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2007年8月15日 (水)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (2)

前項で前述したように、「映画=世界」には現実が抱えるさまざまなトラブル(を含める出来事}が投影される。なぜなら、そうした「映画=世界」を創る者もまた一個の人間存在に他ならない以上、創られた「映画=世界」には創作者の直接的間接的な体験がなんらかの形で投影されざるを得ないからだ。創作者はそうした自らの体験を咀嚼し、解釈し、作品を創造する。そういう意味では、創作物は通常、創作者の意識(あるいは無意識)の範疇を出ない。創作物にそれ以上のもの付け加え普遍性を与えるのは、受容者による「解釈」(あるいは「誤読」)だ。

そして、これも前述したように、受容者の作品に対する「解釈=誤読」も、自己の直接的間接的体験に基づいて行われる。言い換えればそれは、登場人物ひいては作品に対する受容者の自己投影だ。「インランド・エンパイア」におけるニッキー=スーの言動には、受容者であるロストガールによる体験に基づいた自己投影、すなわち「解釈=誤読」が行われている。つまり、リンチが「インランド・エンパイア」で映像として提供しているのは、TVモニターに映しだされる「映像」に対するロストガールの「解釈=誤読」の結果だ。

言葉を変えれば、「受容者=ロストガール」を軸にした視点からみた場合、「インランド・エンパイア」はロストガールの「意識の流れ」や「心象風景」を描いているともいえる。同一化の対象である「登場人物=スー」は、ときとしてロストガールの代弁者になり、代行者となる。たとえば、階段を上った部屋で「登場人物=スー」が「眼鏡の男」に話す身の上話は、果たしてすべて「登場人物=スー」あるいは「演技者=ニッキー」自身のことだろうか? そこには、「受容者=ロストガール」の意識が反映されてはいないだろうか?

この「主体・客体のネスティング」こそが、「インランド・エンパイア」の持つ構造の本質であるような気がする。「主体と客体の転倒・混同・混乱・同一化」は、「登場人物=スー」と「演技者=ニッキー」の間にとどまらず、「受容者=ロストガール」と「登場人物=スー」の間でも同時に発生しているのだ。

(続く)

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