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2007年8月22日 (水)

リンチ系ヒマネタ (4)

ほら、忘れた頃に続いた(笑)。

リンチ作品における「大胆な省略を受けたストーリー」のことについて、蛇足の補足なんかしてみる。

「映像における表現主義」のこととかで触れたように、リアリズムを基調とした作品の中で、広い意味での「表現主義的な映像」がワン・ポイント的に使われたりするのは、もうごく自然なこととして受け止められてる。要するに「登場人物の心理描写」が必要になったときなどに、それを台詞などで説明するのではなく映像として提示するために「表現主義的な映像」が使われていて、創り手も観る側もそれになんら違和感を感じてない、とゆーことですね。

さて、では、こうした観点からリンチ作品をみたらどーなるか。ちょうどそのまったく逆な感じで、ワン・ポイントじゃなくて全編が「登場人物の心理描写」で出来ている……と捉えることもできなくはないんじゃないかと。つまり、外的リアリズムに沿った作品であれば延々描かれているはずの「ナニが起こり、ナニゆえに登場人物がそーゆー心理状態を持つに至ったか」という部分がバッサリと省略されて、作品の外にポイと放り出されちゃってる……と、まあ、そんな具合に理解できるかもしれないと考える次第。

もちろん、なんらかの形でストーリーの一部が省略されている映画ってのは、枚挙に暇がないほど存在する。だけど、その省略された部分においてナニゴトが起きたか、観客は想像でほぼ補えるのがフツー。というか、そういうふうに作られている。単に余計な描写がカットされてるだけだったり、観客の想像にまかせたほうが効果的だったり、省略されている理由はさまざまであるにしても。

ところがリンチ作品においては、省略されたストーリー部分が大き過ぎて(笑)、実際に何事かが起きたかの細部については判然としない事柄が多い。多いったら多い。でも、それがまったく問題にならないのは、リンチが描こうとしているのはそうした「登場人物の心理状態」そのもののほうであるからでありますね。

……なんかあれば続く

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デイヴィッド・リンチ」カテゴリの記事

映画」カテゴリの記事

コメント

こんにちは。
普段、あんまりリンチについて話す機会を持てないので、また書かせて下さい。

いつも思うのですが、リンチ作品がどこか現実からかけ離れている、または心理描写めいて思えるのは、彼の描くモチーフがとても包括的(彼はよく「抽象的」という言葉を使いますが)であるということが関係している気がします。例えば、魚や鹿、コーヒーといったモチーフのもつ価値は大山崎さんもしばしば仰っている通り、一つの言葉に還元されるものではなく、その中には実に様々な価値が包括されています。この点は、私たちが普段見る「夢」の中でも同様です。夢に登場するモチーフもまた一つの言葉に還元され得ない価値を包括しています。

「ストーリーの一部が省略される」という点で言えば、近年のフィルムノワール(マイケル・マンやジェームズ・フォーリーといった監督たちの)もまたそうしたテクニックを常套手段としています。物語における肝心な事柄はしばしば編集によって省略され、観客は想像力の中でそれを補います。リンチもまたそうした編集を多用し、また、フィルムノワールへの愛着を感じさせる作品が多いですが、彼と近年のノワール監督たちとの間の違いは、私としては、まさにモチーフの描き方にあるように思えます。リンチと「ノワール監督」はともに編集によって事柄を物語の裏側や闇の中に隠し込みますが、しかし、リンチのモチーフはあくまで抽象的であり包括的なものであるのに対し、ノワール監督の方はあくまで具体的です。ノワール映画が描く世界観は一般通念としての「リアリズム」に近いように思えます(もちろん単なるリアリズム映画では終り得ないのがフィルムノワールの「ノワール」たるゆえんですが)。そこでのタバコやコーヒーは、あくまで「単なる」タバコやコーヒーであり、それは映画世界を装飾する役割をもつものの、決してリンチのように複合的な価値をもつ「曖昧さ」を帯びた存在ではありません(もちろん、例外的な監督も多々あるでしょうが)。

リンチ映画がどこか心象めいて見えるのは、編集方法もさることながら、この「モチーフのもつ包括性/抽象性」といった要素もまた大きな役割を果たしている気がしてなりません。一般に物事は具体性を帯びるほど現実味を増し、逆に抽象性を帯びるほど非現実的になってゆくものです。リンチ映画ではモチーフがしばしば詩的であり、往々にしてそれは夢のような存在、ないしは人間の心象の中に半分浸されているような存在なのだと思います。

いらっしゃいませ>通りすがりさん

こちらであわせてお返事をさせていただきます。

ほとんど思いつきを書きなぐっているような拙いブログではありますが(笑)、関心をもっていただけて幸いです。

いずれにしても、まとまった形での正統的なリンチ研究というのは、Greg Olson氏の「Beautiful Dark」の刊行でやっと始まったばかりのような気がしています。点が線でつながれ、面になり始めた……というか。自分自身、クリス・ロドリーのインタビュー集におけるリンチ自身の諸発言が意図するものが、ようやくつながりをもって理解でき始めた感じです。

リンチ作品を「リアリズム」という観点からみるなら、とりもなおさず、そこでは登場人物の(あるいはリンチ自身の)「内的リアリズム」が優先されている点が大きいように思います。一般的に「物語=ナラティヴ」を語ることを目的とした諸作品が「(その物語世界の)外的リアリズム」を優先し、そこに登場する者たちの「内的リアリズム」はナラティヴを補強する形で「挿入される」に留まるのに対して、リンチ作品は両者の比率を完全に逆転させているといえるのではないかと。「内的リアリズム」への忠実性を保つためなら、「外的リアリズム」は犠牲にしても構わないというのが、リンチの基本的な考えであるはずです。で、通りすがりさんのご指摘のとおり、この「内的リアリズム」に沿ったイメージは包括的であり、複義的かつ抽象的なものであるわけです。

その一方で、一般的に(40~50年代の本来的なものと、その様式を意識して作られた近代の作品を含めた)フィルム・ノワールが、編集的なものとあわせて映像的にも「省略」に向かっているんじゃないかとも感じます。このジャンル(といえるかは微妙ですが、とりあえず)におけるの映像的特徴とされているもの……たとえば「煙」や「霧」、「逆光による登場人物のシルエット化」、「ロー・キー&ハイ・コントラストな照明」などが実は「覆い隠すためのもの」であり、そもそも「見せるもの」であるはずの映画において「見せないこと=省略」に向かって機能しているように思うからです。これらのフィルム・ノワールの諸特徴と、、リンチ作品の共通モチーフである「煙」や「闇=リンチ・ブラック」が映像的に符合しているのも興味深いです。もちろん、こうした手法はリンチの原体験となっている映像作品群が採用していたものであるわけですけども。

「インランド・エンパイア」の日本語字幕に関して述べる際にも触れたのですが、正直な話、リンチ作品の字幕翻訳はかなりハードルの高い作業であることは間違いないように思います。一方に翻訳者のリンチ作品に対する基本的な理解度の問題や、それに起因する翻訳者の作品解釈の妥当性の問題があり、またその一方で字数制限の問題や、そもそも適正な実作業時間が設けられているかどうかという問題もありで。ここらへんは映画業界の産業構造とも強く関連しているように思えるので、なかなか一朝一夕に解決できるものではないのかもしれません。

なんか長々と書いてしまいましたが、今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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