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2007年9月 4日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(3回目) (5)

では、いったい「ファントム」とは何なのか?

ここでは、演技者でも演奏者でも何でもいいが、その裡に潜み「肉声・肉体」を使って他者を魅了するモノの総体であると解釈したい。リンチ作品によくみられる、「概念」の人格化の例である。

「それ」はあたかも「催眠術」をかける(hypnotize)ように、観る人々を魅了(hypnotize)する。なぜそうなるのか、なぜそうなのかは明瞭ではない。おそらくは非常に古くからプリミティヴなものとして現われ、「肉声・肉体による芸」を成立させる要素のひとつとして、現在に至るまで連綿と続くものだ。さまざまな「メディア」はそれを増幅し、あるいは利用・搾取し、世にばらまく。

「カリスマ性」「スターが放つオーラ」……いろんな言い方で言い表わすことも可能だろうが、限られた言語に「それ(it)」を置換することで何かが抜け落ちてしまうのは、リンチによる映像表現の常である。そう、まるでクララ・ボウの「あれ(it)」のように。

そしてもちろん、「魅了するモノ」は「映画」の裡にも潜む。ハリウッドのいわゆる「スター・システム」は、それによって成立したといえるだろう。「それ」は、映画というメディアがもたらす「同一化」と並んで、観客の「同一化」を誘う要素でもある。ということは、つまり、リンチのいう「映画の魔法」の一要素でもあるということだ。

しかし、「インランド・エンパイア」では、「ファントム」は「うさんくさいもの」「怪しいもの」「得体の知れないもの」といった、どちらかといえばネガティヴなものとして描かれている。たとえば、Mr.Kのオフィスでスーが「サーカス」の団員たちのことを「見世物芸人、ジプシー、詐欺師(carnies, gypsies, con men)」と呼ぶことからもわかるように。

要するに、リンチが抱える映画についての「思い」を、ポジティヴに描けば「映画の魔法」になり、ネガティヴに描けば「映画の魔=ファントム」になるわけだ。同じものの違った側面という理解もできるだろうが、むしろ「魔法」だから「うさんくさくて怪しく」、「得体が知れない」から「魅了される」のだ……と考えたほうが自分としては納得がいくような気がする。

そう考えるとき、ニッキーの「登場人物から演技者個人へ回帰する」手段として、「ファントムの殺害」が必要になるのは当然であるように思える。そして銃弾を打ち込まれた「ファントム」が、崩壊する過程でさまざまに変貌していき、一瞬「道化師(crown)」を思わせる容貌となるのも。

……いや、だが、ちょっと待て。

(なんかワザとらしく引っ張りながら、続く)

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