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2007年8月

2007年8月30日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(3回目) (3)

「インランド・エンパイア」が内包する、もうひとつのテーマについてなんか。

David Durnell氏によるこのようなDumb Land」の紹介記事「がある。Durnell氏は、リンチが繰り返し提示する「機能しない家族(dysfunctional family)」というテーマが、「Dumb Land」にも表れていると指摘している。これは、「人間存在のなかに潜む愚かさや暴力性や原始性が、家庭という構造のなかで表出したものである」とするのがDurnell氏の観点だ。そして、この「機能しない家族」というテーマは、最初期の「グランドマザー」から始まって「イレイザーヘッド」「ブルーベルベット」「ツイン・ピークス」と連綿と受け継がれている、とDurnell氏は指摘する*

個人的には、このリストに「ロストハイウェイ」や「ストレイト・ストーリー」、ひょっとしたら「ワイルド・アット・ハート」まで含めてしまいところだ。なぜリンチが(映画だけでなく絵画も含めて)このモチーフに執拗にこだわるのか……ノア・バームバック監督による「ブルーベルベット」の再解題ともいえる「イカとクジラ」(2005)などもからめて、一度どこかで自分でもまとめてみたいような気がする。

それはともかく、では「インランド・エンパイア」においてはどうなのか……と振り返ってみると、これまたみごとに「機能しない家族」というモチーフが登場している。

もっとも明確に描かれているのが、「ロスト・ガール=スー=ニッキー」という「受容者=登場人物=演技者」のラインにおいてであるのはいうまでもない。どれが誰のことであるかは明確でなく、またアメリカでのことであるのかポーランドでのことであるのか、虚構であるのか現実であるのかについても判然としない。が、もちろんそれはまったく問題にはならない。「インランド・エンパイア」が提示しようとしているのはそうした”「個別例」の問題そのもの”ではなく、それら総体としての”「機能しない家族」の「抽象概念」”という「普遍的なもの」であるからだ。登場するさまざまな「個別例」は、その抽象概念を構成する部品=要素に過ぎないのだ。

この”「機能しない家族」の「抽象概念」”には、デヴォンの家庭も含まれるのは言うまでもなく、「インランド・エンパイア」では「機能しない家族」というモチーフがさまざまに変奏され、繰り返し提示されていることになる。そういう視点で「インランド・エンパイア」を観たとき、クライマックスの「ロスト・ガールと家族の邂逅」を、また別な文脈をもって捉えることができるのではないだろうか。

個人的に、不自然さを感じていたことがあった。「スミシーの家」の住人たちが家に入るに際して、他の家族に対して「ただいま(I'm home)」や「お帰り(You came back)」などではなく、「こんにちは(Hello)」と言っていることだ。スーもそうだし、ロスト・ガールも、ロスト・ガールの夫もそうだ。これも「機能しない家族」という視点でみたとき、一応の説明はつくように思うのだが、どうだろうか。

興味深いのは、キングズリー監督と照明係バッキー・ジェイが噛み合わないやりとりをするシーンだ(0:44:27)。てっきりリンチお得意の「成立しない会話」のモチーフであるのかと思っていたら、最後に助監督が監督に「彼は嫁さんともめてまして(He's got issues with his wife.)」**と耳うちする。監督が苦笑いをしてその場は終わるのだが、それに続くシーケンスでは、それが発端になった「うまく行かない撮影」のモチーフが出現する。「機能しない家族」は「機能しない撮影」を引き起こすのだ。

(どうだかわからんが、続く)

*同様の指摘は、他の映画評論家や映画学者によってもされている。たとえば加藤幹郎は「悪夢の詩学」と題するデイヴィッド・リンチ論のなかで、以下のように述べている。

----リンチ初期の映像作品『グランドマザー』(七○年)や『イレイザーヘッド』(七七年)から、『ブルー・ベルベット』(八六年)を経て『ワイルド・アット・ハート』(九○年)、『ツイン・ピークス』にいたるまで、伝統的なファミリー・メロドラマの約束事を利用しながら、リンチがつねにグロテスクな家族の崩壊劇を描いてきたことを指摘することはたやすい。
            (「夢の分け前」所載 ジャストシステム刊)

**あろうことか、日本語版DVDでは、この助監督の台詞に字幕がありません。あらま、である。

2007年8月29日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(3回目) (2)

そんなわけで、「インランド・エンパイア」における「時間」、そしてそれを象徴する「腕時計」のことが気になる今日この頃。ロスト・ガールによる「腕時計が必要」という示唆の台詞原文はこんな具合だ。

ロスト・ガール: Do you want to see?
ロスト・ガール: You have to be wearing the watch.
ロスト・ガール: You light a cigarette. You push and turn right through the silk.
ロスト・ガール: You fold the silk over and then you look through the hole.

この台詞を受けて、ニッキー=スーが腕時計を用意し、シルクに煙草で穴を開けそこから覗く。そして、ポーランドにおけるロスト・ガールとクリンプ=ファントムとの喧嘩シーン、男が妻を振り切って外出するというシーン等々がそれに続くというシーケンスになる(1:17:18)。

「映画」において、時間のコントロールが大きな要素のひとつとなるのはいうまでもない。それは「時間の制御自体が、映像表現の一部である」という考え方に基づいているといえる。どのカットをどのくらいの長さで残すのか、長回しで撮るのか短いカットをつなぐのか、そもそもまずどのシーンを残しどのシーンを不要とするのか、フラッシュバックなどを使うのかどうか……映像表現には必ず「空間の制御」とともに「時間の制御」がつきまとう

そう考えると、「映画についての映画」である「インランド・エンパイア」において、「シルクの穴から覗く行為=カメラを覗く行為」と「腕時計が必要=時間制御が必要」という二つの示唆がセットになって提示されるのは、ごく当然のことのように思えてくる。「空間芸術」と「時間芸術」などという概念を持ち出すまでもなく、この二つが(監督側からみた)映画製作の基本要素であるからだ。

当然ながら、この「時間」が「制約」となる場合もあり得る。端的なのは「上映時間」の問題で、よっぽどの例外を除いて映画の最終編集権がプロデューサーにあるのは、(内容面での決裁権だけでなく)興行収益にダイレクトに連動する「上映時間の決裁権」ともからんでのことだ。

北米版DVDに特典映像として収められている「More Things That Happened」には、ポーランドにおいてロスト・ガールがクリンプ=ファントムから腕時計を買うシーンが存在する。クリンプ=ファントムは、両腕に腕時計をいくつも巻きつけている。彼は「闇の時計屋」なのだ。クリンプ=ファントムが話すポーランド語をロスト・ガールは解さない(!)ので、二人の会話は英語で行われる(このシーンの英文トランスクリプト全文はこちら)。

ファントム: You want to buy a watch?
ロスト・ガール: I heard about them.
ファントム: What did you hear?
ロスト・ガール: That they are magic.
ファントム: Magic?
ロスト・ガール: Yeah, that they bring you good luck. Do they?
ファントム: They tell time.

またしても「魔法」だ! そして「映画の魔」であるファントムが、それを売っている……。

PS: そういえば、スーを訪ねてスミシーの家に「訪問者その2」がやって来るシーンにおいても、不自然なくらい彼女の腕時計がアップで映されていたのでありました。

(行き当たりばったりに、続く)

※各シーンのタイム・スタンプは北米版DVDのものです

2007年8月28日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(3回目) (1)

さて、小ネタ。

前項で触れた作品内の「時間経過」なのだが、とりあえず北米版DVDをば早送り逆回しスロー再生とネチネチぶん回し(笑)、もろもろ確認してみた。以下の文中のタイム・スタンプは北米版DVDのものであります。冒頭にAbsurdaとStudio Canalのロゴ表示が25秒入っていて、その秒数はそのまま加算して表示してありますんで、ヨロシク。

まず、単純に作品開始後「2時間15分25秒」経過したあたり、つまり午後9時45分から「インランド・エンパイア」を観始めて、ちょうど夜中の12時になるあたりのシーンは、クラブに入り込んだスー(娼婦バージョン)がカタリーナに「Mr.K」のことを教えられ、死ぬほど階段を登ったところにある彼のオフィスで身の上話をしている真っ最中。「ナニがどーなったかわかってもらおうと思って話すんだけどね。これがまた、ナニがどのよーな順番で起きたのやら、自分にはサッパリなのよ(I'm going to tell you so's you'll undersand how it went. The thing is, I don't know what was before or after)」ってなことを話をしている最中であります。

うーん、これはこれで意味深だけど、なんかイマイチ詰まらんな(笑)。

ということで、今度は作品内作品が始まったと思われるあたり、「訪問者その1(Vistor#1)」ことザブリスキーおばちゃんがニッキーの家を訪れるシーンの頭(0:08:49)を起点として、「2時間15分25秒」経過したシーン(2:23:49)をば観てみる。

……すると、おお、なんということでしょう(笑)。ちょうどスーがスクリュー・ドライバーでお腹を刺された直後、ドロシー・ラムーアの星の上で暑苦しく悶絶している最中が「午前12時」なのだな。とすれば、その後のシーンで「路上生活者 その2(Street Person #2)」のNAE姉ちゃんが言ってた「(今は)真夜中過ぎぐらい」という時刻は、ヒジョーに正しかったのだ。すごい体内時計だ(笑)。

その他、何度か画面内に「時計」が映るシーンがあるんだが、割と表示時刻はバラバラ。完全にリアル・タイムで作品が進行しているわけでもなさそうだ。

・スミシーの家の壁時計(1:04:02)「11:59:40」?
・「訪問者その2」の腕時計(1:58:34)「10:47」?
・無人の映画館の階上にある柱時計(2:39:49)「12:13」
・3回目の「Axxon N.」の後の柱時計(2:41:13)「12:13」
・廊下の柱時計(2:41:58)「12:22」

うーむ、ホームレスの体内時計のほうが正確かもしれん。そーゆー問題ではないかもしれんが(笑)。

(なんだかんだで続く)

2007年8月25日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (8)

ヨタ話はもそっと続く(笑)。

すでにどこかで指摘があるかもしれないが、「Axxon N.」の文字がある周辺では、「観ることと観られることの転倒」すなわち「主体と客体の転倒」が発生している。つまり……

(1) スーがスタジオに入ると、台本あわせを行っている自分たちの姿を見るというシーン
(2) 娼婦であるスーが、通りの向こう側に娼婦仲間と談笑している自分を見るシーン
(3) 誰もいない映画館で、ニッキーがスクリーンに映し出される自分自身を見るシーン。

……の計三回。

「Axxon N.」ってナニ? についてだが、これは映画のシーン撮影開始時に監督がキューを伝える「Action!」のことではないかという説がある。まあ、これについては真偽のほどは定かでないが、いずれにせよ「Axxon N.」はまさしく「『演技者』が『登場人物』へと移行する瞬間」、つまり「主体と客体が転倒する瞬間」を表すマーキングとして理解できるような気がする。

そして、この「Axxon N.」が表れる前後のシーンおよび「シルクの穴を通して世界を観る」シーンは、ともに「インランド・エンパイア」におけるネスティング構造の括弧"()"が発生するポイントとして、編集面から作品構造をみるうえで足掛かりなる可能性があると思う。こうした「括弧の発生」に関して、実は過去作品に関する限り、リンチは律儀に映像文法を守ってきた(その括弧がなにを意味するかの違いはあっても)。自身の編集であることや作品内容を考慮しつつ、さて、今作ではそのあたりはどうなっているか。三回目の鑑賞ではそのあたりを中心にして確認するつもり。

ところで、(1)シーンや(2)のシーンにおいては、「観られる側の消滅」つまり「客体側の消滅」や、「観る側と観られる側の転倒(あるいは入れ替わり)」が描かれているのに対し、(3)のシーンでは若干、構造が違うように思う。だいたい、「Axxon N.」が出現ポイントも、映画館のスクリーンに自身が映っているのをニッキーが観た「後」だったりするのが、こちらの妄想をいろいろ喚起してくれるのだな(笑)。

また、「括弧の発生ポイント」として、当然ながらロスト・ガールがモニターを観ているシーンも含まれてくると思うのだが、もっとも後ろの受けの括弧")"となるはずの「ロスト・ガールとニッキーの抱擁シーン」において、モニター上にこの二人の姿が映しだされているのも「観る側観られる側の問題」という観点からすると意味深だ。そして、このとき、「モニターに映る二人の背後に映っているモニターの中に、また二人とモニター画面が映る」という具合に「合わせ鏡の無限」が発生しているはずなのだが、これも「受容者の数だけ世界=映画の解釈(誤読)が発生している」ことの表れとして、象徴的に読んでしまいたいところだ。

それにしても、最後、スーが「Rabbits」の部屋から照明の点いた映画館の天井を見上げるシーンは、このロスト・ガールの括弧の外にあるのだな。

あとは、腕時計に象徴される「時間」の要素だろうか。ロスト・ガールがスーに「時計を用意しろ」と伝え、その後スーが腕時計を腕に巻くシーンが作中にあるが(DVDの未公開シーンとあわせて考えると)、この「腕時計」が象徴するものがそれなりに重大な要素となっているような気がする。

それにしても、9時45分から「インランド・エンパイア」を観始めると、確かに観終わるのは「真夜中過ぎ」だな。実時刻にあわせて鑑賞してみて、午前12時過ぎに作品内では何事が発生しているか、ちょいと確認してみたい衝動にかられるのだが。

なんか駆け足になったけど、ということで三回目に突入です(笑)。

2007年8月22日 (水)

リンチ系ヒマネタ (4)

ほら、忘れた頃に続いた(笑)。

リンチ作品における「大胆な省略を受けたストーリー」のことについて、蛇足の補足なんかしてみる。

「映像における表現主義」のこととかで触れたように、リアリズムを基調とした作品の中で、広い意味での「表現主義的な映像」がワン・ポイント的に使われたりするのは、もうごく自然なこととして受け止められてる。要するに「登場人物の心理描写」が必要になったときなどに、それを台詞などで説明するのではなく映像として提示するために「表現主義的な映像」が使われていて、創り手も観る側もそれになんら違和感を感じてない、とゆーことですね。

さて、では、こうした観点からリンチ作品をみたらどーなるか。ちょうどそのまったく逆な感じで、ワン・ポイントじゃなくて全編が「登場人物の心理描写」で出来ている……と捉えることもできなくはないんじゃないかと。つまり、外的リアリズムに沿った作品であれば延々描かれているはずの「ナニが起こり、ナニゆえに登場人物がそーゆー心理状態を持つに至ったか」という部分がバッサリと省略されて、作品の外にポイと放り出されちゃってる……と、まあ、そんな具合に理解できるかもしれないと考える次第。

もちろん、なんらかの形でストーリーの一部が省略されている映画ってのは、枚挙に暇がないほど存在する。だけど、その省略された部分においてナニゴトが起きたか、観客は想像でほぼ補えるのがフツー。というか、そういうふうに作られている。単に余計な描写がカットされてるだけだったり、観客の想像にまかせたほうが効果的だったり、省略されている理由はさまざまであるにしても。

ところがリンチ作品においては、省略されたストーリー部分が大き過ぎて(笑)、実際に何事かが起きたかの細部については判然としない事柄が多い。多いったら多い。でも、それがまったく問題にならないのは、リンチが描こうとしているのはそうした「登場人物の心理状態」そのもののほうであるからでありますね。

……なんかあれば続く

2007年8月21日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (7)

雑感めいたことなど。

まずは、海外の関連掲示板で拾った小ネタ。「インランド・エンパイア」に登場する「47」という数字について。実はこのようなサイトが存在する。

このサイトによれば、人間が何の法則性もないランダムな数字を決めなければならないとき、もっとも思いつく頻度が高いのが「47」という数字であるらしい。その真偽のほどは定かでないし(日本では「ウソのごさんぱち(5・3・8)」っていうし)、リンチがこれを踏まえたのかどうかも不明だ。だが、もしこの説に従うとすれば、「47」という数字はなんら特殊な意味をもたない「一般性」を表していることにならないだろうか。「スミシーの家」に続く、もうひとつの「匿名性」である。

つまり、作中に出てくる映画のタイトル「47」は、「どの映画でもなく、同時にどの映画でもあり得る」ということだ。転じて、「映画全般を指すタイトルである」という言い方もできるかもしれない。あえて限定するとすれば「製作が中断された映画全般」ということになるが、となると「クィーン・ケリー」がそこに含まれるのは当然だし、リンチ自身の「ロニー・ロケット」もそれに連なるのだろう。

また、扉に「47」という番号のついた部屋も、「匿名性」という点で「スミシーの家」と同義であるといえる。そう考えると、この二つの部屋がつながっていることには何の不思議もない。もともと、このような「なんらかの意味で同義の場所がつながる」という表現は、リンチ作品によくみられる。「ロストハイウェイ」における、「アンディの家の2階」が「ロストハイウェイ・ホテル」に変貌するシーンがその好例だ。

ところで、冒頭に挙げたサイトでは、日常における「47」という数値の目撃例を募集している。面白そうなので、自分も注意して捜してみようと思っているのだけど、日本でも見つかるかどうか。

(まだ続く……のか?)

2007年8月20日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (6)

リンチは「インランド・エンパイア」のことを「今まで自分が作ったなかで、もっともシンプルな作品」とコメントしているらしい。では、いったい、どこがどのようにシンプルなのか?

「ロストハイウェイ」においても「マルホランド・ドライブ」においても、リンチ特有の非ナラティヴな表現を理解した先に浮かび上がる、いわば「大胆な省略を受けたストーリー」とでもいうべきものが存在した。そうした観点に立ったとき、「インランド・エンパイア」が備える「(もっとも上位の視点からみた)省略を受けたストーリー」は、確かにいままでのリンチ作品のなかでもっともシンプルだ。前項まで論じてきたように、この作品は「映画を観ている観客が、それを観終わるまでの話」でしかないのだから。

もちろん、リンチ作品をこのようにナラティヴな観点から捉えることの「不毛さ」は、あらためて指摘するまでもない。それでは、掬いとれるものよりも取りこぼすもののほうが多すぎる。そういう意味では、「ロストガールが『47』の主演女優その人である」とする今野雄二氏の読み方も、ナラティヴな観点に傾きすぎている(かつ、「複雑」すぎる)ように思え、個人的にはあまり魅力を感じない。

そもそもリンチの非ナラティヴな作品に対して、「表面上のストーリー」を追いかける方法論が無意味であることはいうまでもない。しかし、同様に、最初から「省略されたストーリー」が存在することを当然であるかのように想定し、それを読み取ろうとする方法論も、やはりナラティブにリンチ作品を理解しようとしているという点では等価であり、本末転倒なのではないだろうか? それはいわゆる「謎解き」の範疇に収まり、「解釈」の域ではないような気がする。「省略されたストーリー」は、リンチの映像表現を「映像表現」として解釈した後にレファランスとして副産物的に姿を現すものであり、それ自体は作品の本質ではないはずなのだから。

(まだ続く……かな?)

2007年8月19日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (5)

「インランド・エンパイア」の構造をもっとも上位の視点からみるとき、そこに提示されているのはTVモニターに映し出される映像を観ているロストガールの「意識の流れ」や「心象風景」だ。そういう点では「ロストハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」と変わらない。

ただし、この二作品はフレッドやダイアンといった主人公の「意識の流れ」のみを描いており、主人公の「感情」に基づいて、作品内で発生するすべての事象を理解可能だった。「インランド・エンパイア」が大きく異なるのは、前述したように、主人公の自己投影の対象が同時に他者の自己投影の対象でもあり、かつその他者自身に主人公が自己投影を行っていることだ。こうした何層にもわたる自己投影のネスティング構造は、過去のリンチ作品にはなかった。

こうしたネスティング構造の結果、「登場人物=スーザン」に投影されている思いがニッキーのものなのか、それともロストガールのものなのか、あるいはロストガールが自己投影しているニッキーのものなのか、まったく判然としない。もちろん、それこそがリンチのいう「映画の魔法」の本質である。創作者と受容者が「世界=映画」を共有体験すること、そしてそれを可能にする映画というメディアのこと、「インランド・エンパイア」はそういったものについての映画なのだから。

そして、我々は「インランド・エンパイア」という「世界=映画」によって、「『世界=映画』を体験すること」を体験する……そこに、もうひとつの新たなネスティングを発生させながら。

さて、この映画のキャッチ・フレーズである「A WOMAN IN TROUBLE」についても自分の考えを述べておこう。まず「トラブルに巻き込まれた女性」とは、いったい誰なのか? 作品の基本構造においてロストガールの軸が「上位」であることからして、第一義的にはロストガールを指すと考えるのがもっとも妥当ではないかと思う。

しかし、では、ロストガールが巻き込まれた「トラブル」とはなんなのか? ここでは、モニター上で繰り広げられる「世界=映画」のなかで受容者であるロストガールが「体験」したものだ……というふうに反語的に捉えておきたい。つまり、ロストガールには現実的なトラブルは、一切、降りかかっていない。にもかかわらず、涙を流すほどの「感情移入」を彼女に促し、リアルにトラブルを「体験」させるのが「映画の魔法」だということだ。

映画が終わり「世界が終わった」とき、ロストガールは彼女の現実に帰還する。そこには、愛する男性や息子の抱擁が待っているのだ。

(続く)

2007年8月18日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (4)

もうひとつの「演技者=受容者」の等式についても述べておこう。つまり、私人としての「演技者」に対する「受容者」の同一化についてだ。

「インランド・エンパイア」においてそれを端的に表しているのは、ダイアン・ラッド演じるマリリン・レーヴェンスが、自分のTVショーにニッキーとデヴォンをゲストとして迎えるシークエンスだろう。

「火のないところに煙を立てる」のがレーヴェンスのような芸能記者の仕事であるならば、それを「スターが夢を作り、夢がスターを作る」といった美辞麗句で飾り立てるのが芸能業界だ。では、その「夢」とはいったい誰がみている夢なのか?

それが「不特定多数の受容者」の「夢」であることは論を待たないだろう。たとえ、それがもともとは「捏造」されたものであってもだ。ポジティヴなものであれネガティヴなものであれ、観客は演技者の私的な部分さえも「ストーリー」として共有し消費する。

そして、不特定多数によって共有された「ストーリー」(「イメージ」と言い換えてもいい)は、ときとして「作品」に反響・反復される。あるいは、逆に「作品」から個人の「ストーリー」へと反響・反復が発生する。そう、ちょうどニッキーとデヴォンの関係のように、あるいはドロシー・ラムーアのサロンのように

もちろん、この「同一化」は一方通行のものだ。受容者が特定の演技者に思い入れることはあっても、演技者が不特定の受容者に同等の思い入れを持つことは、通常あり得ない。ここにおける「主体」はあくまで受容者であり、「客体」は必ず演技者だ。「ロストガール=受容者」を軸とした視点が「上位(メタ)」であるとする理由のひとつはここにある。

(続く)

2007年8月17日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (3)

続いて演技者であるニッキーの視点からの軸について論じるが、これには多くの言葉を必要としないだろう。さまざまな紹介記事において「演技者=ニッキー」と「登場人物=スー」の混乱については触れられている。これまた巷に流布する多くの感想でも言及されているように、こうした演技者と登場人物の混乱を描いた作品は、映画に限らず多く存在するからだ。

補完する事項があるとすれば、前々項で述べた「映像メディアにおける同一化の優位性」および「映像文法」に関連してだろう。いろいろな映像文法のテクニックは、映像が意味するものを明確に観客に伝えるためにある。逆にいうと、そうした「映像文法」が故意に無視されれば、我々は簡単に作品内の「時と場所」「現実と非現実」に関する「見当識」を失う。映像メディアを使って、「(作品内の)現実と非現実」の間に混乱を引き起こすのは非常に簡単なのだ……それも映像の備える「同一化機能」によった、ものすごくリアルな混乱を。

また、「スタニスラフスキー・システム」を基礎とする各種の「メソッド演技」については、いまさら詳述する必要もないだろう。登場人物の内面を解釈し、演技者の実体験をもとにした「情緒の記憶」を用いる演技法は、いまやハリウッドを含めてスタンダードなものといっていい。

「ニッキー=演技者」が「スーザン=登場人物」を演じるとき、そこにはニッキーによるスーザンという人物の解釈と、ニッキーの実生活における体験からくる「情緒の記憶」が介在する。言い換えれば、これは演技者による登場人物への「自己投影」であり「同一化」だ。スーザンは、ニッキーの「代弁者」であり「代行者」である。こうして「演技者=登場人物」という等号式が成立する。

さて、これで「受容者=登場人物」「演技者=登場人物」という二つの等号式ができた。当然ながら、この二つの式を統合すれば「演技者=登場人物=受容者」という式が導かれる。つまり、「登場人物=スーザン」を仲介して、「演技者=ニッキー」と「受容者=ロストガール」はつながり、同一化している。「ニッキーとロストガールの抱擁」は、この「同一化」の映像で表現したものだ。このスーザンを核にした二方向の「主体・客体のネスティング」こそが、「インランド・エンパイア」の基本構造ではないだろうか。

(続く)

2007年8月15日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (2)

前項で前述したように、「映画=世界」には現実が抱えるさまざまなトラブル(を含める出来事}が投影される。なぜなら、そうした「映画=世界」を創る者もまた一個の人間存在に他ならない以上、創られた「映画=世界」には創作者の直接的間接的な体験がなんらかの形で投影されざるを得ないからだ。創作者はそうした自らの体験を咀嚼し、解釈し、作品を創造する。そういう意味では、創作物は通常、創作者の意識(あるいは無意識)の範疇を出ない。創作物にそれ以上のもの付け加え普遍性を与えるのは、受容者による「解釈」(あるいは「誤読」)だ。

そして、これも前述したように、受容者の作品に対する「解釈=誤読」も、自己の直接的間接的体験に基づいて行われる。言い換えればそれは、登場人物ひいては作品に対する受容者の自己投影だ。「インランド・エンパイア」におけるニッキー=スーの言動には、受容者であるロストガールによる体験に基づいた自己投影、すなわち「解釈=誤読」が行われている。つまり、リンチが「インランド・エンパイア」で映像として提供しているのは、TVモニターに映しだされる「映像」に対するロストガールの「解釈=誤読」の結果だ。

言葉を変えれば、「受容者=ロストガール」を軸にした視点からみた場合、「インランド・エンパイア」はロストガールの「意識の流れ」や「心象風景」を描いているともいえる。同一化の対象である「登場人物=スー」は、ときとしてロストガールの代弁者になり、代行者となる。たとえば、階段を上った部屋で「登場人物=スー」が「眼鏡の男」に話す身の上話は、果たしてすべて「登場人物=スー」あるいは「演技者=ニッキー」自身のことだろうか? そこには、「受容者=ロストガール」の意識が反映されてはいないだろうか?

この「主体・客体のネスティング」こそが、「インランド・エンパイア」の持つ構造の本質であるような気がする。「主体と客体の転倒・混同・混乱・同一化」は、「登場人物=スー」と「演技者=ニッキー」の間にとどまらず、「受容者=ロストガール」と「登場人物=スー」の間でも同時に発生しているのだ。

(続く)

2007年8月14日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (1)

では、再鑑賞後に考えたあれこれをば。

まず作品の基本的な構造だが、「インランド・エンパイア」は大きく分けて二つの軸を持っている。すなわち

・ロストガール(受容者)からの視点の軸
・ニッキー(演技者)からの視点の軸

の二つだ。

「インランド・エンパイア」は、この二つの軸のどちらからもアプローチ可能な複合的構造をもっている。つまり、どちらの視点からも観ることができるわけだが、この二つの視点は「スーザン(登場人物)」を中心にしてあちこちで絡みあう構造になっており、いずれにせよ両方の視点からのアプローチが必要になる。ただし、ロストガールを軸とした視点からアプローチしたほうが構造的にわかりやすく、かつより上位(メタ)に捉えられる部分があると思われるので、ここではそういう順序で論じる。

そもそもロストガールとはだれか? ここでは「不特定多数の一般的な受容者の総体」として捉えたい。つまり、実生活では日常的な家庭内のトラブルを抱えるごく一般的な観客の典型例であり、「”スミシーの家”に住む(文字どおり)匿名の存在」である。彼女が直接的間接的に抱えるトラブルとは、「インランド・エンパイア」で繰り返し登場する「家庭内暴力」「不倫」「性生活の不具合」「殺人」など、要するに今ここにいる我々の現実に偏在するものだ。

そして、「一般的な受容者」である彼女の観ている「番組」には、彼女が直接的間接的に体験しているのと同様のトラブルを抱える人物たちが登場している。もし、ある作品がなんらかの人間存在を描いているのであれば、受容者が現実に体験するトラブルに類似した問題を抱える登場人物が現われるのは必然だ。「東欧訛りの新しい隣人」がニッキー=スーに伝えるように、「結婚」と「殺人」の物語が、ロストガールの観るモニターに映されるいろいろな映像において、さまざまな形で繰りひろげられる。ロストガールは、モニターのなかの登場人物たちに共感し、感情移入し、同一化し、登場人物たちが住む「世界」に没頭する。

デイヴィッド・リンチは「映画」を「ひとつの世界」と捉え、映画を観るという行為をその世界を「体験」することに例えている。この例えは、自らの発言や著作で繰り返し言及されており、リンチが抱く映画というメディアに対する基本的な考えであることがうかがえる。それこそがリンチの言う「映画の魔法」なのだろう。そして、その例えのとおり、ロストガールはモニターの映像を観ることによって、「世界」を「体験」しているのだ。その「体験」とは、「受容者」による「登場人物」に対する「感情移入=同一化」によってもたらされるものに他ならない。そこでは、「登場人物=受容者」という等式が成立している。

ところで、「同一化」というのは、たとえばベラ・バラージュが「映画の理論」(1949)で述べている映画というメディアが持つ特性のことだ。つまり、映画は文字等の他メディアに比べて、「感情移入装置」として優位にあるという指摘である。バラージュはその優位性の理由を、映画が備える「カメラの視点」に求めた。映画のカメラは、あるときはロングの視点によって全体的な姿を描き、あるときはクローズアップによって一部を拡大強調して切り取り、製作者の意図にしたがって観客の感情を喚起させつつ「世界」を観せる。また、ときとして登場人物の視点となり、彼・彼女が見るものを受容者に「体験」させるとともに、彼・彼女が抱く感情を受容者に伝える(もちろん、ここには映像文法が介在する)。リンチが「映画を観ること」を指していう「世界を体験する」とは、こうした映画というメディアが持つ特性への言及以外のなにものでもない。

この「カメラの視点」を念頭におくと、「インランド・エンパイア」に登場する「煙草の火によって開けられたシルクの穴から覗き見る行為」が何を指すのかは明快だろう。これはまさしく「カメラから覗く行為」ではないのか? そうして覗かれた「モノ」は現実から切り取られ、まったく別の独立した「世界=映画」となるのではないのか?

(続く)

追記:キャスト表等をみる限り、「インランド・エンパイア」に登場する「スミシー」のスペルは「Smithy」であり、映画スタッフが何らかの理由でスタッフ・ロールに名前を出さないことを希望するときに使われる「アラン・スミシー(Alan Smithee)」(あるいはAllen Smithee,、Alan Smythee、Adam Smithee)とは異なっている。だが、そもそもアラン・スミシーという架空名は、「The Alias Men」のアナグラムにであると同時に、「実在するとは考えられない名前である」という理由で全米監督協会(Directors Guild of America)によって選ばれている。つまり、Smitheeというのは人名としてはあり得ないスペルなのだ。自作内で「スミシー」という名前を使用するに際して、リンチは人名として実在の可能性がある(少なくとも「屋号」としては存在する)「Smithy」に置き換えたのかどうか? とりあえず、ここではその方向で話を進める。

2007年8月12日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (7)

えー、北米版DVDを入手できたので、自宅で再見。ああ、途中でちょっと止めて飲み食いできるトイレに行けるタバコも吸えるで、楽チンです、ごめんなさい、リンチ。

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しかし、アレだなあ。観返してみて気がついたんだけど、「ニッキー=スーとロストガールの抱擁」のシーンで流れる曲「Polish Poem」の歌詞って、すんげえ意味深というか、見方によってはほとんど映画の内容説明に近いんではないかしらん? これって日本語字幕では訳されてたっけか? もし訳されてなかったとしたら、日本の観客には相当なハンデかもしれんなあ。

その他、当然ながら、細かいシーンの確認やつながりが確認できました。そうか、あのカットって「映画館の天井」だったんだとか、あの腕はあの人の腕だったのかとか、初見ではわかんなかったよ。やっぱ、観てるようで観てないもんだ。

その他、いろいろ細かく軌道修正中だけど、「映画作品と演技者と受容者の関係性、そしてその関係を成立させるもの」を描いているという基本的な理解は変わらずで、も少し考えがまとまったら追記してみるです。

2007年8月 8日 (水)

「インランド・エンパイア」北米版DVD早売中?

IMDbの掲示板からの情報なんだけど、北米では一部店舗で「インランド・エンパイア」のDVDが早売りされている模様。

コレがゲットした方がアップした証拠写真。

inlandempire_dvd

くわー、8月14日発売だろーがー!

お盆休みは南極まで避暑旅行に行く予定なので、途中北米に立ち寄れないか航空会社に問い合わせてみたが、残念ながら飛行機の行き先変更はきかないそーだ(大ウソ)。

どうやら、とあるお店の発売日なんか気にしてないおポンチな店員が、入荷したDVDをそのまんま店頭に並べてしまったのがキッカケだったと推察される。その後、掲示板の書き込みを読んでお店に問い合わせるリンチ・ファンが全米各地で続出、まんまと店の倉庫からDVDをせしめる者がチラホラ。なかには女性店員を問いつめて、ロスト・ガールのように泣かせてしまう危ないお方も出たとか出なかったとか(笑)。

いずれにせよ、米アマゾンで予約してたヤツは(自分も含めて)怒る怒る。あんまりクヤシイから、配送方法をStandardからExpedited International Shippingに変更してしまったおバカなワタシなのであった(笑)。これでお盆明けにはゲットだ。

8/11追記: あろうことかあるまいことか、すでに都内某所で売られているという情報をいただき、自分も確保してまいりました。情報提供感謝。えーい、米アマゾンはキャンセルだ(笑)。

2007年8月 3日 (金)

「インランド・エンパイア」その後×4

東京では今週末から新宿でも上映が始まるということで、これで劇場に行きやすくなったと喜んでいる大山崎でございます。レイト・ショーとかオールナイトとかもやっていただけるともっと行きやすくなるんですが、そりゃゼータクとゆーもんですね。池袋文芸座に続いて早稲田松竹でもリンチ作品の上映があるよーで、喜ばしい限り。

んで、もちっと「インランド・エンパイア」が取り扱っている「感情移入」と「映画の魔法=映画の魔」のことなんか補足してみる。どーせなら、ちびちび書かずにまとめて書けよ、自分(笑)。でも、こーやってぐだぐだ牛が反芻するがごとく妄想をめぐらせることができるのも、リンチ作品の醍醐味ということで……はっ! あの「牛を連れたプロモ」はそーゆー意味だったのかっ?(笑)

まず、「観客の登場人物に対する感情移入」のことなのだけど、これは言い換えれば「観客が登場人物と自分を混同する=同一性を持つこと」であるといえるのではないかと。いわゆる「映画を観て、自分が登場人物になったような気分になる」ってヤツすね。

「インランド・エンパイア」におけるロスト・ガールと「47」の主演女優との混同は、こうした「混同=同一性」の「映像的示唆」であると大山崎は考えておったり。とりあえず、いまんとこ、「ロスト・ガールは不特定な観客全般の象徴である」方向で受け止めてますということで。

こうした「同一俳優による同一性の映像的示唆」あるいは「異なった俳優による不同一性の映像的示唆」は、リンチ作品における「表現主義的手法」のひとつとして、「ロストハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」ですでに表れてるですね。前者がべティとダイアンの関係、後者はフレッドとピートの関係という形で。これは、もはやリンチの常套的表現といえるんではないかと思ったり。

次に「俳優の登場人物に対する感情移入」についてですが、「俳優が登場人物と自分を混同する=同一性を持つ」というのは、すなわち「演技」のことに他ならないと思うわけですよ。すんげえ単純だし、ある意味、古典的なテーマだけど。

この関係を補足するシーンがあるとしたら、「ニッキー=スーが、映画館のスクリーンに自分のリアルタイムな姿が映し出されるのを観る」シーンについてかなーと。このシーンは、「ロスト・ガールが『47』に現れるを自分の姿をTVモニター上で観ている」シーンと対応していると考えると、単純な「演技者が感じる主体と客体の転倒」という問題にとどまらないんじゃないかとゆー気がするです。たとえば、人間の持つ「何かを他のものになぞらえる能力とはナニか」とか、「創造と受容の関係性」とかみたいなとこを含めて。

でもって、「観客の俳優個人に対する感情移入」に関しては、日本のマスコミによる裕木奈江の取り上げ方を考えるとわかりやすいんではないかと。「日本でバッシングを受けてた女優が姿を消したと思ったら、ハリウッド映画に抜擢されて……」とゆーストーリーを一所懸命作り上げようとする作業が、まさに今現在、進行中でございマスね。いや、そのこと自体の是非をいいたいわけではなく、マスコミを含めた「映画の周辺」が、「私人としての俳優」に関する「ストーリー」や「伝説」や「神話」を作るべく機能している、そして観客はそうした俳優個人の「ストーリー」や「伝説」や「神話」にも感情移入する……ということの例証なんではないかとゆーことで触れてみました。

ま、とりあえずはこんなとこかしらん。またなんか思いついたら。

2007年8月 2日 (木)

「映像における表現主義」のこととか

えー、ものはついでで「映像における表現主義」について、ざっとおさらいなんか。

そもそもは1920年頃に現われた「ドイツ表現主義映画」というのがそのスタートになるわけだけど、じゃあこの時期にドイツで作られた映画のどれが表現主義映画かとなると、実は人によってバラバラだったりする。ヴィーネの「カリガリ博士」(1920)は鉄板として、ムルナウの「吸血鬼ノスフェエラトウ」(1922)あたりはともかく、同じくムルナウの「最後の人」(1924)やラングの「メトロポリス」(1926)までもドイツ表現主義映画に含める人までいるくらい。

ま、このあたりは「作品全体を通して表現主義的な手法で描かれているものだけに限定」して考えるのか、それとも「一部にでも表現主義的な映像があればその範疇に入れる」と考えるのかの違いであるように思う。コア作品と周辺作品の関係ちゅうヤツでありますでしょーか。

個人的には、「ドイツ表現主義映画」と限定して呼ぶ場合は、前者の定義に従うのがどちらかといえば納得がいく感じ。この定義に従うなら純粋な「ドイツ表現主義映画」と呼べる作品は、「カリガリ博士」、「ゲニーネ」(1920)、「朝から夜中まで」(1921)、「裏町の怪老窟」(1924)等の一握りの作品しか存在しないということになる。それにつけても、現在、日本で手軽に実際の映像を観る機会があるのは「カリガリ博士」ぐらいなものだというのは、ちょいと不幸なことかもしんない。どっか酔狂な会社が他の作品も500円DVDで出したりしませんでしょーかね(笑)。

んじゃ、「最後の人」とか「メトロポリス」とかはなんなんだっちゅーと、「映像による表現主義」が普遍化し、リアリズムを基調とした映画のなかに混在して用いられるようになる過程の作品……というのが個人的な捉え方であります。つまり、登場人物の心理描写が必要になったときに、ワン・ポイント的に表現主義的な映像が使われているということですね。「最後の人」で主人公に向かってホテルの建物がぐももももーんと傾いて迫ってくるシーンとか、「ヴァリエテ」(1925)で目玉がいっぱい多重露光でべももももーんと現われるシーンとかはそーゆー例なんじゃないかと思うわけでありますが、どんなもんざんしょ。

lastlaugh

でもって、最終的にこうした映画の製作にからんだドイツ人スタッフがナチスを逃れて外国に渡り、めでたくハリウッドも「表現主義的映像」の方法論を手に入れた……という流れなんじゃないかと推察する次第。実際は「カリガリ博士」の公開直後、各国でひょこ歪んだセットを使った映画がパラパラと作られたみたいだけど(溝口健二の「血と霊」(1923)とか)、どこまで表現主義的な手法に対する本質的な理解が得られていたのやら、怪しいものも混じっていた感じではあります。セット傾けてりゃ表現主義だっつーもんでもないぞっちゅうことですね。聞いてるか、エド・ウッド(笑)。

詳細に検討したわけではないので間違ってるかもしれないけど、「映像における表現主義」は少なくとも1940年代にはハリウッド映画を含めて、ごくフツーに使われるようになっていたというのが自分の印象。で、以降、いかにも「表現主義でございッ!」ってな感じの表現主義的映像が次第に姿を消し、 非常にさりげなーく何気なーく使われたりするようになり始める。言い換えれば「浸透と拡散」「普遍化と常套化」が達成され、 映画がまたひとつ「表現の幅」を広げた……ということになるわけでありますね。

んで、デイヴィッド・リンチの諸作品における「表現主義的映像」もまた、その多くがこの「スティルス型表現主義」 (笑)に類するんじゃねーのと思ってたりするのでありました、はい。

2007年8月 1日 (水)

コミック版「ツイン・ピークス」ですかあ?

本日のdugpa.comネタ。

日本版の予約もすでに始まっている「ツイン・ピークス決定版黄金箱」だが、当初、特典としてサード・シーズンのグラフィック・ノベルが付録としてつくという企画もあったみたいだ。

結局、リンチのOKがとれなくてポシャっちゃったみたいなんだけど、詳細に関してはこちらの7月30日付けの記事をばドゾ。

企画の仕掛け人だったMatt Haley氏は、DCやらマーヴェルなんかのアメコミとかで活躍している画家みたいなんだけど、そっち方面はあんまり詳しくないんで、ちょっとよくわからず。そのうち詳しいヤツに確認とってみますわい。なんでもこの方、初放映時からバリバリの「ツイン・ピークス」ファンなようで、今回のコミック企画を思いついてから各方面の関係者と精力的にコンタクトを取りまくったみたい。

たまたま初めにコンタクトをとったパラマウントの女性担当者が、以前一緒に「スーパーマン」関連の仕事をした人だったらしく、そのおかげで門前払いもくらわず幸先のいいスタートを切れたっぽい。ただし、その時に「TP関係の版権クリアはなかなかキビしいわよ」という警告を受けていたそーだが、まあ、結果的にその言葉通りになったわけだ。

Laurasketch

その後、アンジェロ・バダラメンティやらシェリル・リーやらのOKをとったり、 DVD版のプロデューサーと連絡をとって付録の話の了承をとったりする一方、TVシリーズの副プロデューサー兼ストーリー・エディターだったBob Engelsとともにサード・シーズンのアイデア出しをしたりして、着々と企画は進行していた様子。

サード・シーズンはセカンド・シーズンから10年後の設定で、FBIを退職したクーパーは薬局を開き、トルーマン保安官はレスキュー隊員になり、今度は赤毛の「シェリル・リー」が登場してまたもやキラー・ボブに殺され…… 等々のアイデアが出ていたらしいのはいいけれど、「クリーム・コーンの惑星から来たボブとマイク」ってのはいったい何ですか、それ(笑)。その他、トルーマン元保安官がマイクにカチ込みかけて、ブラック・ロッジまで追い払うってなシーンも考えてたらしいんだが、詳細はよくわからず。

bobsketch

マーク・フロストのOKもとってトントン拍子に話は進み、さあ、最後の本丸であるリンチ……というところで、丁重なお断りをいただいてしまったのだそーだ。どーやらTV番組の権利はABCに、ソフト化の権利はパラマウントにあるものの、関連企画のチェック&承認の権利自体はマーク・フロストとリンチが保持しているということみたい。で、前々からの発言どおり、残念ながらリンチは現在の形で「ツイン・ピークス」を終わらせる意向のよーであります。

てなわけで、幻と終わった「ツイン・ピークス サード・シーズン」グラフィック・ノベルのお話でありました。

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