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2007年8月18日 (土)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (4)

もうひとつの「演技者=受容者」の等式についても述べておこう。つまり、私人としての「演技者」に対する「受容者」の同一化についてだ。

「インランド・エンパイア」においてそれを端的に表しているのは、ダイアン・ラッド演じるマリリン・レーヴェンスが、自分のTVショーにニッキーとデヴォンをゲストとして迎えるシークエンスだろう。

「火のないところに煙を立てる」のがレーヴェンスのような芸能記者の仕事であるならば、それを「スターが夢を作り、夢がスターを作る」といった美辞麗句で飾り立てるのが芸能業界だ。では、その「夢」とはいったい誰がみている夢なのか?

それが「不特定多数の受容者」の「夢」であることは論を待たないだろう。たとえ、それがもともとは「捏造」されたものであってもだ。ポジティヴなものであれネガティヴなものであれ、観客は演技者の私的な部分さえも「ストーリー」として共有し消費する。

そして、不特定多数によって共有された「ストーリー」(「イメージ」と言い換えてもいい)は、ときとして「作品」に反響・反復される。あるいは、逆に「作品」から個人の「ストーリー」へと反響・反復が発生する。そう、ちょうどニッキーとデヴォンの関係のように、あるいはドロシー・ラムーアのサロンのように

もちろん、この「同一化」は一方通行のものだ。受容者が特定の演技者に思い入れることはあっても、演技者が不特定の受容者に同等の思い入れを持つことは、通常あり得ない。ここにおける「主体」はあくまで受容者であり、「客体」は必ず演技者だ。「ロストガール=受容者」を軸とした視点が「上位(メタ)」であるとする理由のひとつはここにある。

(続く)

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