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2007年8月17日 (金)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (3)

続いて演技者であるニッキーの視点からの軸について論じるが、これには多くの言葉を必要としないだろう。さまざまな紹介記事において「演技者=ニッキー」と「登場人物=スー」の混乱については触れられている。これまた巷に流布する多くの感想でも言及されているように、こうした演技者と登場人物の混乱を描いた作品は、映画に限らず多く存在するからだ。

補完する事項があるとすれば、前々項で述べた「映像メディアにおける同一化の優位性」および「映像文法」に関連してだろう。いろいろな映像文法のテクニックは、映像が意味するものを明確に観客に伝えるためにある。逆にいうと、そうした「映像文法」が故意に無視されれば、我々は簡単に作品内の「時と場所」「現実と非現実」に関する「見当識」を失う。映像メディアを使って、「(作品内の)現実と非現実」の間に混乱を引き起こすのは非常に簡単なのだ……それも映像の備える「同一化機能」によった、ものすごくリアルな混乱を。

また、「スタニスラフスキー・システム」を基礎とする各種の「メソッド演技」については、いまさら詳述する必要もないだろう。登場人物の内面を解釈し、演技者の実体験をもとにした「情緒の記憶」を用いる演技法は、いまやハリウッドを含めてスタンダードなものといっていい。

「ニッキー=演技者」が「スーザン=登場人物」を演じるとき、そこにはニッキーによるスーザンという人物の解釈と、ニッキーの実生活における体験からくる「情緒の記憶」が介在する。言い換えれば、これは演技者による登場人物への「自己投影」であり「同一化」だ。スーザンは、ニッキーの「代弁者」であり「代行者」である。こうして「演技者=登場人物」という等号式が成立する。

さて、これで「受容者=登場人物」「演技者=登場人物」という二つの等号式ができた。当然ながら、この二つの式を統合すれば「演技者=登場人物=受容者」という式が導かれる。つまり、「登場人物=スーザン」を仲介して、「演技者=ニッキー」と「受容者=ロストガール」はつながり、同一化している。「ニッキーとロストガールの抱擁」は、この「同一化」の映像で表現したものだ。このスーザンを核にした二方向の「主体・客体のネスティング」こそが、「インランド・エンパイア」の基本構造ではないだろうか。

(続く)

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