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2007年10月

2007年10月31日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (17)

落穂拾いの続き。

「インランド・エンパイア」において、何度か台詞として言及される「動物(animals)」について。作品内で具体的にこの言葉が語られるのは以下の三箇所だ。

・助監督フレディの発言(0:39:27)
Freddie: I like dogs. I used to raise rabbits. I've always loved animals...their nature...how they think. I have seen dogs reason their way out problems, watched them think through the trickiest situations.

・ピオトルケの発言(1:45:22)
Sue: (混乱して) What's that got to do with you?
Piotrek: I will take care for the animals.
Piotrek: (一瞬、目を伏せたあと、はにかみながら) It was said that I have a way with animals.(微笑む)

・浮浪者2の発言(2:28:59)
Street Person#2: This monkey can scream... it scream like it in a horror movie. (Street Person#3を振り返る)
Street Person#2: But there are those who are good with animals... who have a way with animals...

助監督、夫、浮浪者によってそれぞれ語られる、この「動物」とはなんだろうか? 例によって、ここも「インランド・エンパイア」が「映画についての映画」であるという視点を優先して、みてみたい。

まず、これに関連した映像的提示と思われるのは、ピオトルケが白馬の傍らに立っているカットである(1:46:41)。そして、その映像にオーバーラップしてスーがMr.Kに向かって語るのは、ファントムが人々に対して何を行うかだ。

Sue: He'd start talking...
Sue: you know, real regular... talking up the crowd. They'd start listening, pushing in closer.
Sue: He did done sort of thing on people.
Sue: They all called him The Phantom.

このシーンと、「老人」による「馬は井戸まで連れてこられた(The horse was taken to the well)」という発言、そしてその直前の老人たちとピオトルケの会話----

Oldman#2: (Piotrekの方を向いて) You work for someone?
Piotrek: (Lost Girlの方からOld man#2の方を向いて) No.
Oldman#2: (Piotrekを見つつ) This is the one who she spoke of.
Piotrek: The one I work for.
Oldman#2: So... you understand.

----これらをすべてあわせて捉えたとき、この「動物」が表すであろうものの一端がうっすらとみえてくる。

まず、フレディの発言からイメージとして浮かぶのは、ここでいわれている「動物」が(少なくともその一部が)、「自律的に問題解決を行う存在」であるということだ。その一方で、ピオトルケや浮浪者2が言うように「扱われる対象」、つまり「コントロールを受ける対象」でもある。このあたりはむしろ、「ある程度の自律性を有しているが、より上位のものからコントロールを受ける存在」という概念から、実際にそれにあてはまる「動物」というイメージがリンチのなかで(意識的にせよ無意識にせよ)喚起されている……と逆方向から捉えたほうがいいのかもしれない。

ロスト・ガールの感情を揺さぶり彼女を泣かせていたものが「映画の魔(法)=ファントム」であるかぎりにおいて、ピオトルケがファントムによって「使われていた(work for)」こと、つまり「コントロールを受けていたこと」は明らかだ。ロスト・ガールの局面において彼女が「ストリート」に至る起因となるものがファントムであったように、スーの局面においてその起因がピオトルケであったことを思いだしてみよう。「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」において、夫の抽象概念であるピオトルケは、ファントムが機能する「感情のエスカレーション」のための「心理的要請」に応えるために「使われている」。

「ピオトルケと白馬」のカットが、これを補完する。このカットが映像的に提示するように、ピオトルケと白馬という「動物」は「並列/並立」しており、いわば「等価」である。つまり、「動物を扱うのがうまいといわれている(It was said that I have a way with animals.)」といわれ、サーカスで「使役される」動物の世話をするためにその一員となったはずのピオトルケ自身が、実は「使役され、コントロールを受ける対象」でもあったということだ。同時に、このシークエンスにおいてずっと流れるスーの「告白」が、この映像的補完を一層強化する。当然ながらその場にいるピオトルケもまた、「ファントムは人々に対して何かをする(He did done sort of thing on people.)」というスーの言葉にある「人々」に該当する者なのだから。ファントムが何をするのかを思うとき、やはり「コントロール」という概念を思い浮かべざるを得ない。

しかし、リンチが提示するものは常に「複合的」であり、ここに表れる「動物」という概念も、「単語/言語」との単純な置き換えを許さない。「動物」が「ある程度の自律性を有しているが、より上位のものからコントロールを受ける存在」であるとしても、さて、「映画」に関係するものに、どれだけそれに当てはまるものが内包されているだろうか?

(この落穂はデカいんで、続く)

2007年10月28日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (16)

あ、落穂、落穂(笑)。

リンチ作品に頻繁に登場するモチーフである「成立しない会話」について。お約束のように「インランド・エンパイア」においても、このモチーフがいろいろな形で表出している。

典型的なのが、ポーランド人老夫妻(キャスト表にはMr. Zydowicz、Mrs. Zydowicz)となっているとニッキー夫妻の会話だ(0:34:00)。

Nikki: (微笑みながら) What?
Mr. Zydowicz: [speaking Polish] You didn't understand what I said?
Nikki: (首を振って) Um, I don't understand.
Mr. Zydowicz: Mmm. You don't speak Polish.
Nikki: No.
Mr. Zydowicz: [speaking Polish] A half...
Piotrek: I-- I think she understands more than she lets in.
Nikki: But I don't speak it too, so...

このシーンでまず表出しているのは英語とポーランド語の「言語の違い」による会話の不成立だが、それよりも重要なのはスーとピオトルケの間の「会話の不成立」のほうではないだろうか。なぜなら、のちに登場する裏庭でのパーティでピオトルケが「サーカスに入る」と宣言するシーン(1:45:11)において、この「夫婦間の会話の不成立性」は変奏され、繰り返されるからだ。同時に、ここで挙げた二つのシーンは、「機能しない家族」というモチーフにもつながっていくように思える。それは、以前触れたキングズレイと照明係バッキーとの「成立しない会話」においても同じ……というより、むしろ問題が「トラブル=機能しない家族」に収斂していくことがもっともわかりやすく明示されているのが、この二人の会話においてであるといえる。

この視点でみていくと、前々項で挙げた「訪問者1」とニッキーの会話も、また「成立しない会話」の範疇に入るのかもしれない。かろうじて二人の会話は成り立っているようにみえるが、それは「訪問者1」の話す東欧訛りの英語が理解できるのと同じぐらいの意味合いにおいてだ。そして、訪問者1も「それは結婚についての話か?(Is it about marriage?)」あるいは「あなたの夫は関係しているのか?(Your husband. He's involved?)」とニッキーに問いかける(0:13:47)。「インランド・エンパイア」において、「成立しない会話」と「機能しない家族」のモチーフはなんらかの形でセットになって提示されている。たとえば「ツイン・ピークス」でのゴードン・コールがらみのシーン、あるいは「カウボーイとフランス男」のハリー・ディーン・スタントン演じる耳の遠いカウボーイによる同モチーフの表象あたりと比較して捉えた場合、より他のモチーフとの融合度……ひいては作品への融合度という点で緊密といえるのではないだろうか。

また、以前にも触れたように、「Rabbits」の各シーンにおいても「成立しない会話」は表れている。が、今までこの項でみてきたものとは違った表象の仕方をしているのは明らかだ。それは「成立しない会話」の実現形式にも表れている。この項で今まで挙げてきた「成立しない会話」が登場人物間の「言語の差異」「器質的問題」「情動的差異」などのいわば作品内起因によるのに対し、「Rabbits」のシーンでは意図的な「コンテキストの混乱(あるいは破壊)」という「記述の方法論」によっている。また、直接的に「機能しない家族」とリンクしているかというのも微妙だ。

「Rabbits」における「成立しない会話」は、シットコム(Sitcom = Situation Comedy)というフォーマットの強調として機能しているのではないか……というのが個人的な捉え方だ。つまり「Rabbits」のシーンにおいてまず優先されているのは、それこそシチュエーションや形式のほうであって会話の内容ではない。ここで「成立する会話」を用いることは、逆にその意図をぼやかすことになる。むしろ「Rabbits」の各シーンにおいて注目すべきなのは、映像によって示唆されるものなのではないだろうか。

(まだいろいろと落穂はあるのであった)

2007年10月27日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (15)

落穂拾いのメモは続くのであった(笑)。

このように、訪問者1が「言説」を含めた「映画にまつわるもの」を含意しているのなら、では、キングズレイ監督がデヴォンとの会話で話すところの「90歳の姪(90-year-old niece)」とは何者なのか?(0:40:59)

Kingsley: (画面外で) It's the, uh, 90-year-old niece.
Kingsley: (画面外で) Ever since we went into preproduction, She's been fascinated by Smithy.
Kingsley: (画面外で) Keeps going on and on about Smithy. Asking in that... ancient foreign voice of hers..."Who is playing Smithy?"

ここはやはり、「インランド・エンパイア」が「映画についての映画」であるという視点からみてみよう。

すると、ある映画史上の事実に行き当たる。我々が現在観ているようなイメージにもっとも近い「映画」の誕生をみるには、1915年に公開されたD・W・グリフィスの「国民の創生」まで待たなければならなかったということだ。それは、映画の主流が短編から中編へそして長編へ移っていく過程*であるとともに、映画館が街なかの小規模なニッケル・オデオンから「チャイニーズ・シアター」などに代表される大規模なピクチャー・パレスへと移行する過程であり、ひいては主な観客層が英語も怪しい移民層から比較的裕福な中産層に変わっていく過程でもあった。つまり、編集技法から長さ、さらには受容形態や受容者層に至るまで、現在まで続く「映画の原型」を構成する要素がアメリカにおいて揃ったのが、1915年から20年にかけてだったことになる。「インランド・エンパイア」が公開された2006年から、ちょうど90年ほど前の話だ。

もちろん、(スクリーンに投射するという形での)映画の創生はリュミエール兄弟によるものであり、1895年までさかのぼる。だが、海を渡った先でその「親族」が生まれ、一個の完結した作品として豊かな「物語性」を手に入れるとともに、受容者の「感情」を操るようになるまで、しばしの時間を要したわけである*(映画が「音声」を手に入れるまでは、まだしばらく待たなければならない)。女性からの視線を主体として描いている「インランド・エンパイア」において、この「親族」は「姪」とされる……と、とりあえずは捉えておこう。

「姪」はプリプロダクションの段階から「スミシー」の役に興味をそそられ、誰がそれを演じるのかしきりに気にする。ずっとみてきたように、「インランド・エンパイア」において「スミシー」は「匿名性=一般性の謂い」である。作品の結尾において「スミシーの家」のリビング・ルームでロスト・ガールが夫(の抽象概念)と抱擁するとき、それを傍らでにこやかに見守っている彼らの息子の役名は「スミシーの息子(Smithy's Son)」だ。つまり、彼ら三人こそが「スミシー家」の者であり、「家族の抽象概念」であるといえる。だが、「スミシー夫人」であるロスト・ガールを「一般的受容者の総体=抽象概念」と捉えたとき、「スミシー」という名称もまた「受容者」と同義になりはしないか?

となれば、この「姪」が「スミシー=観客」のことを気にかけ、何度も「スミシー」について訊いてくるのも当然であるように思われてくる。誰が観客となりえるのか、はたして観客がいるのか、それは「商品」としての「映画」とって、あるいは「作品」としての「映画」にとっても重要な問題だ。

ところで、このキングズレイの会話をバックに映像として提示されているのが、メイク中のニッキーのアップなのである。この時のニッキーの顔が、後に出てくるポスターに描かれた「ピエロ」(1:56:32)を連想させるのはなぜだろう? もしかしたら、「姪」の話す「古い外国の言葉」とは、ファントムが人々を「魅了する」ときに唱えるのと同じ言葉なのではないだろうか? 映画というメディアができるずっと以前から存在した、故もなく人々を「魅了する」もの……それは「映画」の裡にもひそみ、ニッキーの裡にもまたひそんでいるのだ。

(さて、まだ落穂はあるか?)

*「国民の創生」に先行するものとして、「クォ・ヴァディス」(1912)、「ポンペイ最後の日」(1913)、「カビリア」(1914)などのイタリア製作の長編史劇映画があり、アメリカでも好評を博した。そうした海外作品の影響下にあって複数巻物の製作がアメリカでも増えていき、グリフィスも「ベッシリアの女王」(1914)などを経て、「国民の創生」の製作に至る。

なお、こうした1910年代を特別の時代と見る映画史の捉え方は、決してリンチ独自のものではない。リュミエール兄弟によるシネマトグラフィー=映画誕生100周年を記念し、1995年にフランスのリヨンで「現代美術ビエンナーレ」が開催されたが、その構成は以下のようなものだった。

この展覧会ではこれは1910年から1950年までを「映画の時代」、1950年から1990年までを「テレビの時代」、1990年以降を「ヴァーチャル・リアリティの時代」という三つのサイクルに分けていた。これは映像の歴史を技術史ではなく、「新たな表現の歴史」として整理した見方である。
--「映像論 <光の世紀>から<記憶の世紀>へ」(1998年)港 千尋

2007年10月25日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (14)

ボチボチと落穂拾いのメモ書き。

「インランド・エンパイア」を「映画についての映画」として捉えたとき、ザブリスキーおばちゃん演じる「訪問者1」のニッキーに対する長演説(0:13:10)もまた、「映画」についての事柄を含意しているように思えてくる。それは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という一作品のことに留まらず、「映画というメディア」についてという意味合いにおいてだ。

以前述べた「行為には結果が伴う(There are consequences to one's actions.)」とか「払われていない支払い(An unpaid bill that needs paying.)」とかもそうなのだが、扉を越えた少年が観た「世界(world)」だの、そのとき生じた「影(reflection)」*だの、少女がその裏道を通って宮殿へと至った「市場(marketplace)」**だの、キー・ワードの枚挙にはいとまがない。

ロケーションやセットや演技者のスケジュールの関係で、作品内の時系列とは関係なく撮影が行われるのは、ごく普通のことだろう。何年もの時間が離れているシーンであっても、同じロケーションなら続けて撮影が行われる(If it was tomorrow you would be sitting over there.)。一日二日の違い(if it's today, two days from now, or yesterday)など、かわいいものだ。極論すれば、「伏線」よりもその「回収」のシーンのほうが先に撮影されることがあっても、なんの不思議もない(if today was tomorrow....you wouldn't even remember that you owed on an unpaid bill.)。まるで「忘却」されたがごとく、事の起こりがないまま事の結末が撮影される。ここで訪問者1によって述べられているのは、映画に関する「時間と場所」全般のことだ。

しかし、そもそもこの「訪問者1」とは何者なのか? まるで予言するかのごとく、作品内容について「あなたは間違っていると思う(I think you are wrong about that.)」などと当の作品の出演(予定)者に対して言い放つ、この老婆は?

「映画」がその創生からずっと、基本的に「投資と回収の対象」であり「商品」であり続けてきたことは以前も触れた。「商品」であるからには、売らなければならないのが当たり前である(そのこと自体の是非を問うのは、ナィーヴ過ぎる)。売るほうは、あの手この手で観客を呼び寄せようとし、「商品」についての「情報」を流す。だがそれはあくまで「売るための情報」であり、「作品についての情報」そのものであるかどうかは微妙な問題であるといえる。「インランド・エンパイア」について書かれた各種の紹介記事***をざっとみるだけでも、そのあたりは検証可能だろう。「あなたは間違っていると思う」と言い放つ老婆が、そこにはいはしないか?

また逆に、出来上がった作品に対してどのような「解釈」がされようと(それが実際の「作品」として提出されているものと矛盾しない限り)、それは有効であることは間違いない。はたして「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」は、残酷な殺人(Brutal fucking murder!)が出てくる作品であるのか、ないのか? それを決めるのは、誰なのか?

どうだろう。我々は、毎日のように、いろいろな形で「老婆の訪問」を受けているのではないだろうか? そして、このブログ自体も、実はそうした「老婆の一人」だといえるのではないか?

(落穂拾いは続く)

*我々は、スクリーンからの「反射(reflection)」によって映画を観ている。

**これは「いちば」なのか? それとも「しじょう」なのか?

***「シュールな幻想スリラー」などというのはまだマシなほうで、「謎の都市インランド・エンパイア」という紹介記事に至っては、実際に作品を観た身としてはまったく理解不能だ。栄誉金獅子賞はリンチ本人が受賞したんであって、「インランド・エンパイア」という作品が受賞したわけではありませんので、念のため。

2007年10月24日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (13)

ここらでちょっと箸休め的ネタ。題して……
「娼婦殺害事件 ガイシャの足取りを追え!」笑)。

スーがドリスにスクリュードライバーで刺されたのが、ドロシー・ラムーアの星の上。以前に述べたように、Hollywood Walk of Fameにはラムーアの星が2箇所あるのだけれど、この星が「6332 Hollywood Blvd」にあるほうであることは、近辺で公衆電話をかけている娼婦の背後にあるビルの番地表示が「6331」であることからしてもガチとみてヨロシイんではないかと(2:09:57)。

HollywoodBlvd6332_A (Map.A)
で、Map.Aで赤丸の地点が「6332 Hollywood Blvd」で、ここが傷害殺傷事件の現場。ここには 「Juices Fountain」というジュース屋さんがある。映画のとおりだと、閉店後とはいえ夜な夜な店の前で娼婦たちにたむろされてエライ迷惑しているんではないかと想像されるのだが(笑)、実際どうなんだかは知りません。

HollywoodBlvd6332_B (Map.B)
さて、ドリスに刺されたあと、「Hollywood」と「Vine」の道路標識が映像として映されることからわかるように(2:24:12)(2:24:18)、スーは「Hollywood Blvd」と「Vine St」の交差点に向かう(Map.B)。現場検証的にとらえるなら(笑)、時刻はちょうど深夜零時すぎ。まだチラホラ街を行き交う人影も絶えず、依然として車の交通量もある。ちなみに、この交差点には地下鉄の「Hollywood Vine」駅もアリで交通至便(笑)。

HollywoodBlvd6332_C (Map.C)
交差点に到達したスーは、それを斜めに渡る(2:24:07)。ということは、「Hollywood - Vine」の交差点を北東側に渡っていることになるわけなんだが(Map.C)、斜めに渡っているということは、ここはスクランブル交差点なんスかね? まあ、ああいう形相のヤバ気なオバサンが道を渡って来たら、相手が赤信号でも車のドライバーのほうがビビって避けるかもしれませんが(笑)。

HollywoodBlvd6332_D (Map.D)
交差点の北東側に到達した以降のスーの足取りはあんまり明確ではなかったりする。「HOLLYWOOD STAR FOOD MARKET」という店の看板がみえたりしているのだが(2:24:25)、この店の実際の所在地等は確認できず。が、そのまま「Vine Street」沿いに北に向かった可能性が高いんではないかというのが(Map.D)、大山崎の推測であります。なぜかというと、もし「Hollywood Blvd」沿いに東に向かったのなら、「HOLLYWOOD STAR FOOD MARKET」は左手に見えなければならないはずだから。だがスーの主観ショットでは、この店は右手に見えているのだな。かつ、スーが力尽きた箇所にも「星」があるので、どこかで折れて裏道に入ったりはしていないハズ。

だがしかし、スーはいったいどこへ向おうとしていたのか? 

実は、「Hollywood - Vine」から「Vine St」を北に2ブロックほど行くと、「Hollywood Freeway(U.S. Route101)」に突き当たる。ここから「Hollywood Fwy」に乗って南東に向かうと、やがてこの道路は「Santa Ana Fwy(U.S. Route101)」に名前を変える。細かいことを気にせずそのまま行くと(笑)、ほどなく道路は二つに分岐する。「Santa Ana Fwy」は右に折れて南へと向うのだけれど、東に真っ直ぐ向かうほうの道路が「San Bernardino Fwy(Route 10)」だ。これに乗ればポモナ(Pomona)まで、ひいてはリバーサイド・カウンティ(Riverside County)やサン・バーナーディノ・カウンティ(San Bernardino County)などの「インランド・エンパイア地区」までノン・ストップの一直線!

お腹から血を流したオバサンが高速道路に立ってる図はちょっとコワイものがあるが(笑)、命にかかわる重傷を負いながらも「受容者の内面=インランド・エンパイア」に向かおうとしたスーの根性は、「死んでも喇叭を口から離しませんでした」の木口小平なみにアッパレであるといえましょう……って、あれ、そーゆー結論でよかったんだっけ?(笑)

2007年10月23日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (12)

風の吹くまま気の向くまま、今日も今日とて書きなぐるのであった(笑)。

たとえば、「家」と「ストリート」のおおまかな「位置関係」を提示している映像が、ロコモーション・ガールたちがいる2階の部屋から、スーが夜のポーランドの「ストリート」を見下ろすシークエンスだ(1:14:38)。そして、その通りの向こうにある建物*の何階かにロスト・ガール(ポーランド・サイド)の自宅があるであろうことが、後の映像によって暗示される(1:39:04)(2:01:03)。ここでは「スミシーの家」と「ロスト・ガールの家」が、「ストリート」によって文字どおり通底しているのだ。こうした「高低によるアナロジー」が「インランド・エンパイア」において散見されることは、以前も指摘したとおりである。

他に「位置関係」の映像提示がある箇所といえば、ロスト・ガールがテレビ・モニターを観ていた部屋から「スミシーの家」のリビング・ルームまで至る途中の下りの階段である(2:48:54)。この階段は、スーが「Mr.Kのオフィス」に向けてのぼったのと同じものであるようにも見える(1:21:13)。もしこの「位置関係」が正しいのであれば、スーが「ストリート」から「Mr.Kのオフィス」まで「死ぬほど階段をのぼらされた(That's one hell of a fucking climb getting up here)」とぼやくのも無理はない(1:22:13)。模式図にのっとり、高低のアナロジーに従うのなら、おそらく「Mr.Kのオフィス」は「スーの領域」のかなり上方にあるのではないだろうか?

もう一箇所、「位置関係」が集中的に提示されるのは、誰もいない映画館からスーがMr.Kに誘われるように階段をのぼり**、三度目の「Axxon N.」が表れる扉(この扉のそばにも時計が登場する)をくぐって「スミシーの家」の内部に至り、そこで「ピストル」を手に入れるシークエンス(2:38:28)だろう。このシークエンスはそのまま「どことも判然としない通路」を経て、「47」の表示がある扉の前での「ファントム崩壊」(=同一性の終結)シーンへと、そしてついには「ロスト・ガール=受容者」「スー=登場人物」「ニッキー=演技者」の三者が、それぞれ形での「自己回帰」(あるいは「自己確立」)を遂げる最終シークエンスまで、一気になだれこむ。

すでに述べたように「Mr.Kのオフィス」へは、「ストリート」と同レベルにある「クラブ」***からも階段をのぼることによって到達可能だ(1:21:13)(2:14:29)。そこに至る「赤いカーテン」は、「ステージ4」から無人の映画館に至る道筋にも登場し(2:36:35)、「クラブ」と「ステージ4」が等価であることを保障する。この視点に基づくなら、ニッキーが「演技」を行っているステージもまた「ストリート」に属するのだ。こう考えるとき、そこで撮影が行われた最終シーンがハリウッド・ブルバードにおける「ストリート」のシーンであることは偶然でもなんでもなく、むしろあからさまな映像的提示であるように思えてならないのだが。

とまあ、「インランド・エンパイア」の作品構造について、でした。

(とりあえず、この項は一段落ね)

*この建物の1階入り口にある表示には「40」という数字が見える(2:01:03)。「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の撮影が行われていたのは「ステージ4」(0:24:08)(2:35:45)である。「47」、「47号室」を含め、「4」という数字の連鎖と、それが含意するさまざまな「抽象性」「一般性」に気づかないではいられない。

**「Axxon N.」の扉に至るまでの通路の途中で、「Mr.Kのオフィス」につながるであろう「のぼり階段」(2:39:28)が見られる。ここではいろいろなものが「通底」している。

***当然ながら、この「クラブ」で踊っている女性ダンサーも「観られる者」である(と同時に、最後に表れるバレリーナと対置されるものでもある)。この女性ダンサーが扇情的に踊っていることと、「ステージ4」においてニッキーが登場人物を演じていることのあいだに、はたしてどれくらいの距離があるのか? そして、「ストリート」に立ち、春を鬻ぐこととのあいだには?

2007年10月21日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (11)

いつものよーに、うだうだと続くのであった(笑)。

それにしても、ピオトルケ(および訪問者1)によって成される「行為には結果が伴う(There are consequences to one's actions.)」という発言自体が(00:42:20)、出来事の因果律によって成立する「ナラティヴなもの」に対するリンチの言及を含意しているように思えてならない。また、訪問者2(および訪問者1)の発言にある「払われていない支払い(An unpaid bill that needs paying.)」(1:57:31)も、「伏線の回収」への言及を連想させる。そう考えると、このシーンにおいて訪問者2の「腕時計」がクローズアップで映されるカットが存在するのも、まったく不思議ではない。これは「映画=世界」が内包する「時間的制約=時間のコントロール」という命題の表れであり、訪問者2もまた「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」における「物語展開上の要請」を行っていることの表象ではないだろうか。

話が前後するが、ウサギたちによってもたらされる「ピストル=物語展開の要請」に対置されるものとして、ファントム=クリンプからもたらされる「スクリュードライバー=心理展開の要請」(2:00:28)の存在も忘れてはならないだろう。このスクリュードライバーよって表わされるものが、スーとドリスが互いに(あるいは不倫相手の妻がロスト・ガールに対して)対して抱く「悪意」であることはいうまでもない。

たとえば、ビリーの屋敷におけるスーとドリスを交えた修羅場(1:54:03)において、まずドリス*が想起するのは腹にドライバーを突き立てたまま警察官と話をする「娼婦の自分」である。そして、その「自分」が振り返った先にいるのは彼女を「魅了する」ファントムだ。次いでイメージはそのまま、ロスト・ガール(ポーランド・サイド)が同じくドライバーで刺されて横たわっているカットのフラッシュバックへと連鎖していく**。「スクリュードライバー=悪意」という「感情」と、それに刺される(心の)「痛み」を共有することによって、スーとニッキーとドリスとロスト・ガール(と不倫相手の妻)はつながっていくのだ。「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」において、そうした「感情」こそが心理的エスカレーションを促すものであり、そこに発生した「女性たちをつなぐもの」こそが「感情移入=同一化」に他ならない。

その時その時の映像で提示されているロスト・ガールやスー=ニッキーが、前掲の摸式図のなかのどのあたりにいるか……あるいは図中において彼女たちの意識が「位置移動」するに際し、どのような映像がそれに介在しているか。そうしたことを確認していくと、たとえば「Mr.Kのオフィス」が図中のどのあたりに位置しているであろうかも、漠然とみえてくる。そして、それにともなって、以前述べた「登場人物による垂直方向の視線の交換」がどのような位置関係においてなされているかも、なんとなく把握できはしないだろうか?

(まだ続くんだわ、これが)

*もちろん、ドリスもまた「機能しない家族=トラブル」の一員であり、かつ受容者・演技者にとって「感情移入=同一化」の対象であることは改めて言及するまでもないだろう。同様に、ポーランド・サイドにおけるロスト・ガールの不倫相手の妻も同じ立場であることが、この妻がロスト・ガールと並んで「ストリート」に立っているカット(2:11:00)によって明示されている。

**リンチがあらかじめシナリオを用意しなかったことを理由に「インランド・エンパイア」の解釈不能性を唱える意見が見うけられるが、それがいかに的外れであるかがこのシークエンスからもわかるだろう。撮影された映像はあくまで「素材」であり、映画作品のコンテキストは映像を「編集」することによって出来あがるものであることを、再度、指摘しておく。

2007年10月19日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (10)

うーん、「インランド・エンパイア」ネタでこんなに引っ張るとは、自分でも思わなかったな(笑)。とりあえず続き。

そして、演技者=ニッキーの心理的エスカレーションに向かって機能し、彼女のスーに対する「感情移入=同一化」を働きかけるのが「ロコモーション・ガール」たちだ。ファントムが「映画=作品」を通じてロスト・ガールの心理=内面に侵入したのと対照的に、彼女たちがニッキーの中に内包されている(いた)ものであるのは前にも述べたとおりだ。また、ニッキーがスーとの同一化の過程で、ロコモーション・ガールたちによって「ストリート」に導かれるのも前述のとおりである。

ニッキーやロスト・ガールの「感情移入=同一化」が深まり、彼女たちの内面に「共有」あるいは「通底」した領域ができあがった結果、ファントムとロコモーション・ガールたちは、ニッキーとロスト・ガールの領域を自由に行き来することになる。ロコモーション・ガールたちはポーランド・サイドの「ストリート」に現われ、そこに立つロスト・ガールを「魅了」する(2:11:34)。逆に、ファントムはクリンプという族(やから)*として、スー=ニッキーの住処である「スミシーの家」の隣家に住まうのだ(2:00:14)。

さて、ファントムやロコモーション・ガールたちに対置するものとして、物語上のエスカレーションに対して介在するのが「(老人たちやMr.Kを含む)ウサギたち」である。このことを端的に表わしているのが、ファントムを倒す「ピストル」**が老人の一人(その直後、彼はジェーン・ラビットに変貌する)によってもたらされる映像だ(2:03:44)。

「世界=映画」はどこかで終わりを迎える。基本的にそれは「物語に関連する諸事情」の要請によるものであり、当然ながら「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」もその例外ではない。だが、同時にそれが、受容者・演技者の登場人物に対する「感情移入=同一化」の切断を、つまりは「映画の魔法」の終結をも意味することは言うまでもないだろう。「映画=世界」を通じて入り込んだファントムは、自分が「観られる者」であることを自覚したニッキー=スーが放つ「物語展開の要請=ピストル」の銃弾によって倒されなければならないし(2:44:42)、ニッキーの裡なるものであるロコモーション・ガールたちも、いつかは解放されるべく予定づけられている(2:47:11)。

また、断続的に差し挟まれる、Mr.Kを相手にしたスーの「人生相談」あるいは「自分語り」そのものが、効率のよい「物語の進展」でなくてなんだろう。物語記述の方法論としては上等ではないのかもしれないが、「映画=世界」では往々にしてこうした物語の効率性が求められる。以前にも述べたように、「映画=世界」には「時間的制約=時間コントロール」という命題がつきまとうからだ。そうした「制限」のなかで「物語」が効率を要求される場合があるという意味で、それも「物語展開の要請」の一面といえるのではないだろうか。

そう考えるとき、なぜ物語に介在するのが「ウサギたち」であるのかに思いが至る。シットコムのフォーマットを踏襲した「テレビ番組」の表象である「Rabbits」が、「物語の進展・効率・終結に対する要請」を行う……30分とか1時間とかの時間枠に縛られるだけでなく、シーズンという枠で番組自体の放映期間までも縛られる(その期間自体が「視聴率」というのものによって伸縮する)「ウサギたち」にとって、それは当然の行為なのではないだろうか? そして、それはリンチ自身が自分の声として、「ツインピークス」や「オン・ジ・エアー」や「マルホランド・ドライブ」での体験に基づいて、嫌悪をもって語っていることではないか?

(まだ続くのだな、これが)

*ファントム=クリンプについてだが、Mr.Kのオフィスにおけるスーの発言(1:59:27)によると「彼らはクリンプと呼ばれていた(They was called "Krimp".)」らしい。であるならば、「クリンプ」はファントム個人の別名というよりも、「彼が属するもの」の名称であることになる。

**「ピストル」が、まず、ファントムに去られた後の「夫の抽象概念=ピオトルケ」の手に渡ること、そして彼がそれを受け取る契機がロスト・ガールという「妻=女性」の嗚咽を耳にしたこと(姿は見えなくても)であることは見逃せない。ピオトルケが「妻の抽象概念=スー」に対する自身の行為の「結果(consequence)」を知り、自分を「使役する者」が誰であるかを知ったとき(The one I work for.)、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の「物語」は終結に向かう準備を始める。老人の一人がつぶやくように、「馬は井戸まで連れてこられた(The horse was taken to the well)」のだ。

2007年10月18日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (9)

行き当たりばったりに続いたりなんかした(笑)。

さて、では、これに「ロコモーション・ガールたち」や「ファントム」や「ウサギたち」はどうからんでくるのか? 

……について述べる前に、以前述べた「ナラティヴな作品」における物語展開と心理展開の連動性をば、ちょいと思い出してほしい。要するに、物語のエスカレーションと連動させて登場人物の心理的エスカレーションを描くのが、大多数の「ナラティヴなもの」が持つ基本構造であるということだ。そして登場人物に「感情移入=同一化」した受容者は、その心理的エスカレーションを登場人物と「共有」する。ここでは「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」(という「映画=世界」の抽象概念?)も、こうした「ナラティヴな作品の基本構造」を備えていると想定して話を進めることにする。

で、前項で挙げた模式図は、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」における「心理的エスカレーション」の状態を表わしたものであるといえる。当然ながら、これは本来「動的」なものであって「静的」なものではない。物語の展開軸に沿って時系列的に形成が進み、かつ状態が変動するものであって、前項の図はその最終形態を静的に模式化したものと理解してもらったほうがいいと思う。

たとえば、ロスト・ガールの「感情移入=同一化」の形成を映像に沿ってたどるとき、彼女が「スミシーの家」を共有するのは作品の最終局面となる「スミシー一家の邂逅」(2:49:38)においてになる。それ以前の段階では、「ポーランド・サイド」から真っ直ぐ「ストリート」まで至る様子しか映像としては提示されていない。模式図においてロスト・ガールの縦軸がああいう形状をしているのは、そうした理由からだ。最終的にロスト・ガールも「スミシーの家」を共有するに至るわけだが、これは「映画=世界」に触れ、スーとの「同一化」を果たした受容者であるロスト・ガールが、その「体験」を経て変容したことを表わす映像表現であるという捉え方が可能であるように思える。

毎度ながら前置きが長くてアレなんで、ずばっといく(笑)、このモデルを踏まえて捉えたとき、「ファントム」と「ロコモーション・ガール」によって表わされるものが働きかけているのは、「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」の心理的エスカレーションに対してである。その一方、物語上のエスカレーションに対して働きかけているのが、「(老人たちやMr.Kを含む)ウサギたち」として表わされるものたちだ。

端的にいうと、受容者=ロスト・ガールの心理的状況が「ストリート」に至る「同一化」の起因になり、かつその深化を進めているのがファントムという「映画の魔(法)」である。ロスト・ガールの心象風景としての「ポーランド・サイド」における彼女の「トラブル」が、なぜ「夫の抽象概念」であるピオトルケではなくファントムを夫として描かれているのか(あるいはなぜファントムがピオトルケの立場に成り代わっているのか)……とりあえずはこの捉え方で、それなりの納得ができるように思う。

そもそも「インランド・エンパイア」の開巻直後、豪華な部屋において、ファントムと禿頭の老人の間で交わされた会話を思い出してみよう(0:07:29)。

老人: Are you looking to go in?
ファントム: (苛立って) Yes.
老人: An opening?
ファントム: I look for an opening. Do you understand?

ここでファントムが「入りたがっている(look to go in)」対象は、「映画=世界」のことである……とここでは捉えておきたい。そしてこのコンテキストに基づくなら、ファントムが言う「opening」は「開口部」というよりも、むしろ「『映画=世界』の開幕」を意味していることになるだろう。いずれにせよ、こうして「映画=世界」に入り込んだファントムは、受容者=ロスト・ガールの意識に働きかけて彼女の「感情移入=同一化」を引き起こすとともに、その深化を促すべく機能することになる。これまたいろいろな意味で、彼はロスト・ガールを「ストリート」へと突き落とすのだ。

(うう……まだ続くぞ、これ)

2007年10月16日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (8)

ここらへんで、「インランド・エンパイア」の作品構造について、思うところをちょっとまとめ。うまくいったらお慰み(笑)。

というわけで、なんとなく図式化してみたりなんかしました(笑)。クリックすると巨大化しますが、「弟よ~!」とかは叫びません(笑)。

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基本構造に関してまず述べなければならないのは、受容者(演技者(登場人物)) というネスティング構造で、これはいわば「インランド・エンパイア」の水平軸を構成している。それに対しクロスする形で描かれているのが、女性の目から見た「トラブル=機能しない家族」のモチーフ展開であり、これは垂直軸を成しているといえるだろう。

垂直軸方向の指標をたどると、下部に「ストリート」が存在し、その上部に「家」が存在することになる。基本的に、下部において水平軸において共有されるもののつながりは密であり、上部に向かうほど緩やかになっていて、ロスト・ガールやニッキーの各個の問題へと分化している部分が存在する。

まず「ストリート」だが、これは受容者=演技者=登場人物すべてに共通するものとして、全員が共有しているものだ。その「ストリート」が存在するのがポーランド・サイドであろうがハリウッド大通りであろうが関係なく、どちらの「ストリート」も等価である。たとえばスーが二人の「ロコモーション・ガール」に誘われてポーランドの「ストリート」に立つシークエンスに表わされるように(1:11:40)、最下部である「ストリート」ではポーランド・サイドとアメリカ・サイドは文字どおり通底している。「ストリート」は「ON HIGH IN THE BLUE TOMORROWS」という作品に対する彼女たちの「感情移入」や「同一化」の基礎構造を成すものであり、彼女たちが「トラブル」に遭遇したときにその意識のなかで最終的に喚起されるものだ。ここでは、垂直軸が下方に向かうほど「感情移入」が深まり、「同一化(Identification)」の度合いが進むと捉えている。つまり、下部に行くほどネスティング構造が強固に成立しているということである。

垂直構造の上部となっているのが「家」の部分である。前述したように「ストリート」の層との比較において、「家」の層では彼女たちが共有するもののつながりは緩くなり、個のレベルへと分化している部分がある。基本的にポーランド・サイドの「家」はロスト・ガールのものと捉えていいし、ニッキーの「家」はニッキーに属している(ニッキーの「家」もまた「トラブル」を内包している場所であることが、ピオトルケの視線(0:19:08)や、ポーランド人老夫婦との会話にならない会話シーン(0:34:00)において示唆されている)。ただし、演技者としてのニッキーがロスト・ガールによって一方的に感情移入されている以上、ニッキーの「家」もロスト・ガールによって一方的に共有されているといえるのかもしれない。

とはいえ、やはりこの「家」の層は全部ひっくるめて「機能しない家族=トラブルの抽象概念」として捉えられるべきものであり、そういう意味では「ストリート」と同様に、この層においてもポーランド・サイドとアメリカ・サイドは等価だ。ロスト・ガールたち個々の「トラブル」は、この抽象概念に内包され、その概念そのものを構成する「部品」である。逆に、「スミシーの家」がスーやニッキーだけでなくロスト・ガールによっても最終的に共有されるがゆえに(2:49:38)、スー単独の分化した「家」は存在しない。

ドリスや、ポーランド・サイドにおけるロスト・ガールの浮気相手の妻においても、同様に「家」と「ストリート」の垂直軸が描かれていることも指摘しておかなければならないだろう。「スミシーの家」こそ共有していないものの、彼女たちもロスト・ガール=ニッキー=スーと同じ「トラブル」を抱えていることが描かれ、この垂直軸が「抽象的なもの=一般的なもの」であることを補足している。

さて、では、これに「ロコモーション・ガールたち」や「ファントム」や「ウサギたち」はどうからんでくるのか?

(続いたりなんかして)

2007年10月13日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (7)

うむ、我ながら見事にダラダラと続くな。まあ、メモ書きみたいなもんなので(笑)。

いずれにせよ、このようにみていく限りで、「インランド・エンパイア」が備える混乱の本質は「5つの世界」の存在などにあるわけではないことがわかる。映像文法はこうした世界などいくつあろうが問題なく整理して我々に伝えることが可能だし、実際リンチも差異を伝える必要がある世界のシークエンスについては、明確にそれが把握できるような処理をしている(逆にいえば、差異を伝える意図がない、あるいは混乱を意図したシークエンスについてはそういう処理をしていないということだが。これもリンチが「無自覚」ではないという証左か?)。

我々が本当に混乱するのは、誰に感情移入し同一化すればいいのか、誰の視線に頼ればいいのか、誰をキーにして「インランド・エンパイア」という「世界=映画」に没入すればいいのか……そういった部分であり、ひいては作品全体を見通す「統一した視点」を容易に持てないことにある。そうした視点さえ持てれば、世界がいくつ存在しようが我々は混乱しない。

再三述べたように、「スーの視点」が必ず裏切られることは、誰の目にも明らかだ。また、「演技者による(作品内)現実と(作品内)非現実の混乱」という単純な捉え方でよいのであれば、スーの視点を内包した「ニッキーの視点」によってすべて回収されていくはずなのだが、「インランド・エンパイア」はそれも許さない。それでは(ポーランド・サイドを含めた)ロスト・ガールが関係するシークエンスが取りこぼされるからだ。

その混乱の果てに、我々はこの作品が「(作品内)現実と(作品内)非現実の混同」という捉え方では回収できないこと、つまり「演技者(ニッキー)=登場人物(スー)」というネスティングでは収まりきらないことに気づく。そして、作品を統一して観られる「視点」を持った登場人物を捜索した挙句に、一般的受容者の抽象概念であるロスト・ガールに行き着く。それは「ニッキー=スー」のネスティングを外から包む、もうひとつのネスティングだ。困ったことに、ロスト・ガールは抽象概念であるがゆえに、そのプロフィールはニッキーやスー以上に明確にされていないのだが。

しかし、いったんそこまでたどり着いたなら、我々は今度は映画の「外」に存在する「最終的なネスティング」を、すなわち彼女たちの「視点」すべてを統合する、一個の受容者としての「自らの視点」を意識せざるを得なくなるはずだ。この作品は「映画についての映画」ではあるが、それはイコール「映画を作ることについての映画」ということではない。そこには「映画を観ることの映画」であるという意味合いも同時に含まれている、ということだ。

2007年10月11日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (6)

思いつくまま、テキトーな感じで続く(笑)。

といいながら、リンチがハリウッドの編集術に関して無自覚であるかどうか、「インランド・エンパイア」を観て疑問に思えてきたことも確かだ。そういう意味で、やはり「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」とは違った領域の作品であるのかもしれない。

たとえば、前項で述べたように、我々がスーに感情移入してこの作品を観ていく限り、その「同一化」は必ず裏切られることになる。だが、我々はすでに作品の「前半」において、「(作品内)現実だと思ってたら撮影風景だった」という形で、「登場人物に対する同一化への裏切り」を何度もわかりやすく「予告」されてはいなかっただろうか?

なるほど、ストレートに受け取れば、当該するシークエンスは「演技者であるニッキーの混乱がエスカレートする様子」を描いているように見える。しかし、同時にこれは、古典的な意味で登場人物に全面的に感情移入し、彼(彼女)の目を直ちに自分たちの目とすることは、この作品では叶わない……そういう親切な「予告」とも読めなくはないか?

にもかかわらず、我々は作品「後半」の「ハリウッド大通りにおけるスーの死」に至るシークエンスにおいて、いやがおうもなくスーに対する感情移入を迫られ、そして半ばお約束どおり彼女の死が「フェイク」であることによって裏切られる。しかし、ここで主眼となっているのはナラティヴな意味における「裏切られること=どんでん返し」ではないし、「(作品内)現実と(作品内)非現実の混同」などといった映像的クリシェの問題でもないはずだ。そうなのであれば、その後の約30分弱にわたる「ファントムの崩壊」や「スミシー一家の邂逅」を含むシークエンスなど、ほとんど必要ない。

主眼となっているのは、その前段階の、いやおうなく誘われた我々の「感情移入」の部分だ。スーに感情移入したところでカタルシスなど得られないことを予告されながら、なおもスーに「感情移入」し「同一化」してしまう我々受容者側の問題、そしてそれをもたらす「映画」というメディアの問題、リンチのいう「映画の魔法」の問題なのだ。我々は、ごく当然のように享受しているこのようなものの存在に、裏切られることで気づく。

もしこの捉え方が成立するならば、リンチはハリウッドの編集術について、(批判的ではないにせよ)「自覚」していることになる。映画における「感情移入」や「同一化」の問題をその「破壊」をもって描く……それもご丁寧に「予告」までつけて。これが自覚的でなくてなんだろうか? てなわけで、少なくとも「インランド・エンパイア」に関する限り、その映像特性について見直しを迫られている可能性も無視できないでいる今日この頃だったりするのだった。

2007年10月 8日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (5)

のたのたと続いたりなんかして(笑)。

ここで「インランド・エンパイア」における「主観ショット」の問題として改めて(棚から下ろして)指摘しておきたいのは、ロコモーション・ガールたちが登場するシーンがスーの「幻視」であること、言い換えればスー自身の「内面」を自らの目で見ているものだということだ。

これは比喩などではなく、たとえばロコモーション・ガールたちが「ロコモーション」を踊るシーンにおいて、映像として明示されている。このシーンにおいて、実はスーとロコモーション・ガールたちは同じ部屋にいない。ロコモーション・ガールたちがリビング・ルームにいるのに対し、スーがいるのはその隣の小部屋(シルクの布に煙草の火で穴を開けていた部屋)である。このことは、スーが座っている戸口近くに当たる陽光の位置などを見れば明かだ。つまり、ロコモーション・ガールたちの「客観ショット」と見えるカットは、実質はすべてスーの「主観ショット」なのである。

この「スミシーの家」内部におけるロコモーション・ガールたちのシーンは、リンチ作品における「主観ショット」と「客観ショット」の問題を、端的にわかりやすく表わすものだ(今回カウントした「主観ショット」にはこのロコモーション・ガールたちのカットは含めていない)。要するに、リンチ作品においては「主観ショット」と「客観ショット」の実質的な区別がない。あるのは、リンチが抱くイメージを映像として翻訳する際に、「どこから撮るか」という「単なる位置の差異」だけだ。これはロコモーション・ガールの例と違って、たとえ映像として明示されていなくても同じことである。

そこには本来の意味での「主観ショット」の機能は存在しない。リンチの「主観ショット」は「客観ショット」との比較において、優越して登場人物の感情を代弁しないし、彼(彼女)への観客の感情移入を喚起したり同一化を促進したりしない。より正確にいうなら、「主観ショット」と同じ機能が「客観ショット」にも備わっていると想定し、「客観ショット」を「主観ショット」に置き換えて観る必要がある。でないと、リンチ作品は永遠に意味不明で理解不能のままで終わるはずだ。

たとえリンチ作品における主観ショットの「出現パターン」が通常のナラティヴな作品と同一であろうと、それはナラティヴな作品における主観ショットの「出現パターン」と同じ意味合いにおいてではない。後者のパターンに沿ってスーに観客が感情移入していったとしても、それでは作品を統一する連続した感情移入や同一化は得られない。得られるのは断続的なスーの「感情」の断片だけだ。

もしかしたら問題は、リンチがハリウッドの編集術の破壊や無視に向うのではなく、むしろそれを無批判に(あるいは無自覚に)援用していることにあるのかもしれない。が、それもまたリンチ作品の映像特性のひとつであるのは間違いないと思う。

2007年10月 5日 (金)

「LYNCH (one)」製作スタッフからのお願いなのだ

本日のdugpa.comネタ。

既報のデイヴィッド・リンチに関するドキュメンタリー映画「LYNCH (one)」製作スタッフからのメッセージ。なるべく多くの人に、ということなので全文転載させていただいておく。

"hi everyone........... we are getting ready to launch the film in the states and are asking for all of your help in getting the word out. we are a very grass roots operation and are proud of it, but we also understand the downside of this type of promotion------- basically we wont be able to inform everyone we want to unless we can find a way to reach them........... this is where you guys come in. we will send out bulletins but ask that you forward those bulletins to other myspacers or copy those bulletins and forward them in emails to anyone that you think might want to see this film. we apologize in advance if you receive repeat bulletins but as we all know, if you dont see a bulletin the minute it is posted it can get buried in the stack, never to be seen again.

i guess that is it........ well, there is 1 more thing....... as we go along in this process we are trying to get the film into as many theaters as possible but sometimes theater owners are hesitant. if you would like to see this film please HARRASS your local art house theater and tell them to contact ABSURDA---------- and we will do everything in our power to get the film to you.

THANK YOU ALL VERY MUCH!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

the LYNCH team"

lynchone

要約しておくと、「近所のアート系の映画館に、この作品を上映して欲しいという働きかけをしてちょうだいね。連絡はABSURDAにお願いね」という主旨であったりする。

うーん、日本でも上映できる機会ができたらいいのだけれど、上映スタッフを集めて場所借りてフィルム送ってもらって……となると、個人で仕掛けるのはかなりハードルが高そうではあるが、どんなもんでしょう。

2007年10月 4日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (4)

前項の続き。

そして、ベッドでやすむピオトルケをスーが「見る」シーンに続いて提示されるのが、「スミシーの家」の小部屋でロコモーション・ガールたちをスーが「見る」シーンである。この二つのシーンが「原因」と「結果」であることは、このシークエンスによって明らかだ。こうした「原因」と「結果」の関係、つまり「トラブル」と「それによってもたらされる心理」の関係は、形を変えてこの後も繰り返し提示されている。

加えて、これに続くシークエンスで、ロコモーション・ガールたちはスーをそのままポーランドの夜のストリートまで誘う。この「スミシーの家」→「ロコモーション・ガール」→「夜のストリート」という図式は、「インランド・エンパイア」におけるスーの(ひいては彼女と同一化しているニッキーやロスト・ガールの)心理的経緯の描写として作品全体を貫くものだ。登場人物が抱く心理状態の経緯を、ストーリー展開と連動させてナラティヴに描くのでなく、こうした「映像イメージの連鎖」で提示するのがリンチ作品である。

余談になるが、リンチ作品を構成するこうした「映像イメージの連鎖」という観点で見たとき、「美術手帳 2007年10月号」で町山智浩氏が述べているような、ロスト・ガールによる「サンセット大通り」(というか「クィーン・ケリー」)からの台詞の引用における「邪悪な夢(wicked dream)とはハリウッドの夢のことである」とするのは、あまりに一面的過ぎるように感じられる。このロスト・ガールのインサート・カットが、実際にどのような映像イメージの連鎖のなかで用いられているかを、完全に無視することはできないはずだからだ。

ロスト・ガールがこの台詞を述べるカットは、裏庭でのパーティでピオトルケが自分の腹部にケチャップをぶちまけた直後のシークエンスに挿入されているものである。彼のTシャツについたケチャップが血を連想させ、ひいては腹部をスクリュードライヴァーで刺されて血を流すロスト・ガールをはじめとする女性たちを想起させるが故に、このインサート・カットが現れているのは明白であるように思える……というよりなにより、この「クィーン・ケリー引用」のカットに続いて作品内で提示されるのが、ロスト・ガール(@ポーランド)がスクリュードライヴァーで腹部を刺されるシークエンスであるのは、どうにも動かしようのない事実だ。

そのコンテキストのなかで実際の映像に則して捉えるなら、「邪悪な夢」もまた、「トラブル」や「機能しない家族」がスーたち女性にもたらす「心理的経緯」を指すと捉えるのが、まずは優先されるべき解釈ではないだろうか? 女性たちの抱えるスクリュードライヴァーで刺されたような「心理的な痛み」、そしてその一方で夫の流す「血」はケチャップという「フェイク」であるという対比……こうした映像自体が表現主義的な発想に基づくものであり、リンチ流の「心理描写」であることを見逃してはならないと思う。

作品解釈の根拠として、「クィーン・ケリー」頓挫の経緯などといシネ・フィル的なサブ・テキストが優先されているのだとしたら、それはそれでちょっと違うような気がする今日この頃……などというようなことを自戒をこめつつ呟き、横道はおしまい(笑)。

(長くなったんで、いったん続く)

2007年10月 2日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(X回目) (3)

えー、んでは、前項の続き。

「インランド・エンパイア」の「中盤(1:00:00~2:00:00)」の時間帯において使用されている主観ショットをば、詳細にみてみる。

実は、タイムスタンプで1:00:00あたりというのは、一回目の「Axxon N.」の出現シーンにあたる。買い出した食料品の袋を抱えたスーが、裏通りに止めて置いた自動車のところに戻ってきて、傍らの建物の扉に書かれた「Axxon N.」の文字を見つけるシーンである。

このあと、スーが「ステージ4」におけるニッキーたちのリハーサルを垣間見た後、「スミシーの家」に迷い込むシークエンスが続くわけだが、スーの主観ショットが急激に増えるのは、この一連のシークエンスからだ。ただし、通常の(ナラティヴなと言い換えてもいい)映画作品のような意味合いで、この主観ショットがスーに対する受容者の「感情移入」に寄与しているか……となると、かなり様相が違う。

だいたい、スーがどのような「人物」であるか、それまでのシークエンスで明示されているかというと、まったくそんなことはない。提示されているのはごく断片的な、それもニッキーの演技を通じての「スーという人物像」に過ぎない。「ビリーと不倫関係にある」という(作品内作品内の)事実は把握できるにしても、そこに至るまでの「心理的経緯」などは完全に欠落している。当然ながら、そうした「経緯を提示すること」こそが「ナラティヴを成立させること」に他ならず、そのような方向には向かわないのがリンチ作品だ。

むしろ「前半」で強く提示されているのは、前項でも触れた「ピオトルケの視線」であるように思える。「夫としての総体=抽象概念」であるピオトルケは、階段からニッキーが役を得た瞬間を覗き見し、「撮影カメラの代役」として情事を監視する。こうしたピオトルケの視線の描かれ方自体が、ニッキーの、あるいは「妻としての総体=抽象概念」であるスーの心理を表象しているのだ。

この「ピオトルケの視線は「中盤」においても、「スミシーの家」に迷い込む直前のステージ4におけるシークエンスで、あるいは「スミシーの家」の廊下で、繰り返し登場する。特に前者の「ピオトルケの視線」はスーの主観ショットとして強烈に描かれ、彼女を戦慄させるとともに「スミシーの家」のなかに追い込む。「スミシーの家」が(スーやロスト・ガールを含めた)彼女たちの「内面」そのものであることを考えると、これは非常に象徴的なシーンとも読めはしないか。

そして、「スミシーの家」に入ったスーの視点をとおしてまず受容者が目にするものは、映画のセットであったはずの「スミシーの家」が現実のものに変貌するシークエンスだ。ある意味、わかりやすく「内面」が「外界」に成り代わる瞬間である。「混乱するスー」の主観ショットによって受容者である我々も混乱するが、この混乱は長くは続かない。それに続くスーの主観ショットによって、我々は「スミシーの家」の内奥へと導かれ、薄暗い廊下を通ってベッド・ルームへと至る。そこでも多用されるスーの主観ショットの先に居るのは、ベッドに一人横たわりライト・スタンドを消すピオトルケの姿であるからだ。

「外界」に成り代わった「内面」を舞台に、リンチはなんら躊躇うことなく、一挙に「機能しない家族」の核心に、あるいはピオトルケ(という夫の抽象概念)との関係という「トラブル」の核心にたどり着く……なんらナラティヴな手順を追うことなく、しかし、スーの「目」を使って、ダイレクトに。

(この項、もう一回くらい続く?)

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