・センター(Wilmington Marine Center)もある。しかし、ノース・カロライナと「ファントム=映画の魔」の間に、いったい何の関係があるのか?

実は、ノース・カロライナ州のウィルミントン(Wilmington)は、「ハリウッド・イースト(Hollywood East)」と呼ばれるほど映画製作が盛んな土地なのだ。そして、その成立に関わった人物に、デイヴィッド・リンチは浅からぬ縁がある。

そもそもの始まりは、1983年。名監督フランク・キャプラの息子であるフランク・キャプラ・Jr.が、自らがプロデュースするスティーヴン・キング原作の映画「炎の少女チャーリー(Firestarter)」(1984)のロケ地を探していたことに端を発する。主人公の少女とその父親が隠れ住む場所の候補としてキャプラ・Jr.が目をつけたのが、「ザザーン・アクセント・マガジン(Southern Accents Magazime)」のとある号の表紙を飾った一軒の家だった。それが気に入ったキャプラ・Jr.は似たような家を探し回るが、結局見つからず仕舞い。最終的に彼は、雑誌に掲載された当の家をロケ地として確保するのだが、それがノース・カロライナ州ウィルミントンのほど近く、ケープ・フィアー川の傍らに建てられた家だった**

で、この「炎の少女チャーリー」の共同プロデューサーだったのが、マーサ・シューマッカー(Martha Schumacher)。1990年にディノ・デ・ラウレンティス(Dino De Laurentiis)の二番目の妻になる女性である。

この当時、まだ最初の妻シルヴァーナ***がいたデ・ラウレンティスが、どのようにしてこの撮影地のことを知ったのか詳細な経緯はわからない。が、とにかく、イタリア時代を通じ自らのスタジオを持つのが夢だったデ・ラウレンティスは、この温暖なノース・カロライナの地が映画撮影にうってつけであることを知る。彼はさっそくウィルミントンに土地を買い求め、1984年には「DEG(De Laurentis Entertainment Group)スタジオ」が設立される。

1984年といえば、ディノ・デ・ラウンレンティスとその娘のラファエラのプロデュースのもとでリンチが監督した、「砂の惑星」が公開された年だ。つまり、リンチがこの映画を撮っている最中に、「DEGスタジオ」の話は進行していたことになる。その経緯は、多分なんらかの形でリンチの耳にも入っていたことだろう。ハリウッドから隔絶された東海岸に自らの「映画王国」を打ち立てようとしているデ・ラウレンティスの姿は、商業映画第二作目を製作中の駆け出し監督だったリンチ****の目に、はたしてどのように映っていたのか。

当時の州知事だったジム・ハント(Jim Hunt)が1980年に立てた映画産業振興策の力も得て、ノース・カロライナの映画産業は順調に成長し、たった10年でハリウッドに次ぐ規模になる。だが、リンチとデ・ラウレンテスの関係は次作「ブルー・ベルベット」(1986)で終わり、興行失敗が続いて資金的に苦しくなったデ・ラウンレンティスは、わずか4年で「DEGスタジオ」をカロルコ(Carolco)に売却してしまう。

その後、しばらくの間このスタジオはCM撮影用として使われていたが、1996年にコロンビア・ピクチャーの子会社のものとなり、あのフランク・キャプラ・Jr.をトップにした「EUE スクリーン・ジェムズ・スタジオ(Screen Gems Studio)」として生まれ変わる。現在でもこの「スクリーン・ジェムズ・スタジオ」を含め、ノース・カロライナ州には7箇所の撮影所があり、29の撮影用ステージを擁している。大道具・小道具の製作をはじめケータリングに至るまでの周辺産業もちゃんと存在し、劇場用映画やTVドラマの製作が続けられている。「ハリウッド・イースト」という呼び名は、伊達ではないわけだ。

それにしても、映画製作に執りつかれた挙句イタリアという祖国を捨て、アメリカに渡ってからもあの巨大ハリウッドに対抗して自分の「映画王国」を作ろうとしたデ・ラウンレンティスもまた、「映画の魔」に深く魅入られた者ではなかったか。……いや、考えてみれば、彼のもとで、とんでもない挫折と望外の成功の両方を味わったリンチにとって、ディノ・デ・ラウレンティスこそが「ファントム=映画の魔」のひとりであるのかもしれない。ノース・カロライナに「王国」を築き上げようとした、その野望はついえた。だが、そこは今もなお、その倦族が支配する土地なのだ。

(続くんかいな、これ?)

*フロリダ州のジャクソンヴィルとは異なる。

**それだけ凝っても映画自体の出来は今ひとつで、「キング原作の映画はイマイチ」という評判を覆すことはできなかった。にしても、あの「家」のどこにキャプラ・Jr.は魅かれたのか。久しぶりに「炎の少女チャーリー」を観返してみたけど、よくわかりません(笑)。あ、よくみたらフレディー・ジョーンズが出てるや、この映画。

***もともとイタリア時代にデ・ラウレンティスがプロデュースした「にがい米(Riso amaro)」(1949)等の出演女優だった彼女は、「砂の惑星」でも教母ラマロ(Ramallo)役を演じている。旧名シルヴァーナ・マンガーノ(Silvana Mangano)。

****おそらくは、「砂の惑星」のファイナル・カット権を巡るゴタゴタの最中だったのではないだろうか。

2007年11月25日 (日)

「Snowmen」を読む

写真集なんで「読む」っつーのはちょっと違うかもしんないけど、まあ、いいや(笑)。

snowmen

この「雪だるま」ばっかを撮ったデイヴィッド・リンチの写真集、作品集である「The Air Is on Fire」と同じぐらいの時期に出版されていたハズで、すでに米アマゾンでは注文不可なんだけど、なぜか日アマゾンでは11月30日発売の予約可になっていた。20日に注文したら、22日に届いた。どーゆーことだ(笑)。奥付の刊行年月日が今年の2月になっているので、まだ在庫が残ってたってことなんですかね? でもって、クリスマス・シーズン狙って重版がかかるんでしょーか?  そこらへんの事情は、よくわかりません。

掲載されている「雪だるま」の写真は、クリス・ロドリーによるインタビュー集「映画作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ(Lynch on Lynch)」でリンチ自身の言葉として触れられているように(P.286)、また「Snowmen」の扉にリンチの自筆文字で書き殴られているように(笑)、1990年代頭(インタビューでは1993年となっている)にアイダホ州のボイシ(Boise, Idaho)で撮影されたものだ。

さて、収められている8葉の「雪だるまズ」写真を眺めていると、あることに気づく。かならず背景として、その雪だるまを作った人々が住む「家」が映っていることだ。つまり、構図としては、リンチの一連のドローイング---- 「彼女は家の外で泣いていた(She Was Crying Just Outside The House)」(1990)や「家になった僕(Here I Am-- Me As a House)」(1990)そして「ママは家にいて、本当に気が狂っている(Mom's House and She's Realy Mad)」 (1990)----などとまったく同一なのだな。いや、ドローイングのほうはパース無視の抽象画という違いがあるけれど、背景に「家」があって手前に「人様」のものが居るという構成要素は同じ。

となると、この「雪だるまズ」の写真は、リンチが何度となく展開する「何かよくないことが起きる場所としての家」というモチーフ、あるいは毎度おなじみの「機能しない家族」というモチーフのリフレインであるとも受け取れるわけだ。したらば、間違ってもこの本をクリスマスの贈り物になんかしちゃイカンのではないか、少なくともリンチ・ファンにプレゼントしたら真意を疑われかねないんではないかと思ったりもするのだが、いかがなもんでしょーか。あ、この時期のドローイングには「ボイシ、アイダホ」(1989)なんてのもあるぞ。例によって「真っ黒け」だ(笑)。こりゃ、ガチなんでないかい?

もうひとつ。この「雪だるまズ」が、リンチがこれまた繰り返しチャレンジする「時間経過とともに変化する絵画」の一形態であると捉えることも可能なように思う。それほどまでに、いつしか溶け出してあるものは傾き、あるものは目鼻もわからなくなった「雪だるまズ」の様態はさまざまで、一度そういう目で見始めるとフランシス・ベーコン風の「歪んだ肉体」を備えているようにしか見えなくなるのが、あら不思議(笑)。あ、いま気がついたが、後ろのページにいくほど「溶解度」は増してるなあ。狙ってるでしょ、リンチ(笑)。

というわけで、一見のどかな田舎町の庭先で「雪だるまズ」によって展開される「漠たる不安と恐怖」、一家に一冊、ぜひ取り揃えられてはいかがでしょー(棒読み)。

2007年11月24日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (26)

さて、何回目になるかわからんけど、またまた雑感とか。

ずっと以前から、リンチ作品に対して自分なりの「テクスト分析」めいたことを試みてみたいという気持ちがあったりなんかした。特に「イレイザーヘッド」「ロスト・ハイウェイ」「マルホランド・ドライブ」といった非ナラティヴ系作品に関して(それについて流布されている様々な言説を含めて)思うところが多々あったのは事実で、なんらか作品に沿った形で自分の考えをまとめてみたかった。今回「インランド・エンパイア」という新作でもってその機会ができたのは、一リンチ・ファンとしても単純にウレシイ……いや、みてのとおりこれをして「テクスト分析」と呼ぶにはかなりの勇気がいるけれど、まあ、そこはひとつ(笑)。

ある意味で、対象として「インランド・エンパイア」を選択できたのはラッキーだったかもしれない。リンチ作品の系譜に沿っていうなら、「インランド・エンパイア」もまた「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」と同じく、「人間の認知や認識の問題」を扱っているといえる。ただし、前二作における「認識の対象」が「登場人物の(作品内)現実=(作品内)外界」であるのに対し、「インランド・エンパイア」ではその対象が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という「映画作品」であるところが大きく異なる点だ。っつーことは、「フィルム・スタディーズ」が取り扱っているモロモロの事項が、そのまんま分析対象となる「テクスト」自体に内包されているといえるわけで、その点では非常に楽チンではあるのだな。

とはいえ、それがゆえの「論としての脆弱性」を抱えてしまっている部分もある。映画作品に対する「精神分析」方面からのアプローチというのは多々あるが、それらに対して「それは映画作品の登場人物を対象とした精神分析のケース・スタディであって、映画作品の解釈ではない」という(主に「フィルム・スタディーズ」方面からの)批判がある。実際、「インランド・エンパイア」に関する精神分析的な視点からのアプローチもいくつか目にするけれど、やはり「登場人物の症例特定」が主眼となっていて、「映画作品の解釈」としてはあまり魅力的でないというのが正直な感想だ*。だが、しかし、この「症例特定」を「フィルム・スタディーズ関連」に置きかえれば、この批判はまんま自分の「テクスト分析」にも当てはまるという見方もできるわけで、いや、メタな感じに厄介ですね(笑)。

それはそれとして、「映画」が提示するものによって、どのようにして受容者の内面に(いろいろなレベルの)「意味」が形成されるのかについては、意味論の領域を含めて様々な視点で論じられてきた。「インランド・エンパイア」は、そうした問題についてのリンチなりの考えを提出している作品だともいえないこともない。いつものことながら、リンチ自身は誰かの特定の論に拠って立つわけではなく、しかし提示されているものはなんとなく直感的に(あるいは本能的に)理解できるものではあるけれど。と同時に、これはリンチが製作者としてのみならず、一受容者としてどのように「映画=世界」と接しているかの表明でもある。

正直な話、リンチがこういう方向にその表現の対象を向けてくるとは予測しておらず、「インランド・エンパイア」を試写で観ている最中にも何度か「視点の転換」を迫られたのは事実だ。そういう意味では、過去のリンチ作品を含めて、リンチの映像表現とはどういうものかを再確認するいいきっかけになったような気する。現在のところ、まだ地方での公開が続いている日本はもちろんとして、DVDが発売済みのアメリカにおいても「インランド・エンパイア」に対する定まった評価は下されていないように思う。洋の東西を問わず、年季の入ったリンチ・ファンの大多数までが「インランド・エンパイア」をどう扱ってよいか迷っている様子をみるにつけ、やはり今までの作品とこの作品の「距離」を感じずにはいられない。ただ、逆にいうと、これは「今までリンチ作品をどのように受容してきたか」を我々個々の受容者が問われているのに等しいのだということも、一度は立ち止まって考えてみるべきなのかもしれない。それは本当に「作品間の距離」の問題だけに還元できるのか、そのうちどれくらいが「リンチ作品の本質と我々の受容の距離」の問題なのか? 「インランド・エンパイア」を「理解不能」と判断するのは、それからだって遅くはない。どうせ次のリンチ作品が公開されるはまた5年後だろうし(笑)、それまで時間は一杯あるのだから。

*延々とスー(あるいはニッキー、あるいはロスト・ガール)の「症例特定」が続いた挙句、最終的に導き出されたのものが「省略されたストーリー」の存在を前提としたナラティヴで「具象的」な理解だったりしたら、大山崎としてはかなりガッカリする。

2007年11月21日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (25)

まだまだまだまだまだ「」と「」。

とまあ、そんなこんなで「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」は「ハリウッド・ブルバードにおけるスーの死」というクライマックスを向かえ、撮影を終了する。途中、クラブの裏通路に「赤いカーテン」「赤いドレス」というモチーフがそこに至る詳しい経緯とともに登場するが、この両者がもつ「物語展開の場=Mr.Kのオフィス」への誘導という機能について、改めての詳説はしない。

ここでまず取り上げたいのは、撮影が終了したあと、スー=ニッキーが「ステージ4」から「無人の映画館」に至る間に登場する「赤いカーテン」*(2:36:40)だ。このカーテンが、クラブの裏通路の「赤いカーテン」と同じ機能を果たしていることは、指摘するまでもないだろう。特筆しておきたいのは、この二つの「赤いカーテン」が、その出現の後に「階段」という「上昇のイメージ」を付随させていることだ。クラブからの上り階段は「Mr.Kのオフィス」に続き、「映画館」からの上り階段は「スミシーの家」へと続く。すなわち、模式図における「ストリート」から「家」への推移が、「赤」をキーとして喚起されている。

次に「赤」が提示されるのは、そうして至った「映画館の座席」によってだ。そこにスー=ニッキーによって「青い上着」が持ち込まれる。クライマックスの余韻のなかで、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「青=心理的展開」と「赤=物語上の展開」は、こうして再び出会う。

映画館のスクリーンには、その通路に立つスー=ニッキー自身が映し出され、次に「Mr.Kのオフィス」でのスーが映し出される。この座席の「赤」もまた「物語展開の要請」を行っているのだ。その要請が「最終段階」であるがゆえに、続いてスクリーンに映されるのは、「『スミシーの家』のベッドルームにある箪笥から、何かを取り出すスー=ニッキーの姿」になる。この何かが何であるのかは、後のシークエンスにおいて明らかだろう。スー=ニッキーは、自分がなにを成さなければならないのか、この映像によって悟ったのだ。また、「映画館の階段の前に立つMr.K(とその映像)」によって、スー=ニッキーがどこに行かなければならないかも明確に提示される。

それらの示唆を得たスー=ニッキーが去ったあと、誰も居ない「赤い座席」の上に残される「青い上着」は、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の終結を物語る。「物語展開」と「心理展開」の両者は、ここで(当然ながらそこは「映画館」だ)最後の合致をみることになる。

だが、「映画館」の階段の上から射す「青い光」(2:39:00)、そして「スミシーの家」へと続く暗い通路を照らす「青い光」(2:39:13)が、「感情移入=同一化」の余韻がいまだ続いていることを提示している。「ファントム=映画の魔」が「ピストル=最終的な物語上の要請」によって倒されるまで、「ロスト・ガール=スー=ニッキー」をつなぐ「感情移入=同一化」の完全な解体は待たなければならないし、「受容者」「登場人物」「演技者」への再分化もまた待たなければならないのだ。

(この項、おしまい)

*この「赤いカーテン」の前に置かれている白い柱が、ロスト・ガールがモニターを観ている部屋にある柱(2:48:42)と類似した意匠であることも見逃せない。これは「TVモニター」と「映画スクリーン」の「受容装置」としての機能上の同一性を表わすものだと受け取れなくもないだろう。
また、この「赤いカーテン」のカットの直前、「ステージ4」の入り口に立つスー=ニッキーとロスト・ガールによる、モニター画面越しの「視線の交換」が行われるのを忘れてはならないだろう。ここで「受容者と演技者=登場人物」の間の、「観る者」と「観られる者」の関係性の認識がなされるのである。これは後の、映画スクリーンを介在させたニッキーとスーによる「視線の交換」、つまり「演技者と登場人物」間の「観る者」と「観られる者」の関係性の認識に引き継がれ、この三者間の「同一性=感情移入」は次第に解体されていくことになる。

2007年11月19日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (24)

まだまだまだまだ「」と「」。

「インランド・エンパイア」における「赤」のモチーフの表れ方として興味深いのが、クリンプ=ファントムが「赤い電球」*を口にくわえ、裏庭の木の陰からスーの前に登場するシークエンスだ(1:59:39)。前項の「Rabbitsの部屋」と「イメージの連鎖」の順序は前後するのだが、今回はこのシークエンスについてみてみる。

スーが「スミシーの家」の隣家にクリンプを訪れるのは、その直前のシークエンスにおいて訪問者2から「クリンプという名の隣人を知っているか?(Do you know the man who lives next door? "Krimp" is the name.) 」という示唆(1:57:02)**を受けたからである。「クリンプ=ファントム」が「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」における「心理的な展開」に対して機能しているという見方にのっとって捉えるなら、ここで訪問者2によって示唆されているのは、その「心理的エスカレーション」の状況がどのようであるかについての「確認」の必要性ということになる。

こうしてスーが初めての邂逅を果たした「クリンプ=ファントム」が「赤い電球を口にくわえている」のは、何を表わしているのか? 今までみてきたように、「赤」を「物語展開の要請」に関連するものと位置づけるとき、この「赤い電球」によって表わされるものは明確である。というよりなにより、この「クリンプの家の裏庭」におけるシークエンスで----

クリンプの口にくわえられている赤い電球のアップ。
     ↓
※明滅する「スミシーの家」にある赤色の傘のライト・スタンド。
     ↓
※それを見詰めている「スミシーの家」の小部屋の壁にもたれたスーのアップ。明滅する灯り。
     ↓
裏庭にいるスーのアップ。

----という具合にインサートされる※印の二つカットによって、この両者の「赤」の同一性は(少なくとも機能面での同一性は)明示されているといえるだろう。

……てなことを踏まえつつ読んでいくとすれば、「赤い電球をくわえたクリンプ=ファントム」というイメージによって提示されているのは、「心理的エスカレーション」の「物語上のエスカレーション」に対する(それを呑み込まんばかりの)優位である。

要するにこの時点では、「物語上のエスカレーション」よりも「心理的エスカレーション」のほうが勝っている。「インランド・エンパイア」に関して何事かつぶやきつつ(1:55:41)バルト地方のサーカスから姿を消した「ファントム=クリンプ=映画の魔」は、ロスト・ガールの「ポーランド・サイド」から、通底する「ストリート」を伝ってスー=ニッキーの「スミシーの家」の近くにまで侵入してしまっているのだ。それだけ演技者=登場人物=受容者の「同一化」は深まっているのだが、それどころか、このシークエンスでは「心理的展開の要請=スクリュードライバー」までがスーにもたらされてしまう。「心理的展開」は、最終的なクライマックスに向けての準備を始めるのだ。

そして、それに応えて、シークエンスは----「ロスト・ガールの家(ポーランド・サイド)の空虚な入り口」のカット(2:01:03)***をはさみつつ----「老人たちによるピオトルケへのピストル授与」へと移り、そして前項で触れた「Rabbitsの部屋」のシークエンスへと続いていく。こうして「心理的展開」と「物語上の展開」の両面において、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWSはクライマックスへの準備を整えることになる。

(うが、まだ終わらんのでこの項、続く)

*「Catching the Big Fish」にあるリンチ自身の記述によれば、ロサンジェルスにおけるこの「小さな家(The Little House)」のシーンの撮影時、「なにか小道具が必要だ」というファントム=クリンプ役のクシシュトフ・マイフシャク(Krzysztof Majchrzak)の希望に対し、リンチは自分のオフィスにたまたまあった「割れたタイル(broken tile)」と「岩(rock)」と「赤い電球」の三つを提示したということだ。そして、マイフシャクが選択したのが、この「赤い電球」だったということである。「インランド・エンパイア」の製作経緯を考えたとき、使われたなかった「タイル」と「岩」の「色」はなんだったのか、このシーンがどの時点で撮影され他のどのシーンに影響を与えたのか、非常に興味深いところだ。

**同時に、訪問者2は「伏線の回収」および「時間コントロール」という「物語展開の要請」の示唆をも行っている。なおかつ「ここ(スミシーの家)に住む男のことを知っているか?(Do you know the man who lives here?)」といった具合に、「トラブルの根源」についての問いもスーに投げかけているが、これは老人たちからピオトルケへの「彼女(ロスト・ガール)がわかるか?(Do you recognize her?)」という問いかけ(2:02:11)と対置されるものであるように思える。こうして妻と夫の両者が、「トラブル=機能しない家族」についての認識を確かにするのだ。
いずれにせよ、この訪問者2の一連の発言は、「訪問者たち」が「物語上の展開」と「心理的な展開」の両方を含めたより全体的な視野をもつ存在であることの証左のように受け取れる。訪問者1によって表わされる「言説」と考えあわせれば、彼女たちはいわばより「上位の存在」あるいはより「外部の存在」であることがうかがえるように思う。

***これは、「ファントムがアメリカ・サイドに移動し、姿を消したあとのポーランド・サイド」を表わすのか?

2007年11月16日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (23)

まだまだまだ「」と「」(笑)。

次に「Rabbitsの部屋」に「赤」が現われるのは、以下のようなシーンにおいてだ。

・「Rabbits」の部屋(2:05:23)
Jane rabbitがJack rabbitの方を見る。

Jane rabbit: (Jack rabbitに) I am going to find out one day.
Suzie rabbit: (手を休め、二匹を振り返って) It was red.

「Rabbitsの部屋」のロング・ショット。Suzie rabbitは再びアイロンがけに戻る。

Jack rabbit: (Jane rabbitを見て) Where was I?
Jane rabbit: This isn't the way it was.

[audience laughs]

部屋の照明が赤色に変わる。
立ち上がるJack rabbit。

Jack rabbit: (Jane rabbitを見下ろしながら、変調した声で) It was the man in the green coat.

部屋の左端からのミドル・ショット。Jane rabbitは画面外に外れている。Jack rabbitは足から肩まで画面内。Suzie rabbitは全身が見えている。奥の壁のところにあいた窓。窓ガラス越しに赤い灯りが見えている。

Suzie rabbit: It had something to do with the telling of time. (変調した声で)

窓のアップ。窓枠は木だ。窓ガラス越しの部屋の内部は明瞭ではないが、赤色の傘のライト・スタンドが見える。

「Rabbitsの部屋」における「コンテキスト(文脈)が破壊された台詞」については「成立しない会話」に触れた項で述べたが、このシーンにおいては、コンテキストを喪失しながらも断片的にキー・ワード的なものが現われているのがわかる。そのなかでも特にポイントになるのがやはりスージー・ラビットによる発言で、部屋の照明が「赤」に変わったのに応じて「時間のコントロール」に関連する言及をしているのは見逃せない。前項で挙げた「Rabbitsの部屋」のシーンとあわせて、実はコントロールの主導権はスージー・ラビット*が握っているかのようにさえみえる。ジャック・ラビットが「私はどこにいた?」などと、登場する女性たちと同じように「自己確認」を必要としている発言をしているのとは、対照的だ。

ここで登場する赤色のライト・スタンドが「スミシーの家」にあったもの(1:08:47)と同じであるかどうか、映像からでは判然としない。だが、いずれにせよ、「赤」という色をキーとして考える限り、機能するところは同じとみて問題ないのではないかと思う。

前項のように「イメージの連鎖」のなかでこの「Rabbitsの部屋」を捉えるなら、直前のシークエンスとの明確な連続性をまず指摘しておかなければならないだろう。この「Rabbitsの部屋」は、老人たちがピオトルケに「ピストル=物語上の要請」を手渡すシークエンスと連続した形で表れており、それは三人の老人がディゾルヴで三匹のウサギたちと入れ替わり、かつ部屋もバルト地方のいずこかにある家の内部から「Rabbitsの部屋」に入れ替わっていく映像から明らかだ。念のために確認するなら、「老人たち」がウサギたちに変化した……と受け取るのが、まずはシンプルでストレートな捉え方だろう。こうした点からも、「老人たち」と「ウサギたち」が作品内で果たす機能の「同一性」は明らかである。

そして、この「Rabbitsの部屋」のシーンに続いて提示されるのは、「嵐の雨が吹き込むいずこともしれぬ部屋にいるスー」(2:06:25)、そして「『スミシーの家』のリビングルームの赤い椅子に座り、上方を見詰めているスー(周りでは「ロコモーション・ガールたち」が踊っている)」(2:07:05)といった「視線の交換」のシークエンスであり、それは最終的に「ハリウッド・ブルバードにおけるスーの(フェイクの)死」というクライマックスに至るまで----「ポーランドの『ストリート』に立つロスト・ガール」(2:10:36)**のシークエンスや、「スーがクラブから『Mr.Kのオフィス』に誘われる詳細」(2:13:57)をはさみつつ----「イメージ」を連鎖させていく。

つまり、この時点で、ウサギたちは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」のクライマックスに(そして「終結」に)向けてのコントロールを始めているわけだ。最高レベルのエスカレーションを迎えるための物語展開が必要とされており、その要請は前回の「Rabbitsの部屋」に表れているよりも強度で、ウサギたちのコントロールによって一時的にせよ部屋の照明が「赤」から常態に戻ることもない。むしろ、今回の「Rabbitsの部屋」では最後に提示されるカットが「窓越しの赤いランプ・スタンドのアップ」であることからして、要請の緊迫度合いが映像的に強調されているのが受け取れる。

(まだ続きそうな気配)

*スージー・ラビットってのは、実はリンチからみたメアリー・スウィニーのことなのか? というのは、ほんの冗談(笑)。

**「ロスト・ガールがスーに対する『同一化』を深化させるシークエンスであるとともに、「ロスト・ガールが『自己確認』を進める過程」を表わすシークエンスであるともいえる。

2007年11月15日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (22)

まだまだ「」と「」の続き。

「赤」をキーとしてみた場合、それが出現するのが基本的に(Mr.Kを含めた)「Rabbits」関連のシークエンスであること、つまり「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語上の要請」に関連するシークエンスにおいてであることは、すでに指摘したとおり。では、それは実際の映像において具体的にどのように表れているかを、「Rabbitsの部屋」における「赤」の出現シーンに沿ってもちっと詳細にみることにする。

「Rabbitsの部屋」そのものに「赤」のモチーフが現われるのは2回にわたるが、まず最初シーン。提示される映像をト書き風に置換すると、以下のようになる。

・「Rabbits」の部屋(1:20:12)
Jane rabbitが長椅子の向かって右側に座っている。

突然、照明が赤色に変わる。焼け焦げの穴(シガレット・バーン)*が画面の右上に現れる。

Suzie rabbitが部屋の奥から姿を現す。両手に電灯を持ち、頭上で振っている。

Suzie rabbitが電灯を振るにつれて、部屋の照明が通常の色に戻る。同時にSuzie rabbitの姿が消えていき、かわりにJack rabbitの姿がその横に現われ始める。しかし、部屋の照明は再び赤色になっていき、Suzie rabbitの姿が現れるとともにJack rabbitが消える。

ここで映像的に提示されているイメージは、ウサギたちによる(特にスージー・ラビットによる)コントロールである。このウサギたちが「物語上の展開」に関連しているという視点に立つなら、このコントロールを受ける対象が「物語」であることは言うまでもない**。ここでウサギたちに問われているのは、急激な展開を要請している「物語」への対応であり、それに対するコントロールということになる。

そのコントロールのためにウサギたちがとった対応策が、「Mr.Kのオフィス」として表わされるものだ。それは「Rabbitsの部屋」の直後にインサートされる「Mr.Kのオフィスの内部に立つジャック・ラビット」(1:20:49)のカットによって明示されている。それに続くシークエンスでは、準備が整ったこの「物語展開の場=Mr.Kのオフィス」に向かって、スーが「死ぬほど上らなければならない階段」をのぼっていくわけだが、彼女をそこに誘うのは(のちにより詳細に描かれる)「クラブの裏手の赤いカーテンの通路」と「スーの後姿に向かって振られる赤いドレスの腕」といった、「赤のモチーフ」だ。こんな具合に、ウサギたちのコントロールによってスクリュードライバーという「悪意」を携えたスーとMr.Kの「対話(といってよければ)」が始まり、この局面の「物語」は効率性を優先しつつ展開されていく。

……という具合に「Rabbitsの部屋」から始まる一連のシークエンスを捉える限り、「インランド・エンパイア」において「赤」のモチーフがどのような機能を果たしているかは明らかだ。と同時に、ここでリンチが提示している「イメージ連鎖の論理」も、また明瞭であるように思える。

(まだ続くんだわ、これがまた)

*「シガレット・バーン(Cigarette Burn)」というのは、映画の画面の右上に時折現れる「ドット」のことである。文字通り、煙草の焼け焦げに形状が似ていることから、こう呼ばれる。通常、長編映画のフィルムは何巻かにわかれており、映画館では2台の映写機を交互に使って切れ目なく上映される方式になっている。そして、この「ドット」は映写機交換の合図として使われるものだ。ご丁寧なことに、この「Rabbitsの部屋」のシーンに現われる「シガレット・バーン」が、文字どおり焔を上げて燃えているのが面白い。また「シルクの布に煙草の火で穴を開ける」行為自体が、この「シガレット・バーン」という名称を踏まえてのことであるのは明白だ。

**「映画」そのものがそうである限り、そこで語られる「物語」もまた自律しつつコントロールを受ける「動物」の範疇に入るだろう。

2007年11月14日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (21)

」と「」の続き。

こうした受容者・演技者・登場人物の「心理状態」の反映としての「青」は、「スミシーの家」の内部における「青」と「赤」の出現シーンにおいて端的に表れている。

もっともキーになるであろうと思われるのは、「スミシーの家」にスーが初めて足を踏み入れた直後、ベッドで就寝しようとするピオトルケを目にした後に続くシークエンスだ(1:07:59-1:12:43)。夫の抽象概念=ピオトルケを発端として、スーがロコモーション・ガールたちを幻視した後、ポーランドの「ストリート」へと誘われる一連のシークエンスである。このシークエンスが登場人物=スーの(ひいては彼女に「同一化」している演技者=ニッキーと受容者=ロスト・ガールの)心理状態の変遷であることは、以前にも述べたとおりだが、ここでは対置されるものとしての「青」と「赤」をキーにして、もう少し詳細にみてみよう。

就寝したピオトルケを観た(幻視した?)あと、誰も居ないリビング・ルームのカットを経て、スーはリビング・ルームの隣の小部屋に入る。このカットにおいてすでにこの小部屋の内部が赤い光によって照らされているのが確認できる。光源はその部屋にある赤いシェードの電気スタンドである。「撮影現場におけるビリー」のインサート・カットをディゾルヴで挟みつつ、この赤い電気スタンドは明滅する。このシークエンスはスーのアップのカットと交互に提示され、赤い電気スタンドのカットはスーの主観ショットであることも同時に提示されている。一段と光量を増した赤い電気スタンドのカットとそれに伴うクラック・ノイズのあと、映像は青い裸電球のアップへと切り替わる。そのままカメラが引かれると、そこには「ロコモーション・ガールたち」がたむろしている部屋だ。この「ロコモーション・ガール」たちとの始めての邂逅を経て、スーはポーランドの「ストリート」へと誘われていく……。

この「赤」から「青」への推移は、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」というナラティヴな作品が持つ「物語展開と心理展開の連動性」を表わしている……とここでは捉えておきたい。つまり、「物語上のエスカレーション」が「心理上のエスカレーション」に置き換わる瞬間である。そして、もちろん、そうした「置換」を喚起するのは「映画=世界」自体であり、「置換」そのものが発生するのは「スミシーの家」によって表わされる「人間の内面」においてだ。

だが、この「推移」あるいは「置換」は双方向性だ。「物語上のエスカレーション」が次の「物語上のエスカレーション」を連鎖的に喚起するように、「心理的エスカレーション」は次の「心理的エスカレーション」を喚起する。「物語」と「心理」が連動している限り、ある「物語上のエスカレーション」は次の「心理的エスカレーション」を喚起し、ある「心理的エスカレーション」は次の「物語上のエスカレーション」を喚起することになる。

「色」の問題からちょっと離れて、こうした「心理的エスカレーション」と「物語上のエスカレーション」の二つが、互いに互いを喚起してることを表わしていると思われるシークエンスを拾い出してみよう。

発端は「ピオトルケに妊娠を告げるスー」(1:29:26)のシークエンスである。ピオトルケの冷たい反応は、暗い部屋で輪になって踊る「ロコモーション・ガール=心理的エスカレーション」のカットを喚起する(1:31:16)。「スミシーの家」のベッドルームにおける「ピオトルケとスーの同衾」のカットを経て、スーがベッドを抜け出しリビングルームでビリーに電話を架けるシークエンスへとつながる。しかし、この架電は「Rabbitsの部屋=物語上のエスカレーション」にある電話につながり、ジャック・ラビットによって受け取られる。つまり、ここでは「心理的エスカレーション」が「物語上のエスカレーション」を呼び出し、その展開を進めることを喚起し要請している。

そして、その「要請」は応じられる。「Rabbitsの部屋」に通じる電話のシーンは、「シルクの布に開けれた穴」をを覗く主観ショットをはさんで、最終的に「Mr.Kのオフィス」におけるスーの「告白タイム」という効率性の高い「物語展開」のシークエンスへとつながっていく。「心理的エスカレーション」による「物語上のエスカレーション」への要請は、聞き届けられたのだ。

(この項、もうちょい続く)

2007年11月12日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (20)

んでもって、「」と「」である。

「インランド・エンパイア」に限らず、「ブルーベルベット」「マルホランド・ドライブ」「ツイン・ピークス」等々、この2種の色はリンチのカラー作品に頻繁に登場する。「機能しない家族」等と並んで、ある意味でリンチがずっと追い続けてきた、いわば根源的なモチーフのひとつであるといっても過言ではないだろう。それだけに、簡単な「言語による置き換え」を許さない部分であるのもまた確かだ。

たとえば「マルホランド・ドライブ」におけるブルー・キーとブルー・ボックスの扱いに関する限り、「青」という色は「異質さ」そして「そこに属さないもの」を表わすものとして、(そのテクスチャーと並んで)使われているようにみえる。それに対し、「ブルーベルベット」における「青いベルベット」は、(これまたテクスチャーとともに)父性と母性の関係性を成立させるものとして表れているのは明らかだ。「ツイン・ピークス」に表れる「赤いカーテン」というモチーフも、そのテクスチャーや揺れ動く「存在形態」とともに、「人間の内面」のある種の表出として捉えられるべきものなのだろう。

このように個別の作品における「色」の機能はある程度読み取れるものの、では作品間をまたいで共有されるものが明瞭にみえてくるかといわれると、なかなかそうではない。これらの色に関して、おそらくリンチのなかでは何か「根源となるイメージ」が確固として存在するに違いないと思われるのだが、それは非常に根源的なものであるがゆえに強度に抽象的であり、作品内における「解釈」の先にもうひとつ抽象化のステップがあるのではないだろうか。

さて、てな前置きを経て(笑)、「インランド・エンパイア」において興味深いのは、この「青」と「赤」が対置されるものとして表れていることだ。たとえば「Hollywood - Vine」の交差点での赤信号と青信号(2:24:11)、いずこかの映画館内部における赤い座席とそこにスーが放置した青い上着等々……だが、もっともそれが明確に現れているのは「スミシーの家」の内部においてだ。この家の内部には「青い光の部屋」と「赤い光の部屋」が並存している。角で隣り合った二つ部屋の内部から漏れ出る光が、それぞれ「青」と「赤」であるカットによって、それは明確に提示されている(1:14:23)。

いままでみてきた範囲で、「インランド・エンパイア」に登場する「対置される概念」としてまず挙げられるのは、「心理展開の要請」と「物語展開の要請」だ。この視点に沿ったとき、「青」が「心理展開」に対応し「赤」が「物語展開」に対応するという見方が、とりあえずの説得性をもって成り立つ。なぜなら、「青」は基本的に「心理展開の要請」に帰属する「ロコモーション・ガール」のシーンに関連して表れているのに対し、「赤」に関しては基本的に「物語展開の要請」に帰属する(Mr.Kを含む)「Rabbits」のシーンに関連して表れているからだ。

この「青」のトーンは、「ニッキー=スーとデヴォン=ビリーの混乱した情事」のシークエンス(0:56:20)、そして「ピオトルケとスーの同衾」のカット(1:15:250)にも適用されている。「ストリート」へとつながっていく登場人物=スーの心理状態の反映として、また「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という作品の「心理展開の要請」そのものの反映として、あるいはそれに応じた演技者=ニッキーおよび受容者=ロスト・ガールの心理状態の反映として、「インランド・エンパイア」の「青」はまずは捉えられるべきものではないだろうか。

(この「落穂」でもって続く)

2007年11月 5日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (19)

さて、次の落穂に行ってみよう(笑)。

「インランド・エンパイア」に登場する女性たちは、何度も何度も自分たちのアイデンティティを確認しようとする。自分はどこにいるのか、あなたは誰なのか、彼女は誰なのか、私(たち)を以前から見知っているか。繰り返し問いかける彼女たちは、自分たちが見当識を失っていることに恐怖する。なぜ、彼女たちは、自分たちのことを問いかけ、確認しようとするのか?

単純に考えると、これらの問いかけは「感情移入=同一化」の結果による「自己の喪失」あるいは「自己の変容」、端的にいうと「演技者=ニッキー」および「受容者=ロスト・ガール」による「登場人物=スー」とのアイデンティティの混濁を描いているかのようにみえる。それはたとえば、自宅の裏庭でスーが(1:37:21)、あるいはポーランドの「ストリート」でロスト・ガールがそれぞれロコモーション・ガールの二人に(2:11:22)「私を見て。私を前から知っているか教えて(Hey, look at me... and tell me if you've known me before.)」と問いかけるシークエンスに明らかだ。これは、ニッキーがデヴォンに対して繰り返し懇願する「私を見て(look at me)」という言葉(0:59:21)の、スーおよびロスト・ガールによる再現である。自分が自分に対して抱いているアイデンティティは正しいのか、彼女たちは他者が自分を何者であるとみなしているのかを通じて確認しようとする。

「インランド・エンパイア」が「映画についての映画」である以上、確かにそうした捉え方がひとつの核となるのは間違いない。しかし、こうした女性たちの度重なる「自己確認作業」に対し、「インランド・エンパイア」はたったひとつの回答を用意する。それはスーの「私は娼婦よ(I'm whore)」(2:07:37)という呟きだ。この呟きがもたらされた瞬間、「映画についての映画」というテーマは「機能しない家族」というもうひとつのテーマと完全に融合し、「インランド・エンパイア」という作品として一体化する。

この叫びに続く「ここはどこ? 怖いわ(Where am I? I'm afraid!)」というスーの台詞は、そのまま作品冒頭の「顔のない女性」が発する台詞(0:02:55)の再現だが、そのニュアンスはまるで違う。スーは自分(および他の女性)が「娼婦」であることを知っているし、自分(および他の女性)が「ストリート」(によって表される場所)にいることを知っている。そして、最終的にこの作品に登場する演技者・受容者を含めた女性たち全員が、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という作品に感情移入することによって、スーの呟きを確認し共有する。彼女たちの「自己確認」はこうして完了する。

こうした見方もまた、「インランド・エンパイア」のひとつの捉え方であるはずだ。

(さて、次の落穂はどれだ?)

2007年11月 3日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (18)

「動物」が表わすものについての続き。

さて、「映画」が内包するもので「自律性を有し、かつより上位のもののコントロールを受ける存在」とはなにか……と見まわしてみると、実はそういうもので満ち溢れていることに気づく。そしてそれは、「映画」が産業であり商品である限りにおいて、基本的に複合的なものだ。

なによりもリンチ自身が、プロデューサー制のもとでは映画監督である自分も「自律性を有し、かつコントロールを受ける存在」であることを自覚している。「砂の惑星」製作時の経験はともかく、「ロスト・ハイウェイ」のメイキング映像ともいえる「ナイト・ピープル」(1997)に登場する、プロデューサーであるディーパック・ナヤールが行う製作作業に対するコントロールの実例は、リンチが実際に置かれている状況を如実に表すものだろう。「ファイナル・カット」の権限の有無にかかわらず、映画制作上の権限分担が機能しているかぎり、映画監督もまた「動物」にならざるを得ない。そこからの(部分的にであるにせよ)逸脱を目指したのが「インランド・エンパイア」であったのかもしれないが、であるならば余計に、この作品内でリンチが「動物」という概念で表されるものに触れたことの意味合いは明快であるといえるのかもしれない。

一方で、たとえば「物語上のエスカレーション」や「感情のエスカレーション」などに置換される、作品としてのコントロールの部分がある。ハリウッドがもっとも気をつかい、そのコントロールにつとめてきた部分でもあり、そのためのマーケット・リサーチを含め、ハリウッド映画が「商品としての汎世界性」を獲得するために払っている労力は並大抵ではない。その実現手段として「空間や時間のコントロール」や「美術や照明のコントロール」、あるいは「音響のコントロール」「編集のコントロール」といった具体的作業を必要とするが、それはそれぞれ自律的でありながら、最終的には「感情移入」や「同一化」の喚起という最終目的のために「使われる」ものであるともいえる。当然ながら、そうした各種の具体的製作作業上のコントロールは、(演技者を含めた)作業を分担する各パーソネルへのコントロールを通じて行われるものだ。

いずれにせよ、「映画」におけるコントロールの問題は、複合的なものにならざるを得ない。リンチがナヤールの作業を評していう「金と時間と人間によるパズル」である。そしてそのコントロールが失敗したとき、映画は「叫び声をあげながら、そこらじゅうに糞を撒き散らす猿(This monkey shit everywhere. This monkey can scream)」と化すのだ。

だがしかし、と思い当たる。「映画=世界」によって「同一化」を(なかば強制的に)誘われる我々「受容者」も「自律性を有し、かつコントロールを受ける存在」、すなわち「動物」であるのではないだろうか? 「演技者」個人にまで「感情移入」し、「ハリウッド伝説」をマスコミのコントロール下で共有する我々もまた? であるならば、浮浪者2による「動物」に関する言及が「スーが死に至る映像」に被され、裏切られることを予見しつつスーに「同一化」を余儀なくされている我々に向ってなされるのは、まさか偶然ではあるまい。

(とりあえず、「動物」の落穂はおしまい)

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