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2007年10月11日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (6)

思いつくまま、テキトーな感じで続く(笑)。

といいながら、リンチがハリウッドの編集術に関して無自覚であるかどうか、「インランド・エンパイア」を観て疑問に思えてきたことも確かだ。そういう意味で、やはり「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」とは違った領域の作品であるのかもしれない。

たとえば、前項で述べたように、我々がスーに感情移入してこの作品を観ていく限り、その「同一化」は必ず裏切られることになる。だが、我々はすでに作品の「前半」において、「(作品内)現実だと思ってたら撮影風景だった」という形で、「登場人物に対する同一化への裏切り」を何度もわかりやすく「予告」されてはいなかっただろうか?

なるほど、ストレートに受け取れば、当該するシークエンスは「演技者であるニッキーの混乱がエスカレートする様子」を描いているように見える。しかし、同時にこれは、古典的な意味で登場人物に全面的に感情移入し、彼(彼女)の目を直ちに自分たちの目とすることは、この作品では叶わない……そういう親切な「予告」とも読めなくはないか?

にもかかわらず、我々は作品「後半」の「ハリウッド大通りにおけるスーの死」に至るシークエンスにおいて、いやがおうもなくスーに対する感情移入を迫られ、そして半ばお約束どおり彼女の死が「フェイク」であることによって裏切られる。しかし、ここで主眼となっているのはナラティヴな意味における「裏切られること=どんでん返し」ではないし、「(作品内)現実と(作品内)非現実の混同」などといった映像的クリシェの問題でもないはずだ。そうなのであれば、その後の約30分弱にわたる「ファントムの崩壊」や「スミシー一家の邂逅」を含むシークエンスなど、ほとんど必要ない。

主眼となっているのは、その前段階の、いやおうなく誘われた我々の「感情移入」の部分だ。スーに感情移入したところでカタルシスなど得られないことを予告されながら、なおもスーに「感情移入」し「同一化」してしまう我々受容者側の問題、そしてそれをもたらす「映画」というメディアの問題、リンチのいう「映画の魔法」の問題なのだ。我々は、ごく当然のように享受しているこのようなものの存在に、裏切られることで気づく。

もしこの捉え方が成立するならば、リンチはハリウッドの編集術について、(批判的ではないにせよ)「自覚」していることになる。映画における「感情移入」や「同一化」の問題をその「破壊」をもって描く……それもご丁寧に「予告」までつけて。これが自覚的でなくてなんだろうか? てなわけで、少なくとも「インランド・エンパイア」に関する限り、その映像特性について見直しを迫られている可能性も無視できないでいる今日この頃だったりするのだった。

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