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2007年9月11日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(3回目) (8)

前にも述べたとおり、「スミシーの家」のキー・ワードは「匿名性」であり「一般性」だ。どこでもありえる場所であること……つまりそれは、「スミシーの家」が誰の「内面」でもありえるということだ。作品に則していうなら、「スミシーの家」はロスト・ガールという「匿名の一般的受容者の総体」の「内面」であるともいえる。要するに、「一般的受容者の抽象的概念」を表すロスト・ガールが、モニターを通じて映像に触れるとき、「感情移入」や「同一化」によって彼女の「内面」に形成されるモノが存在する場所が「スミシーの家」であるわけだ。

そして、その「スミシーの家」で、あるいはポーランドで繰り広げられるさまざまな「家庭内のトラブル」のヴァリエーションも、全部をひっくるめて「家庭内で発生するトラブルの抽象的概念」として捉えるべきものだと思う。個々の「トラブル」……「妻の不貞」「夫の不貞」「子供を生めない妻」「子供を作れない夫」「子供の死」などを、それぞれの登場人物の具体的な人間関係に帰属させて解釈することは、意味をもたない。リンチが一人の俳優に複数の役を演じさせた意図は、まさにここにあるはずだ。極論すれば、彼らが抱える「トラブル」をそれぞれ入れ替えたとしても、作品的にはあまり問題がないのではないか。

今更ながらだが、リンチ作品は本質的に抽象的なものだ。いくら表面上は具象的な作品と共通のルックを持ち、古典的ハリウッドの編集が施されていたとしてもだ。そこに繰り広げられる表現を、具象的な作品を理解する方法論をもって理解しようとしても、「混乱」しか見出せないのは当たり前である。「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」を時系列の整理によって理解することが不可能なのと同じように、「インランド・エンパイア」を人間関係の整理によって理解することは、おそらく不可能だ。

そういう観点からみるとき、登場人物の女性がすべて「娼婦」としてストリートに立つという表現も、抽象的かつ表現主義的なものとして捉えられるべきだと思う。つまり、家庭内でのトラブルに遭遇した女性が、傷つき、自らを「娼婦」であるかのように感じる……というのがリンチの表現から読み取れることだ。それは高級住宅に住むスターであろうが粗末な家に住むホワイト・トラッシュであろうが、アメリカであろうがポーランドであろうが、過去であろうが現在であろうが、もしかしたら未来だろうが変わらない。「インランド・エンパイア」におけるリンチの視点がきわめて女性的であり、基本的に「女性の心理・内面」を描くことを通じて「機能しない家族」を描いていることは、特筆すべきものとしてぜひ指摘しておきたい。

(なんかまとまんないなと思いつつ、続く)

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