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2007年9月 8日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(3回目) (7)

では、「ロコモーション・ガールズ」たちがたむろする「スミシーの家」とは、いったいなんなのか?

何はさておき、デイヴィッド・リンチが繰り返し提出する「家」に関するモチーフの延長上にあるもの……として捉えるのがまずは妥当だろう。クリス・ロドリーによるインタビュー集においてリンチ自身の言葉として語られているとおり、リンチにとって「家」とは「不幸が起こりえる場所」である。そしてその言葉に違わず、リンチ作品において、「家」は常に「不幸=トラブルが起きる場所」であり続けてきた。たとえば「ブルー・ベルベット」においても、重要なのは外見上の麻薬がらみのストーリーではなく、むしろドロシーの「家」の内部で発生するさまざまな「Something's wrongな状況」であるはずだ。

リンチがなぜこうしたオブセッションに執りつかれているのか。スティーヴン・スピルバーグやジョー・ダンテといったリンチと同世代の映画監督と同じように、アメリカ特有のサバービアという文化・生活的状況とそこから発生した固有の病理が、リンチの無意識にも反映されている……という大場正明氏の指摘は、非常に納得のいくものといえる。

だが、リンチ作品においてより重要なのは、「人間の内面」の象徴として「家」を捉えることが可能なことだ。人間の「内面」を外見から量り知ることの不可能性を、一見平和そうな「家」のなかで「何かおかしなこと」が発生している状況と重ね合わせることは、決して無謀なことではないだろう。「ロスト・ハイウェイ」における砂漠の小屋を、フレッドの内面の奥深いところにある「隠されるべきもの」が存在する場所として捉えることが可能なのと同じように、「スミシーの家」も「人間の内面」の象徴として捉えることが可能だと思う。

興味深いのは、「スミシーの家」が、その実体は「映画のセット」であることだ。その「セット」が撮影され、他のシーンと組み合わせて編集され、我々の前のスクリーンに映像として映しだされるとき、ひとつの「映画=世界」となって実在のものであるかのように認識される。それは人間が「何かを何かと看做す行為」の結果だ。そして、人間の裡に備わるそうした「看做す行為」を可能とする能力こそが、実は「感情移入」や「同一化」を成立させるものであること……すなわち「映画の魔法」を形成するものの一部であることは言うまでもない。そう考えるとき、そうした「能力」が潜む「人間の内面」を表す場所として、「スミシーの家」が選ばれるのはごく妥当なことにも思えてくる。

(きっと続くんじゃないかな?)

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