フォト
2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (6) | トップページ | 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (8) »

2007年10月13日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (7)

うむ、我ながら見事にダラダラと続くな。まあ、メモ書きみたいなもんなので(笑)。

いずれにせよ、このようにみていく限りで、「インランド・エンパイア」が備える混乱の本質は「5つの世界」の存在などにあるわけではないことがわかる。映像文法はこうした世界などいくつあろうが問題なく整理して我々に伝えることが可能だし、実際リンチも差異を伝える必要がある世界のシークエンスについては、明確にそれが把握できるような処理をしている(逆にいえば、差異を伝える意図がない、あるいは混乱を意図したシークエンスについてはそういう処理をしていないということだが。これもリンチが「無自覚」ではないという証左か?)。

我々が本当に混乱するのは、誰に感情移入し同一化すればいいのか、誰の視線に頼ればいいのか、誰をキーにして「インランド・エンパイア」という「世界=映画」に没入すればいいのか……そういった部分であり、ひいては作品全体を見通す「統一した視点」を容易に持てないことにある。そうした視点さえ持てれば、世界がいくつ存在しようが我々は混乱しない。

再三述べたように、「スーの視点」が必ず裏切られることは、誰の目にも明らかだ。また、「演技者による(作品内)現実と(作品内)非現実の混乱」という単純な捉え方でよいのであれば、スーの視点を内包した「ニッキーの視点」によってすべて回収されていくはずなのだが、「インランド・エンパイア」はそれも許さない。それでは(ポーランド・サイドを含めた)ロスト・ガールが関係するシークエンスが取りこぼされるからだ。

その混乱の果てに、我々はこの作品が「(作品内)現実と(作品内)非現実の混同」という捉え方では回収できないこと、つまり「演技者(ニッキー)=登場人物(スー)」というネスティングでは収まりきらないことに気づく。そして、作品を統一して観られる「視点」を持った登場人物を捜索した挙句に、一般的受容者の抽象概念であるロスト・ガールに行き着く。それは「ニッキー=スー」のネスティングを外から包む、もうひとつのネスティングだ。困ったことに、ロスト・ガールは抽象概念であるがゆえに、そのプロフィールはニッキーやスー以上に明確にされていないのだが。

しかし、いったんそこまでたどり着いたなら、我々は今度は映画の「外」に存在する「最終的なネスティング」を、すなわち彼女たちの「視点」すべてを統合する、一個の受容者としての「自らの視点」を意識せざるを得なくなるはずだ。この作品は「映画についての映画」ではあるが、それはイコール「映画を作ることについての映画」ということではない。そこには「映画を観ることの映画」であるという意味合いも同時に含まれている、ということだ。

« 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (6) | トップページ | 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (8) »

インランド・エンパイア」カテゴリの記事

「インランド・エンパイア」を観た(X回目)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (7):

« 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (6) | トップページ | 「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (8) »

最近のトラックバック