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2007年10月 8日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (5)

のたのたと続いたりなんかして(笑)。

ここで「インランド・エンパイア」における「主観ショット」の問題として改めて(棚から下ろして)指摘しておきたいのは、ロコモーション・ガールたちが登場するシーンがスーの「幻視」であること、言い換えればスー自身の「内面」を自らの目で見ているものだということだ。

これは比喩などではなく、たとえばロコモーション・ガールたちが「ロコモーション」を踊るシーンにおいて、映像として明示されている。このシーンにおいて、実はスーとロコモーション・ガールたちは同じ部屋にいない。ロコモーション・ガールたちがリビング・ルームにいるのに対し、スーがいるのはその隣の小部屋(シルクの布に煙草の火で穴を開けていた部屋)である。このことは、スーが座っている戸口近くに当たる陽光の位置などを見れば明かだ。つまり、ロコモーション・ガールたちの「客観ショット」と見えるカットは、実質はすべてスーの「主観ショット」なのである。

この「スミシーの家」内部におけるロコモーション・ガールたちのシーンは、リンチ作品における「主観ショット」と「客観ショット」の問題を、端的にわかりやすく表わすものだ(今回カウントした「主観ショット」にはこのロコモーション・ガールたちのカットは含めていない)。要するに、リンチ作品においては「主観ショット」と「客観ショット」の実質的な区別がない。あるのは、リンチが抱くイメージを映像として翻訳する際に、「どこから撮るか」という「単なる位置の差異」だけだ。これはロコモーション・ガールの例と違って、たとえ映像として明示されていなくても同じことである。

そこには本来の意味での「主観ショット」の機能は存在しない。リンチの「主観ショット」は「客観ショット」との比較において、優越して登場人物の感情を代弁しないし、彼(彼女)への観客の感情移入を喚起したり同一化を促進したりしない。より正確にいうなら、「主観ショット」と同じ機能が「客観ショット」にも備わっていると想定し、「客観ショット」を「主観ショット」に置き換えて観る必要がある。でないと、リンチ作品は永遠に意味不明で理解不能のままで終わるはずだ。

たとえリンチ作品における主観ショットの「出現パターン」が通常のナラティヴな作品と同一であろうと、それはナラティヴな作品における主観ショットの「出現パターン」と同じ意味合いにおいてではない。後者のパターンに沿ってスーに観客が感情移入していったとしても、それでは作品を統一する連続した感情移入や同一化は得られない。得られるのは断続的なスーの「感情」の断片だけだ。

もしかしたら問題は、リンチがハリウッドの編集術の破壊や無視に向うのではなく、むしろそれを無批判に(あるいは無自覚に)援用していることにあるのかもしれない。が、それもまたリンチ作品の映像特性のひとつであるのは間違いないと思う。

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