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2007年10月 4日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (4)

前項の続き。

そして、ベッドでやすむピオトルケをスーが「見る」シーンに続いて提示されるのが、「スミシーの家」の小部屋でロコモーション・ガールたちをスーが「見る」シーンである。この二つのシーンが「原因」と「結果」であることは、このシークエンスによって明らかだ。こうした「原因」と「結果」の関係、つまり「トラブル」と「それによってもたらされる心理」の関係は、形を変えてこの後も繰り返し提示されている。

加えて、これに続くシークエンスで、ロコモーション・ガールたちはスーをそのままポーランドの夜のストリートまで誘う。この「スミシーの家」→「ロコモーション・ガール」→「夜のストリート」という図式は、「インランド・エンパイア」におけるスーの(ひいては彼女と同一化しているニッキーやロスト・ガールの)心理的経緯の描写として作品全体を貫くものだ。登場人物が抱く心理状態の経緯を、ストーリー展開と連動させてナラティヴに描くのでなく、こうした「映像イメージの連鎖」で提示するのがリンチ作品である。

余談になるが、リンチ作品を構成するこうした「映像イメージの連鎖」という観点で見たとき、「美術手帳 2007年10月号」で町山智浩氏が述べているような、ロスト・ガールによる「サンセット大通り」(というか「クィーン・ケリー」)からの台詞の引用における「邪悪な夢(wicked dream)とはハリウッドの夢のことである」とするのは、あまりに一面的過ぎるように感じられる。このロスト・ガールのインサート・カットが、実際にどのような映像イメージの連鎖のなかで用いられているかを、完全に無視することはできないはずだからだ。

ロスト・ガールがこの台詞を述べるカットは、裏庭でのパーティでピオトルケが自分の腹部にケチャップをぶちまけた直後のシークエンスに挿入されているものである。彼のTシャツについたケチャップが血を連想させ、ひいては腹部をスクリュードライヴァーで刺されて血を流すロスト・ガールをはじめとする女性たちを想起させるが故に、このインサート・カットが現れているのは明白であるように思える……というよりなにより、この「クィーン・ケリー引用」のカットに続いて作品内で提示されるのが、ロスト・ガール(@ポーランド)がスクリュードライヴァーで腹部を刺されるシークエンスであるのは、どうにも動かしようのない事実だ。

そのコンテキストのなかで実際の映像に則して捉えるなら、「邪悪な夢」もまた、「トラブル」や「機能しない家族」がスーたち女性にもたらす「心理的経緯」を指すと捉えるのが、まずは優先されるべき解釈ではないだろうか? 女性たちの抱えるスクリュードライヴァーで刺されたような「心理的な痛み」、そしてその一方で夫の流す「血」はケチャップという「フェイク」であるという対比……こうした映像自体が表現主義的な発想に基づくものであり、リンチ流の「心理描写」であることを見逃してはならないと思う。

作品解釈の根拠として、「クィーン・ケリー」頓挫の経緯などといシネ・フィル的なサブ・テキストが優先されているのだとしたら、それはそれでちょっと違うような気がする今日この頃……などというようなことを自戒をこめつつ呟き、横道はおしまい(笑)。

(長くなったんで、いったん続く)

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