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2007年10月19日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (10)

うーん、「インランド・エンパイア」ネタでこんなに引っ張るとは、自分でも思わなかったな(笑)。とりあえず続き。

そして、演技者=ニッキーの心理的エスカレーションに向かって機能し、彼女のスーに対する「感情移入=同一化」を働きかけるのが「ロコモーション・ガール」たちだ。ファントムが「映画=作品」を通じてロスト・ガールの心理=内面に侵入したのと対照的に、彼女たちがニッキーの中に内包されている(いた)ものであるのは前にも述べたとおりだ。また、ニッキーがスーとの同一化の過程で、ロコモーション・ガールたちによって「ストリート」に導かれるのも前述のとおりである。

ニッキーやロスト・ガールの「感情移入=同一化」が深まり、彼女たちの内面に「共有」あるいは「通底」した領域ができあがった結果、ファントムとロコモーション・ガールたちは、ニッキーとロスト・ガールの領域を自由に行き来することになる。ロコモーション・ガールたちはポーランド・サイドの「ストリート」に現われ、そこに立つロスト・ガールを「魅了」する(2:11:34)。逆に、ファントムはクリンプという族(やから)*として、スー=ニッキーの住処である「スミシーの家」の隣家に住まうのだ(2:00:14)。

さて、ファントムやロコモーション・ガールたちに対置するものとして、物語上のエスカレーションに対して介在するのが「(老人たちやMr.Kを含む)ウサギたち」である。このことを端的に表わしているのが、ファントムを倒す「ピストル」**が老人の一人(その直後、彼はジェーン・ラビットに変貌する)によってもたらされる映像だ(2:03:44)。

「世界=映画」はどこかで終わりを迎える。基本的にそれは「物語に関連する諸事情」の要請によるものであり、当然ながら「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」もその例外ではない。だが、同時にそれが、受容者・演技者の登場人物に対する「感情移入=同一化」の切断を、つまりは「映画の魔法」の終結をも意味することは言うまでもないだろう。「映画=世界」を通じて入り込んだファントムは、自分が「観られる者」であることを自覚したニッキー=スーが放つ「物語展開の要請=ピストル」の銃弾によって倒されなければならないし(2:44:42)、ニッキーの裡なるものであるロコモーション・ガールたちも、いつかは解放されるべく予定づけられている(2:47:11)。

また、断続的に差し挟まれる、Mr.Kを相手にしたスーの「人生相談」あるいは「自分語り」そのものが、効率のよい「物語の進展」でなくてなんだろう。物語記述の方法論としては上等ではないのかもしれないが、「映画=世界」では往々にしてこうした物語の効率性が求められる。以前にも述べたように、「映画=世界」には「時間的制約=時間コントロール」という命題がつきまとうからだ。そうした「制限」のなかで「物語」が効率を要求される場合があるという意味で、それも「物語展開の要請」の一面といえるのではないだろうか。

そう考えるとき、なぜ物語に介在するのが「ウサギたち」であるのかに思いが至る。シットコムのフォーマットを踏襲した「テレビ番組」の表象である「Rabbits」が、「物語の進展・効率・終結に対する要請」を行う……30分とか1時間とかの時間枠に縛られるだけでなく、シーズンという枠で番組自体の放映期間までも縛られる(その期間自体が「視聴率」というのものによって伸縮する)「ウサギたち」にとって、それは当然の行為なのではないだろうか? そして、それはリンチ自身が自分の声として、「ツインピークス」や「オン・ジ・エアー」や「マルホランド・ドライブ」での体験に基づいて、嫌悪をもって語っていることではないか?

(まだ続くのだな、これが)

*ファントム=クリンプについてだが、Mr.Kのオフィスにおけるスーの発言(1:59:27)によると「彼らはクリンプと呼ばれていた(They was called "Krimp".)」らしい。であるならば、「クリンプ」はファントム個人の別名というよりも、「彼が属するもの」の名称であることになる。

**「ピストル」が、まず、ファントムに去られた後の「夫の抽象概念=ピオトルケ」の手に渡ること、そして彼がそれを受け取る契機がロスト・ガールという「妻=女性」の嗚咽を耳にしたこと(姿は見えなくても)であることは見逃せない。ピオトルケが「妻の抽象概念=スー」に対する自身の行為の「結果(consequence)」を知り、自分を「使役する者」が誰であるかを知ったとき(The one I work for.)、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語」は終結に向かう準備を始める。老人の一人がつぶやくように、「馬は井戸まで連れてこられた(The horse was taken to the well)」のだ。

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