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2007年9月17日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(3回目) (11)

「インランド・エンパイア」における「視線の問題」の補足およびそれに付随するものとかをばちょいと。

こうして「視線の問題」を考えていると、この作品における「クローズ・アップ」の多用は、また別な観点で捉えられるような気もしてくる。とたえ、DVカメラによる撮影という技術的な部分があるのはわかっているにせよ、だ。

これまた今更な話で恐縮だが、そもそも「クローズ・アップ」という技法が導入されたことが、映画というメディアの特性をかなりの部分で決定づけたといっても過言でない。いわばそれは映画が「舞台演劇の記録」から脱却した瞬間であったわけだが、それによってそれまでの平面的な画面構成の枠が取り払われて、「映像空間」という概念が発生した。加えて、「クローズ・アップ」がもたらした(あるいは要求した)リアルな演技への転換は、演技者の仕草や表情とその「視線」の組み合わせによる「主体(観る者)」と「客体(観られるもの)」の関係性の描写につながり、映像による登場人物の心理・内面描写への可能性が拓かれる。

こうした観点、特に「登場人物の心理・内面描写」の観点からからリンチ作品をみるとき、作品内で「誰が」「何を(誰を)」「どのように」観ているかが非常に重要になってくることは言うまでもないだろう。いや、リンチ作品でなくとも重要なのだが、リンチ作品が「非ナラティヴ」な手法によって登場人物の「内面」や「感情」を描いている以上、ナラティヴな方向からのアプローチに頼らず「リンチの表現」をダイレクトに理解するためには、「主体(観る者)」の仕草や表情およびその「視線」の行方を押さえることが、より貴重な手掛かりになるのは間違いない。

このあたりを如実に表しているのが、たとえば「インランド・エンパイア」における、ロコモーション・ガールズたちが「ロコモーション」にあわせて踊る直前のシーンだろう(1:25:53)。スーはロコモーション・ガールが会話をするの聞き、彼女たちを観ている。スーがここでロコモーション・ガールたちを「どのように」観ているか、これを理解するにはスーの表情の変化を細かくみていくしかない。スーがみせる「共感」「悲嘆」の表情の移り変わりこそが、彼女とロコモーション・ガールたちの関係性を、ひいてはこの女性たちの作品内における意味を説明するものに他ならないと思う。

当然ながら、リンチがこうした意図を持ってクローズ・アップを多用したかどうかは図りようがないし、ましてやそのためにDVカメラを使用したなどということは有り得ない。だが、もし仮にローラ・ダーンという女優の「特性」が、こうしたクローズ・アップの手法を多用した表現、もしくはそれによって表されるものへの展開へとリンチをして向かわせたのだとしたら、それはそれで面白い気がする。

(とりあえず「視線の問題」はおしまい、かな?)

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