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2007年10月 2日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (3)

えー、んでは、前項の続き。

「インランド・エンパイア」の「中盤(1:00:00~2:00:00)」の時間帯において使用されている主観ショットをば、詳細にみてみる。

実は、タイムスタンプで1:00:00あたりというのは、一回目の「Axxon N.」の出現シーンにあたる。買い出した食料品の袋を抱えたスーが、裏通りに止めて置いた自動車のところに戻ってきて、傍らの建物の扉に書かれた「Axxon N.」の文字を見つけるシーンである。

このあと、スーが「ステージ4」におけるニッキーたちのリハーサルを垣間見た後、「スミシーの家」に迷い込むシークエンスが続くわけだが、スーの主観ショットが急激に増えるのは、この一連のシークエンスからだ。ただし、通常の(ナラティヴなと言い換えてもいい)映画作品のような意味合いで、この主観ショットがスーに対する受容者の「感情移入」に寄与しているか……となると、かなり様相が違う。

だいたい、スーがどのような「人物」であるか、それまでのシークエンスで明示されているかというと、まったくそんなことはない。提示されているのはごく断片的な、それもニッキーの演技を通じての「スーという人物像」に過ぎない。「ビリーと不倫関係にある」という(作品内作品内の)事実は把握できるにしても、そこに至るまでの「心理的経緯」などは完全に欠落している。当然ながら、そうした「経緯を提示すること」こそが「ナラティヴを成立させること」に他ならず、そのような方向には向かわないのがリンチ作品だ。

むしろ「前半」で強く提示されているのは、前項でも触れた「ピオトルケの視線」であるように思える。「夫としての総体=抽象概念」であるピオトルケは、階段からニッキーが役を得た瞬間を覗き見し、「撮影カメラの代役」として情事を監視する。こうしたピオトルケの視線の描かれ方自体が、ニッキーの、あるいは「妻としての総体=抽象概念」であるスーの心理を表象しているのだ。

この「ピオトルケの視線は「中盤」においても、「スミシーの家」に迷い込む直前のステージ4におけるシークエンスで、あるいは「スミシーの家」の廊下で、繰り返し登場する。特に前者の「ピオトルケの視線」はスーの主観ショットとして強烈に描かれ、彼女を戦慄させるとともに「スミシーの家」のなかに追い込む。「スミシーの家」が(スーやロスト・ガールを含めた)彼女たちの「内面」そのものであることを考えると、これは非常に象徴的なシーンとも読めはしないか。

そして、「スミシーの家」に入ったスーの視点をとおしてまず受容者が目にするものは、映画のセットであったはずの「スミシーの家」が現実のものに変貌するシークエンスだ。ある意味、わかりやすく「内面」が「外界」に成り代わる瞬間である。「混乱するスー」の主観ショットによって受容者である我々も混乱するが、この混乱は長くは続かない。それに続くスーの主観ショットによって、我々は「スミシーの家」の内奥へと導かれ、薄暗い廊下を通ってベッド・ルームへと至る。そこでも多用されるスーの主観ショットの先に居るのは、ベッドに一人横たわりライト・スタンドを消すピオトルケの姿であるからだ。

「外界」に成り代わった「内面」を舞台に、リンチはなんら躊躇うことなく、一挙に「機能しない家族」の核心に、あるいはピオトルケ(という夫の抽象概念)との関係という「トラブル」の核心にたどり着く……なんらナラティヴな手順を追うことなく、しかし、スーの「目」を使って、ダイレクトに。

(この項、もう一回くらい続く?)

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