フォト
2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (7) | トップページ | 「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (2) »

2007年8月14日 (火)

「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (1)

では、再鑑賞後に考えたあれこれをば。

まず作品の基本的な構造だが、「インランド・エンパイア」は大きく分けて二つの軸を持っている。すなわち

・ロストガール(受容者)からの視点の軸
・ニッキー(演技者)からの視点の軸

の二つだ。

「インランド・エンパイア」は、この二つの軸のどちらからもアプローチ可能な複合的構造をもっている。つまり、どちらの視点からも観ることができるわけだが、この二つの視点は「スーザン(登場人物)」を中心にしてあちこちで絡みあう構造になっており、いずれにせよ両方の視点からのアプローチが必要になる。ただし、ロストガールを軸とした視点からアプローチしたほうが構造的にわかりやすく、かつより上位(メタ)に捉えられる部分があると思われるので、ここではそういう順序で論じる。

そもそもロストガールとはだれか? ここでは「不特定多数の一般的な受容者の総体」として捉えたい。つまり、実生活では日常的な家庭内のトラブルを抱えるごく一般的な観客の典型例であり、「”スミシーの家”に住む(文字どおり)匿名の存在」である。彼女が直接的間接的に抱えるトラブルとは、「インランド・エンパイア」で繰り返し登場する「家庭内暴力」「不倫」「性生活の不具合」「殺人」など、要するに今ここにいる我々の現実に偏在するものだ。

そして、「一般的な受容者」である彼女の観ている「番組」には、彼女が直接的間接的に体験しているのと同様のトラブルを抱える人物たちが登場している。もし、ある作品がなんらかの人間存在を描いているのであれば、受容者が現実に体験するトラブルに類似した問題を抱える登場人物が現われるのは必然だ。「東欧訛りの新しい隣人」がニッキー=スーに伝えるように、「結婚」と「殺人」の物語が、ロストガールの観るモニターに映されるいろいろな映像において、さまざまな形で繰りひろげられる。ロストガールは、モニターのなかの登場人物たちに共感し、感情移入し、同一化し、登場人物たちが住む「世界」に没頭する。

デイヴィッド・リンチは「映画」を「ひとつの世界」と捉え、映画を観るという行為をその世界を「体験」することに例えている。この例えは、自らの発言や著作で繰り返し言及されており、リンチが抱く映画というメディアに対する基本的な考えであることがうかがえる。それこそがリンチの言う「映画の魔法」なのだろう。そして、その例えのとおり、ロストガールはモニターの映像を観ることによって、「世界」を「体験」しているのだ。その「体験」とは、「受容者」による「登場人物」に対する「感情移入=同一化」によってもたらされるものに他ならない。そこでは、「登場人物=受容者」という等式が成立している。

ところで、「同一化」というのは、たとえばベラ・バラージュが「映画の理論」(1949)で述べている映画というメディアが持つ特性のことだ。つまり、映画は文字等の他メディアに比べて、「感情移入装置」として優位にあるという指摘である。バラージュはその優位性の理由を、映画が備える「カメラの視点」に求めた。映画のカメラは、あるときはロングの視点によって全体的な姿を描き、あるときはクローズアップによって一部を拡大強調して切り取り、製作者の意図にしたがって観客の感情を喚起させつつ「世界」を観せる。また、ときとして登場人物の視点となり、彼・彼女が見るものを受容者に「体験」させるとともに、彼・彼女が抱く感情を受容者に伝える(もちろん、ここには映像文法が介在する)。リンチが「映画を観ること」を指していう「世界を体験する」とは、こうした映画というメディアが持つ特性への言及以外のなにものでもない。

この「カメラの視点」を念頭におくと、「インランド・エンパイア」に登場する「煙草の火によって開けられたシルクの穴から覗き見る行為」が何を指すのかは明快だろう。これはまさしく「カメラから覗く行為」ではないのか? そうして覗かれた「モノ」は現実から切り取られ、まったく別の独立した「世界=映画」となるのではないのか?

(続く)

追記:キャスト表等をみる限り、「インランド・エンパイア」に登場する「スミシー」のスペルは「Smithy」であり、映画スタッフが何らかの理由でスタッフ・ロールに名前を出さないことを希望するときに使われる「アラン・スミシー(Alan Smithee)」(あるいはAllen Smithee,、Alan Smythee、Adam Smithee)とは異なっている。だが、そもそもアラン・スミシーという架空名は、「The Alias Men」のアナグラムにであると同時に、「実在するとは考えられない名前である」という理由で全米監督協会(Directors Guild of America)によって選ばれている。つまり、Smitheeというのは人名としてはあり得ないスペルなのだ。自作内で「スミシー」という名前を使用するに際して、リンチは人名として実在の可能性がある(少なくとも「屋号」としては存在する)「Smithy」に置き換えたのかどうか? とりあえず、ここではその方向で話を進める。

« 「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (7) | トップページ | 「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (2) »

インランド・エンパイア」カテゴリの記事

「インランド・エンパイア」を観た(2回目)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (1):

» 映画レビュー「インランド・エンパイア」 [映画通信シネマッシモ☆プロの映画ライターが贈る映画評]
インランド・エンパイア 通常版◆プチレビュー◆強烈にワケがわからない。でもそれを快感に変えるのがリンチのすごいところだ。映画とはいったい何なのか?ということまで考えさせられる。【80点】 女優のニッキーは新作映画の主役に決まる。いわくつきの不吉な映画の撮影...... [続きを読む]

« 「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (7) | トップページ | 「インランド・エンパイア」を観た(2回目) (2) »

最近のトラックバック