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2007年8月20日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (6)

リンチは「インランド・エンパイア」のことを「今まで自分が作ったなかで、もっともシンプルな作品」とコメントしているらしい。では、いったい、どこがどのようにシンプルなのか?

「ロストハイウェイ」においても「マルホランド・ドライブ」においても、リンチ特有の非ナラティヴな表現を理解した先に浮かび上がる、いわば「大胆な省略を受けたストーリー」とでもいうべきものが存在した。そうした観点に立ったとき、「インランド・エンパイア」が備える「(もっとも上位の視点からみた)省略を受けたストーリー」は、確かにいままでのリンチ作品のなかでもっともシンプルだ。前項まで論じてきたように、この作品は「映画を観ている観客が、それを観終わるまでの話」でしかないのだから。

もちろん、リンチ作品をこのようにナラティヴな観点から捉えることの「不毛さ」は、あらためて指摘するまでもない。それでは、掬いとれるものよりも取りこぼすもののほうが多すぎる。そういう意味では、「ロストガールが『47』の主演女優その人である」とする今野雄二氏の読み方も、ナラティヴな観点に傾きすぎている(かつ、「複雑」すぎる)ように思え、個人的にはあまり魅力を感じない。

そもそもリンチの非ナラティヴな作品に対して、「表面上のストーリー」を追いかける方法論が無意味であることはいうまでもない。しかし、同様に、最初から「省略されたストーリー」が存在することを当然であるかのように想定し、それを読み取ろうとする方法論も、やはりナラティブにリンチ作品を理解しようとしているという点では等価であり、本末転倒なのではないだろうか? それはいわゆる「謎解き」の範疇に収まり、「解釈」の域ではないような気がする。「省略されたストーリー」は、リンチの映像表現を「映像表現」として解釈した後にレファランスとして副産物的に姿を現すものであり、それ自体は作品の本質ではないはずなのだから。

(まだ続く……かな?)

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