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2007年7月

2007年7月31日 (火)

「インランド・エンパイア」その後のその後のその後

うーむ、なんか公私ともになんかバタバタ気味で、なかなか「インランド・エンパイア」を観に行くタイミングがないんでやんの。やっぱ、3時間の映画ってのは、こーゆーときに効きますわね。早く座席予約ができる劇場での上映が始まってくんないかなと思ってたりするのだけども、そこまで待つんならもう少しで北米版DVDが出たりするしな。

とゆーわけで、再鑑賞に備えて「インランド・エンパイア」に関する現時点での自分の受け取り方というヤツの整理整頓追加補足をば。

「映画についての映画」であり、根底に「リンチの映画に対する極私的な思い」があるというのは何度も述べたとおり。

では、その「映画に対する極私的な思い」というのが具体的にどーゆーものかというと、メインになっているのはリンチ自身のお言葉にもある「魔法のようなメディアである」ということですね。他にもいろいろと「リンチの思い」は詰まっているけれど、メインになっているのは、やっぱ、ソレ。

じゃあ、そのリンチが言う「映画の魔法」って具体的にナニよ……っていうと、映画というメディアにまつわるモロモロの「感情移入」のことだっつーのが大山崎の「インランド・エンパイア」に関する基本的な受け取り方です、今んとこ。

このあたりはあれこれやチンタラ述べてきたリンチ自身の諸作品の特徴、つまり「表現主義的な手法で登場人物の感情を描くことを主眼としている」とゆーところから帰納法的に「リンチが感じていること」を推し量ったもんだ……という具合にご理解くだされ。あうあう、話が回りくどいのう(笑)。

んでもって、そういう視点で観ると、作中に登場する「顔に対する加工がされた登場人物」をどう受け取ればいいか、なんとなくみえてくるように思うんですね、コレが。たとえば冒頭に登場する「顔が黒くかき消された男女」は、まだ観客側の「感情移入」が完了していない段階の登場人物なんじゃないか、とか。あるいは、クライマックスでの「ファントムの崩壊」は、誰にでもなれる「演技(これも俳優による役柄への感情移入だ)」というものの「凄さ奥深さ」と「うさんくささ」の両面性を表していると読めるんではないか、とか。

ま、かように、モノゴトにはポジティヴな面とネガティヴな面の「両面」があって、リンチのいう「映画の魔法」は、そのまんま「映画の魔」に通じるんじゃないか……とか愚考してたりするわけでございマスね。

とまあ、とりあえずはンな方向に従って二回目の鑑賞をすることになると思うのでありますが、さーて、どーゆーことになりますやら。

2007年7月29日 (日)

リンチ系ヒマネタ (3)

古典ハリウッドの映画文法は、ストーリーを語ることに特化しているといえる。エスタブリッシュメント・ショットやカット・イン・アクション、180度ルール等のテクニックは、観客に対し物語を効果的に伝えることを主眼としたものだ。少なくとも現在のところ、映像でなにかを伝達するうえでスタンダードな手法であり、ひいてはナラティヴな作品においてストーリー上の展開を心理上の展開を重ね合わせるうえでも、これらのテクニックが非常に効果的なのはいうまでもない。

裏をかえすと、大抵の観客は映像作品を観るとき、それが古典ハリウッド映画文法によって「記述」されていることを予測し期待しているはずだ。そして、それに基づいて理解しようとする。

もちろん、ハリウッドが作る映画に対するアンチテーゼとして古典ハリウッド映画文法から逸脱したり、それを無視している映画作品はいくつも存在する。それはそのまま「映画」というメディアが時間をかけて発達し、過去に取り上げられなかった題材を取り上げ、新しい表現を手に入れつつ、その幅を広げてきたということに他ならない。リンチの作品も、そうして「広がった幅」のなかで語られるべきなのは確かだ。

問題をややこしくしているのは、にもかかわらず非ナラティヴなリンチ作品も、基本的に古典ハリウッド映画文法を遵守していることだ。こうした映像テクニックが得意としているストーリーを語ってもいないのに、だ。リンチ作品に初めて触れた観客がまず混乱するのはこの点といえる。最初から「映画文法の逸脱あるいは無視」があれば、むしろ「そういうもの」として観客は理解できるはずなのだが、リンチ作品はそれを許さない。古典ハリウッド映画文法によって記述されたナラティヴなものとして受け止めかけていた作品が、突然その容貌を変えたように感じてしまう。

しかし、詳細にみると、リンチ作品においてこうした編集文法が遵守されているのは、ひとつのシークエンスのなかにおいてであることがわかる。つまり、局地的な「因果律」が成立しているスパンにおいて、こうした編集が機能しているわけだ。

たとえば、「ロストハイウェイ」における「山道の交通道徳講座」のシーンは、この部分だけを切り出してみた場合、「因果律」が成立しているといえる。交通道徳を守らず、先行車をあおったドライバーが(私的に)処罰される。ただし、これは「追跡・追求・処罰」という、「ロストハイウェイ」において繰り返し登場するモチーフのひとつのヴァリエーションであることがわかるだろう。つまり、このシーンは、このモチーフを局地的な時間軸に沿って「展開」してみせたものなのだ。

画家を目指していたリンチが映像製作に手を染めたきっかけが、「絵を動かしてみたい」という衝動にかられてであったことは、リンチ自身の言葉によって何度も説明されている。リンチの映像作品における各シーンは、文字どおり「動く絵」であり、「時間経過とともに変化する絵画」であるといえる。そして、その「動かし方」が、ハリウッド古典映画文法に則っているわけだ。リンチ作品は、数多くのそうした「時間軸に沿って展開されたモチーフやアイデア」が集まって成立しているんである。

……もそっと続く、かもしんない。

2007年7月27日 (金)

「インランド・エンパイア」その後のその後

さて、なんだかんだでまだ劇場での再鑑賞を果たせてない「インランド・エンパイア」なんでありますが。とりあえず公開直後はそれなりに劇場も混んでるみたいなんで、様子をうかがってトライしてみるです。

ボチボチ観客の率直な感想もブログ等であがりはじめており、いろいろ興味深く拝見させていただいてたり。というわけで、自分も感じていること考えてることなど、もちっと書いてみる。

すでに何度か延べたが、「インランド・エンパイア」はリンチの非常にプライベートなところを反映した作品だと思っている。実はこういう方向性はリンチ作品すべてに共通するものだと思うが、今回は特にその色が濃い。

なぜ「共通するものがある」と考えるのかというと、「感情や主観」を描くリンチの表現主義的手法を考えるとき、そうした個々の表現の方向を決めているのは、やはりリンチ自身の実体験に基づく経験則的な部分だと思うからだ。いいかたを変えれば、それがデイヴィッド・リンチという監督の「作家性」だということになる。

こうした私的なところの反映は「イレイザーヘッド」を含めた初期の作品、たとえば「アルファベット」や「グランドマザー」に顕著で、ある意味「インランド・エンパイア」はリンチが自分の原点に立ち戻った作品だともいえるんじゃないだろうか。

そうした目でみたとき、「インランド・エンパイア」には、そうした初期作品に通じる点が他にもいくつか見つけられるように思う。そのひとつが、どこか作りにルーズなところがあるような気がすることだ。具体的な指摘はまだできないし、繰り返し観ていくうちに感想が変わる可能性はあるけれど、とりあえず初見の段階ではそういう印象を受けたのは確か。

そして、こうした初期諸作品と「インランド・エンパイア」には、製作上の共通要素がひとつある。それは、リンチが自分自身で編集作業を行っていることだ。

映像作品の製作において、編集作業が重要な要素を占めることはいうまでもない。そしてリンチ作品の編集に関するキー・パーソンといえば、長年にわたって公私共にリンチを支えてきたメアリー・スウィーニーである。

スウィーニーはもともと女優として映画界にデビューし、「Invasion of the Bee Girls 」(1973)、「Teenage Cheerleader」(1974)の2本の出演作がある。1983年以降は編集畑に転身、「ブルーベルベット」で編集の助手をつとめたのを機にリンチに出会った。「ワイルド・アット・ハート」での編集第一助手を経たあと、「ツイン・ピークス劇場版」からは独り立ちし「マルホランド・ドライブ」に至るまで、ずっとリンチ作品の編集作業に携わってきた。

……ってなことをツラツラ考えるに、この時期のリンチ作品を評価するうえで、彼女の編集も考慮に入れるべき要素のひとつなんではないかという気がすごくする。リンチのアイデアやモチーフを映像作品に「翻訳」するうえで、スウィーニーによる編集が非常に重要だったのではなかろーか……っつーことですね。

今後、再びスウィーニーがリンチ作品を編集することがあるのかどうかよくわからないけれど、これを機会に「編集」をポイントにリンチ作品を観返してみたい……と思ってたりする今日この頃なのでありました。

2007年7月25日 (水)

「インランド・エンパイア」米版DVD続報だったり

本日のdugpa.comネタ。

配送が遅れるとヌかしやがりながら、米アマゾンでの発売日表記が8月14日のまんまであるのが大山崎個人としてヒジョーにナットクいかない「インランド・エンパイア」北米版DVDの話題。

過去のリンチ作品のDVDと比べて映像特典がテンコ盛りなのはいろんなところで紹介済みなんだが、加えて「Ballerina」っつーのも特典として収録されることになったみたいだ。タイトルから推察するに、おそらくこれは今年のカンヌで上映された短編っぽい。「映画」をテーマにいろんな監督が競作したヤツで、リンチが作ったのはすでにYouTubeでも映像が出回ってるけど、きちんとした形で入手できるのはありがたや。

実はフランスでは、そのとき上映された短編を集めた「Chacun son cinema」なるDVDがとっくに出ておりまして、ユーロ高の昨今、ちょいと高くつくのでどーしたもんかと思い悩んでたのでした。

Chacun son cinema

しかし、となると、「Chacun son cinema」の北米版DVDは出ないんだなあ、きっと。他の監督の作品も観てみたい気もして、もし米版が出て安かったらそっちを買っちゃれと思っとったんですが。やっぱ、おフランスから買ったもんでしょーかね……と、いつまでたっても悩みはつきないでありマス(笑)。

8/11追記: 現物を観てみたところ、「Ballerina」はカンヌ用短編ではありませんでした。「インランド・エンパイア」用かつカンヌ短編用の元素材を使用した、新しい短編でした。

2007年7月24日 (火)

リンチ系ヒマネタ (2)

今回はナラティヴと非ナラティヴのことなんか、ぶっ書いてみる。

すんごく単純化してしまうと、ナラティヴな作品というのは、ストーリーの展開に沿ってキャラクターたちの変化を描くものであるといえる。つまり、物語の展開が登場人物たちの心理的展開と合致した形で進むとゆーのが、まずは基本の形(もちろん例外もあるけど、それは今回はおいとく)。

たとえば「人間的に未熟な人物が、重大な苦難に直面し、それを乗り越えた末に成長する」というのは非常によくあるプロットだけれど、ナラティヴな作品の構造を説明するうえでとてもわかりやすい。ストーリーがエスカレートするにつれて主人公の心理状態がエスカレートし、それに連動して主人公に対する観客の感情移入も深まっていって、物語が「苦難に対する回避・解決」に至った際に、なにがしかの心理的カタルシスを観客が得る……つーのが、まあ、ナラティヴな作品がもつ構造の典型例なんであります。

んでもって、ナラティヴな作品における物語&心理上のエスカレーションは、「因果律」によって支配されてたりする。ある出来事が原因となってその後の出来事が起き、次から次へと連鎖反応的に出来事が発生して、最終的になんらかの結末へと収束していくというのがフツー。つまり、出来事の発生は時系列的であるといえるわけですね。もちろん、ストーリー記述上のテクニックとして省略や順序の入れ替えを伴ったり、同時発生した出来事が並列的に述べられるケースはある。いっぱいある。んが、大抵の場合、観客側が自分で時系列を整理することによって「直線的(リニア)な時間軸」が認識可能なことに変わりはない。

さて、では、こういった点に関して、たとえば「ロストハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」なんかではどーなっているかというと。これらの作品では、作品内の出来事がそれに続く出来事の直接発生原因として認識できるケースは極小だ。部分的に出来事同士をつなぐ「因果律」が確認できたとしても、それは局地的なものであって作品全体を通しては成立しない。時系列整理を試みても結果は同じで、作品内の出来事を因果律をもった直線的な時間軸に沿って並べることは不可能だし、無意味。結果として、こうしたリンチ作品はめでたく「非ナラティヴなもの」として分類されることになる。

「ロストハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」といった作品において「映像」として提示されているのは、登場人物の主観や感情によって歪められた表現主義的なイメージだけ。観る側はそうした断片的なイメージ自体から、それがどういう感情や主観によって歪められているかを理解することを要求される。そもそも「非ナラティヴ=物語がない」作品において、「物語展開と心理展開の合致」など存在するわけがない。物語上のエスカレーションと連動してではなく、それ抜きで心理上のエスカレーションを描くのがリンチ作品だ。

ってなわけで、逆にいうと、どういう手順によってであれ、描かれている「感情や主観」といった人間の内面をなんらかの形で読み取れたならば、それはリンチ作品を理解したことになるといえるわけスね。たとえ細部は完全に理解できていなかったとしても。

……多分、きっと、続く。

2007年7月22日 (日)

「インランド・エンパイア」再鑑賞のためのメモ (2)

※完全なスポイラーなんで、「インランド・エンパイア」未見の人はパスをお勧めします

ドロシー・ラムーア(Dorothy Lamour 1914/12/10~1996/9/22)

1931年度のミス・ニューオーリンズ。歌手としてデビューし、ハービー・ケイ・バンド(Herbie Kay band)のボーカリストとしてシカゴのラジオ番組などに出演する。

1933年にハリウッド進出。ノンクレジットを含めた端役をこなしたあと、女ターザンもの「ジャングルの女王 The Jungle Princess」(1936)のウラー(Ulah)役で人気を博し、セクシーなサロン(腰巻)姿が評判になる。その後「ハリケーン The Hurricane」 (1937)、「タイフーン Typhoon」(1940)、「青い水平線の彼方  Beyond the Blue Horizon 」(1942)などの南方系作品で同様の役をこなし、サロン姿は彼女のトレードマークになった。

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ビング・クロスビーと ボブ・ホープの「珍道中」シリーズにも相手役としてレギュラー出演しており、日本ではむしろこちらのほうが有名かも。戦時中はリタ・ヘイワーズやラナ・ターナーなどと並んでピンナップ・ガールとして人気に。

DorostyLamour5

いつまでもサロン姿がもてはやされることに嫌気がさし、1946年にはパラマウント宣伝部の仕切りのもと、ステージ上でサロンを焼くパフォーマンスをしたりした。また、NBCラジオの「Sealtest Variety Theater (The Dorothy Lamour Show)」 (1948-1949)のホストもつとめた。

Hollywood Walk of Fameには、彼女の名前が入った「星」が2箇所ある。ひとつはラジオでの仕事に対して(6240 Hollywood Blvd.)、もうひとつは映画での活躍に対して(6332 Hollywood Blvd.)。ニッキー=スーがドライバーを腹部に刺されるシーンが「撮影された」のは、後者のほう。

ラムーアの語録として「まともな女性としては、私は業界でいちばん幸せで、もっとも稼いでいた(I was the happiest and highest-paid straight woman in the business)」というのが残っている。サロンを焼くパフォーマンスといい、彼女の潔癖な一面がうかがえる発言といえるかもしれない。殺害現場としてラムーアの「星」が選ばれたのは、彼女がそうした面を持ちつつハリウッドで成功したことを踏まえたうえでの、娼婦(役)であるニッキー=スーとの対比を意図してなのか?

2007年7月21日 (土)

「インランド・エンパイア」再鑑賞のためのメモ (1)

※完全なスポイラーなんで、「インランド・エンパイア」未見の人はパスをお勧めします

またもやというか、やっぱりというか、「インランド・エンパイア」の作中、「サンセット大通り」からの引用がある。正確にいうと、「サンセット大通り」の作中で上映されているサイレント映画の字幕からの引用で……

「心に潜む邪悪な夢を追い出してください(Cast out this wicked dream whitch has seized my heart)」

……というのがその台詞。「インランド・エンパイア」では、ロスト・ガールによってポーランド語で語られている。

で、映画内映画であるこのサイレント映画、実はノーマ・デズモンドを演じているグロリア・スワンソンが過去に自分でプロデュースし、実際に出演した「クィーン・ケリー Queen Kelly」(1929)である。監督は、これまた実は「サンセット大通り」で執事役を演じていたエリック・フォン・シュトロハイム。

このシュトロハイムという監督は完全主義な人で、9時間を越える作品を作っては映画会社にズタボロにカットされたりしていた。最終編集権(ファイナル・カット)の問題という点で、「砂の惑星」を髣髴させる話である。また、サイレント映画であるにも関わらず、実際に音が鳴るドアベルを作らせたりして製作予算を大幅に超過し、映画会社ともめたあげく完全に監督としては干されてしまったという経歴もある。ハリウッドでの制作費集めに苦労しているリンチにとっては、他人事とはいえない話なのではないだろうか。

そんなシュトロハイムを「クィーン・ケリー」の監督にすえることに危惧を抱いた人も多かったようだが、案の定、製作途中で彼とスワンソンが衝突し、頓挫した。その後スワンソンが別の監督を立てて追加撮影を試みるも、結局未完のままで終わっている。「インランド・エンパイア」における「中断されたポーランド映画」の意味を考えるとき、「47」と「クィーン・ケリー」を思わず重ね合わせてしまいたくなるのだけど、はたして?

もうひとつ「サンセット大通り」からの引用の可能性があるのは、「金髪のウィッグをつけたサルを飼っている友人」だ。主人公がノーマ・デズモンドの邸宅を初めて訪れたとき、葬儀屋と間違えられるシーンがある。葬儀は彼女が飼っていたサルのためのもので、その後、本物の葬儀屋が現われ死んだサルを埋葬するシーンが出てくるのだが、さて、このあたりもリンチの意識(あるいは無意識)にあったのかどうか。

2007年7月20日 (金)

「インランド・エンパイア」の宣伝戦略をみる

さて、いよいよ明日公開となった「インランド・エンパイア」なんだが、どうやら配給側の宣伝戦略は「わけがわからない映画」であることを強調するという方向であるようだ。これだけ配給側が「わかりませんよ」と連呼している作品もちょっと記憶になくって(笑)、この戦略が初期動員にどう結びつくのか非常に興味深いものがあったりする……いや、決して嫌味とかではなく、マジで。

前々からのリンチ・ファンはほっといても観るからどーでもいいとして(笑)、さんざん「わけわからん」と聞かされたうえに上映時間が3時間もあると知った「ファンではない観客」が、どれくらいこの作品を観てみようと思うか。単純に考えるといろいろな点で興行的に不利なのは間違いなくって、実際IMDbによるとアメリカ国内における累計興行収益は75万ドル程度、海外の累計が140万ドル弱で、正直いって金額的にはたいしたことがないというのが現実だ。なかなか他の映画との比較は難しいが、上映館の絶対数が少ないという条件を考えると、まあ、予想された範疇だといえるだろう。

などという前提を踏まえつつ、いまこの現在の日本において、リンチ作品のような系統の「わからなさ」がどのくらいのマスで商品価値を持つのか。その商品価値は、どんな層にどれくらいの広がりを持つのか。作品を観た観客のうち、どれだけのパーセンテージが「わからない」ことに満足しつつ家に帰るのか。消費者動向の観点からみたとき、その結果から何か読み取れるものがあるのかどうか。いろいろな点で面白そうな材料を提供してくれそうな気がする。

過去、士郎正宗の諸作品に端を発する対マニア向け戦略としての「わかりにくさ」というのはあった。そもそもリンチ自身の「ツイン・ピークス」自体、「ローラ殺しの犯人探し」というミステリーのフォーマットをフックとして使いつつ、その内容物には「得体の知れないもの」が詰め込まれていた。果たしてこういう戦略が、現在でも劇場用映画作品に対して通用するのだろうか。

ただし、本気で興収を考えたとき、現状の戦略として弱いかなと感じるのはリピーター客へのケアだ。とりあえず現状で確認できているのは、恵比寿ガーデンシネマでのリーピーター客先着100名に対するポスターのプレゼントだけで、もちっとコア層に向けたプレミア感がある仕掛けをしてもいいような気もする。さすがにアメリカのようにリンチ自身が来場して上映後の質疑応答にこたえるっつーのは望めないだろうが、たとえば半券10枚一口で応募すると抽選で1名様にリンチのドローイングが当たったりなんかしたら、自分としては親戚一同引き連れてリピーターになったりするかもしれない(笑)。というわけで、できたら今からでも考えてみてください(笑)。

2007年7月18日 (水)

リンチ系ヒマネタ (1)

えー、ヒマネタである(笑)。

デイヴィッド・リンチというのは、抽象表現&表現主義な人なんである。ここでいう表現主義というのは、要するに「人間の内面を表現するためには、外面的な写実性なんか放棄しちゃっても全然OK」という考え方のことで、リンチに関していえば最初期の「アルファベット」や「グランドマザー」のころから、いや、映像作品を作り始める前の画家を目指していたころから、ずーっとずーっと(以下繰り返し10回)ずーっと、そーなんである。

今更っちゃあ今更なことなんだけど、日本におけるリンチ紹介がそういう基本的なところの記述をスルーした形で進んでいるよーな気がするので、あえてヒマネタとして書いちゃえ(笑)。誰かもっと忙しい人がすでに書いてたりしたら、そのときゃゴメンなさいとゆーことで(笑)。

映像における表現主義のわかりやすい例ってのが、たとえば超古典で超有名な本家本元のコレ。

karigari_3
「カリガリ博士」においては、狂人の内面を反映して背景の「外面的写実性」が放棄されて歪んじゃってるんだけど、リンチ作品では背景じゃなくて「作品内で起きる出来事そのもの」が歪んでいる。歪ませる対象は違っても、本質的なところは同じ。

たとえば「イレイザーヘッド」における赤ん坊やラジエーター・ガール、そして「ロストハイウェイ」におけるミステリーマンなど、リンチ作品には多くの「異形のもの」たちが登場するけど、これらは内面的感情の反映を優先した結果の「外面的写実性の放棄」の例として、まずは捉えられるべきものだということスね。

「ロストハイウェイ」のフレッドとピートの二役も、逃避行動を起こした人間の内面を描いた映像表現として、ミもフタもないくらい端的で直裁的といえる。内的リアリズムが外的リアリズムにそのまま直結している点において、これ以上シンプルな表現方法はないんじゃないかというくらい。

てな具合に、リンチ作品において最優先されているのは「人間の感情を映像としてどう表現するか」ということなわけで。となると、各作品において「その映像が誰の感情の反映であるか」を捉えるのが、リンチ作品に対する基本的なアプローチの出発点になるといえるのではないでしょーか。

さて、それはそれとして。

過去のフィルム撮影による作品において、リンチは基本的にローテクなアプローチでこうした「歪み」を描いてきた。先に挙げた例でいうと、ラジエーター・ガールのようなメイクだったり、赤ん坊のような特撮であったり。その他「ロストハイウェイ」等における逆回しだったり、「マルホランド・ドライブ」におけるマイクロ・ジジババの合成であったり、基本的にいまや「古臭い」ともいえる映像効果の範疇に収まり、CGすら使わない。古典的ハリウッドの編集文法を頑なに守っている点などとあわせ、このあたりの「映像的保守性」が実はリンチ作品の特徴のひとつといえるのではないかと思っていた。

ところが、ここ最近、デジタル撮影に切り替えた結果として、ダイレクトに映像をいじくった表現が登場しはじめた。その典型例が「インランド・エンパイア」のトレイラーにも登場している「ファントムの崩壊」シーンで、少なくともフィルム撮影によるリンチ作品にはなかったような表現なんではないかと思う。

「ロストハイウェイ」において、フレッドからピートへの変貌シーンを撮ろうとしたものの、納得できるものにならず結局断念したという話を聞いたことがある。となると、この「ファントム崩壊」は、新しいツールを手に入れたリンチによる、そのリベンジであるようにも思えるのだが、はてさて。

2007年7月14日 (土)

「リンチ・ショップ」へ行く

台風4号が近づく雨の東京。でも用事があったので外出。ついでに恵比須の東京写真美術館ミュージアム・ショップ内にあるリンチ・ミニ・ショップまで。

とりあえず、リンチ印のコーヒーをば税込1890円也で購入して帰宅。

……うん、まあ、ミニとはいえあれをショップと呼ぶのは、近所の中華料理屋の中華飯を満漢全席と呼ぶぐらいの……いえ、なんでもないデス(笑)。コーヒーが手に入っただけでも幸せデス(笑)。

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金属製でラベルは、んな感じ。

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蓋には稲妻マークでエレクト リック。
なおかつ分厚いんで、保存用のジャーとしてはいい感じではないかと。

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「このコーヒーの売上による収益は、AFI(American Film Institute)のデイヴィッド・リンチ・フィルム奨学金の為に使われる」由の説明が。

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蓋を開けると、こんな感じで内袋が詰まっております。

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「リンチ・コーヒー・キット」(笑 )

IMG_0774

内袋に貼られているラベルによると、「8月1日までにお飲みいただけると美味しくいただけます」だそーだ。あら、さすがオーガニック。さっさと飲まんとイカンな。

7/18追記: 買い置きのコーヒーが切れたんで、本日からいただいておりマス。うーむ、好みからすると、ちょいと焙煎が深いかもー。

2007年7月11日 (水)

「Detour」の回り道

「Detour」(1945)というフィルム・ノワール作品がある。邦題は「恐怖の回り道」。

監督はドイツ脱出組のエドガー・G・ウルマー。ムルナウやラングと比べると、この人のハリウッドに渡ってからの一般的評価はあまり高くない。どうも世渡りが下手だったぽいところがあって、それでいい仕事にありつけなかったんじゃないかと勝手に想像してるのだけど、当たってるかどうかは知らない。「Detour」もそうした「いい仕事じゃない低予算Bピクチャー」の一本ではあるのだけど、ノワール好きからの評価が高いのはウルマーの演出によるところが大きいだろう。

ファム・ファタール役は、アン・サヴェイジという個人的に割と好きな女優さん。「Midnight Manhunt」 (1945)というノワール・コメディの女性記者役とか、たいした役じゃないんだけど非常におヨロシかった。実生活では、とっとと女優稼業に見切りをつけて資産家と結婚したまではよかったんだけど、夫と死別すると同時に破産し、老後はかなり苦労したようだ。

問題は主演のトム・ニールで、なんかもうこの人は私生活がメチャクチャ。女性をめぐってのいざこざで暴力事件を起こして仕事を干されたあげく、妻(三人目)を射殺したかどで刑務所入り、6年お勤めしたのちに釈放されたのはいいがその半年後に心臓麻痺で死亡……ってな文字どおり「ノワールな人生」である。

その暴力沙汰の相手というのが「幻の女」(1944)に出ていた、やっぱり俳優のフランショー・トーンだ。悪いことにニールは学生時代ボクシングをやっていたもんで、ドツき回されたトーンは鼻と頬骨を折るわ、脳震盪を起こすわで病院に担ぎ込まれる大騒ぎになったらしい。

ニールとトーンが争奪戦を繰り広げていた相手というのがバーバラ・ペイトンという女優さんなのだが、この人がまた強烈(笑)。

barbpayton

最初はジェイムズ・キャグニーやらゲーリー・クーパーやらグレゴリー・ペックやとの共演作品に出演し、順風満帆な感じだった。ところがこの人、とんでもなく男癖が悪かったようで、既婚のトップ・スターやプロデューサーを「つまみ食い」しまくったみたい。で、醜聞が広まるにつれ、次第に仕事にも差障りが出るようになる。

そんななかで、トム・ニールとフランショー・トーンとの暴力事件が起き、これで彼女の評判は決定的に地に落ちた……かというと、まだまだそんなもんじゃなかった。彼女の「地面」はもっと下だった。

すったもんだののち、ペイトンは怪我から回復したトーンと結婚する。かと思ったら、たった7週間で離婚。なんと今度はニールとくっつく。いったいナニがしたいんだ、アンタ……とみんなが思ったらしく、もう彼女には碌な役が回ってこなかった。「ゴリラの花嫁」(Bride of the Gorilla/1951)でゴリラにさらわれたりなんかしてるうちに、さすがに本人もヤになったらしく、心機一転、今度はイギリスの映画界で出直そうと海を渡る。

が、当然ながらイギリスでもうまくいくはずがなく、尻尾巻いてアメリカに帰った彼女には、もうどん底に至る道しか残っていかった。

1955年から1965年にかけて、バーバラ・ペイトンは何度も犯罪歴を残す。不渡り小切手を出して捕まる、公衆の面前で泥酔して捕まる、万引きで捕まる、麻薬所持で捕まる……そしてもちろん、売春で捕まる。もうこのころには美貌も衰え、体型も崩れ、客にぶん殴られて歯は欠け、最後はバス停のベンチで寝泊りするありさま。

以前、IMDbの掲示板で、1963年ごろのペイトンを目撃したという人の書き込みを読んだことがあった。職場の向かいの2階に彼女が住んでいて、客を引き込んでは窓あけっぱでお仕事してたのが丸見えだったらしい。

ついに67年、親族に引き取られてアルコール断ちを試みるもすでに手遅れ。同年5月、バスルームで倒れているところを発見され、心臓と肝臓の疾患で死去。享年39歳。なんかもう、ネガティヴな意味での「ハリウッド伝説」の典型例みたいな人だ。

ところで、バーバラ・ペイトンの最後の出演作となったのが、「Murder Is My Beat」(1955)というフィルム・ノワール作品。監督がなんとエドガー・G・ウルマーだったりするのが、これまたなんかの星の巡り合わせなのかどうか。この作品も観てみたいと思うのだけど、残念、北米ですらソフト化されていないのでありました。

2007年7月10日 (火)

「インランド・エンパイア」伊版DVD!

IMDbの掲示板で拾ったネタ。

経緯がはっきりしないのだが、どうやら 「インランド・エンパイア」のイタリア版DVDが7月4日に発売されたらしい。こちらがそのパッケージおよび仕様。

inland_italy

  FORMATO VIDEO: 1.85:1  4/3 letter box, Colore
  LINGUA e AUDIO:  Dolby Digital 2.0 italiano e originale, Dolby Digital 5.1 italiano
  SOTTOTITOLI: italiano
  CONTENUTI SPECIALI: Gianni Canova racconta “Inland Empire”; trailer
  CODICE AREA: 2
  DATA  USCITA DVD: 04/07/2007

うーん、音声および字幕が「イタリア語」しかないってのがネックか? というか、買う気か?(笑) なんか北米版とは特典の内容も違うけど、どーゆーことだかワタシにはわかりませーん。

なんで北米より先にイタリアで出ちゃうのかもよくわからんが、これもパッケに鎮座まします「ベネツィア国際映画祭名誉金獅子賞受賞」(早口言葉か?)の御威光なんスかね?(笑)

ちなみに北米版の8月14日を皮切りに、イギリス版は8月20日、ドイツ版は11月7日というのが現在わかっている各国のDVD発売予定日。Studio Canalのお膝元であるフランス版の発売予定がまだ出てないのが、これまた謎といえば謎。

7/11追記: dugpa.comの掲示板をみてたら、既に伊版DVDを入手されている方がおりました。ス、スバヤイ……。

7/12追記: 伊版DVDには英語音声が入ってるという情報アリ。でもって、米アマゾンから、北米版DVDの発送が遅れるという連絡がきやがりました。こりゃ、伊版DVDにGO!か?

2007年7月 9日 (月)

「インランド・エンパイア」と「Axxon N.」と

デイヴィッド・リンチが公式サイトを立ち上げて、「Dumb Land」や「Rabbits」などの作品を有料で公開し始めたころ、2002年3月1日付のこんな記事が流れた。リンチに対するインタビューをもとに構成された記事で、その当時自分も目にしたことがあったが細部は忘れていた。が、「インランド・エンパイア」を観た後もう一度読み返してみると、いろいろと示唆に富んだ受け答えをリンチはしている。

もっとも興味深いのは記事の最終部分にあるリンチのコメントで、「公式サイトで配信している作品をTV局に売り込むつもりはあるのか」という記者の質問に対して答えたものだ。

----「これがTVだ。(インターネットは)新しいTVだ。(中略)これらの作品は、TVで観るのもインターネットで観るのも、同じようなものだ。だったら、なぜTVにこだわる必要がある? TVは死んだ」

……いきなりの死亡宣告であるが(笑)、「マルホランド・ドライブ」を米ABCに蹴飛ばされた怒りが未だに消えていないことがうかがえ、その点でも興味深い。だが、もっと興味深いのは、この発言を読む限り、「Dumb Land」や「Rabbits」などの配信用の作品を、リンチは「TV番組」という意識で作っているともとれることだ。この2作品が何話にかわたる連続作品として作られていることも、それを補強する状況証拠といえる。

となると、結局単独作品としては完成せず公式サイトでの公開には至らなかったものの、これまた全9話となる予定だった「Axxon N.」も、おそらくはTV番組として意識された作品になっていた可能性が高い……と考えるのがとりあえずはストレートだ。「Dumb Land」がTVアニメ、「Rabbits」がシットコムとなると、殺人がからむ話といわれていた「Axxon N.」は犯罪物TVドラマという位置付けだったのだろうか(そういえば、リンチの公式サイトには「天気予報番組」まであるのだった。リンチは本気で、自分のサイトを「自前のTV局」と考えているみたいだ)。

もしそうだったとすると、「インランド・エンパイア」のなかで、あるときはレンガの壁に書かれ、またあるときは鉄の扉に書かれている「Axxon N.」という文字は、「TVによる映画に対する侵食」の象徴であるように思えてくる。「Rabbits」の「インランド・エンパイア」内における位置付けについては、「インランド・エンパイア」を観た (1)で述べた。繰り返し登場する「Axxon N.」の文字も、やはり「Rabbits」と同じく、変容してしまった我々の「映画受容の形」に対するリンチの思いの表れであるのかもしれない。

「インランド・エンパイア」内における位置づけとしてもうひとつの可能性を示唆するのは、「Axxon N.」に続けてアナウンスされる「the longest running radio play in history」というサブタイトルだ。つまり「Axxon N.」が、むしろ逆に、いまや映像ドラマに駆逐されてフェイドアウトしてしまっているラジオ・ドラマの痕跡に対するオマージュなのではないかという見方である。そう考えると、冒頭の顔をかき消された男女の映像は、映像に比べて感情移入装置として制約があるラジオ・ドラマに対する映像的オマージュとも読み取れる。この視点に立つならば、「インランド・エンパイア」は、映画・ラジオ・TVという三つのメディアに関して言及した作品になるといえるだろう。

それにしても、いずれにせよ近い将来、我々はこの「インランド・エンパイア」という作品をおそらく、いや確実に、DVD再生という手段を用いモニターを通して観るはずだ。そう思うと、なんだか一種複雑な心境になってしまう自分がいたりするのがナントモだ。

2007年7月 8日 (日)

「ツイン・ピークス」関連あれこれとか

本日のdugpa.comネタ。

10月に「Twin Peaks Definitive Gold Box Set」通称「ツイン・ピークス決定版黄金箱」なるものが北米で発売されるらしい、というのは既報どおり。

しかし、現在公表されているボックス・アートはアチラの「ツイン・ピークス」ファンにはすこぶる評判が悪いようだ。映像特典の内容同様、あのボックス・アートも最終決定ではなくてまだまだ変更の余地があるようなので、ま、今のうちにクレームつけちゃれということではないかと推察する(笑)。

ただし、そこはそれ、FNFの例にもあるように「欲しいものは自分で勝ち取れ」という非常にポジティヴなお国柄の人々のことである。気に入らないなら、気に入るようなボックス・アートを自分で勝手にデザインしてやるというファンが現われるのは当然の帰結だ。ということで、自家製デザインのあれこれはこちら

こんなにいっぱい作る必要があったのかとも思うが、これぞ「ツイン・ピークス」にかける情熱の証しというものでありましょう(笑)。

それと、新しく立ち上がった「ツイン・ピークス」ファン・サイトの紹介もあった。2回にわたるローラ・ママ(Grace Zabriskie)へのインタビューやハンク・ジェニングス(Chris Mulkey)へのインタビューがあったりして、気合が入ってマス。

Grace Zabriskieによると、最初リンチから「インランド・エンパイア」のオファーがあってから実際のシナリオ到着まで、なんやかんやでエラク時間がかかったらしい。なので、もう誰か他の人で撮っちゃったのかなーとか思ってたそーだ。なおかつ撮影三日前にいきなり「東欧なまりで喋ってくれ」といわれて、慌てて方言トレーナーを捕まえたりして大騒ぎだったとのことである。まあ、このあたりもクルーの人数を絞れるDV撮影の身軽さの表れなのかもしれない……って、そうなのか? それでいいのか?(笑)

2007年7月 5日 (木)

「Rabbits」を観る

「Rabbits」は、2002年からデイヴィッド・リンチの公式サイト上で公開された、全9エピソードからなる連作短編である。現在では公式サイトでの公開は終了しているが、これは「インランド・エンパイア」でその一部が使われ、単独作品としての意味を失ったとリンチが判断したからではないか…… というのが個人的な推測。

inland_3

先日、パリでの作品展にあわせてリンチの作品集「The Air Is on Fire」が刊行されたが、これに収録されている絵画や写真には製作年の表記がほとんどない。映像作品等に同一のモチーフが使われているケースがあり、そこから逆に絵画等の「意味」を類推されるのをリンチが嫌ってのことだという。

おそらくだが、「Rabbits」についても同じような理由で公式サイトから削除された可能性がある。同様にこれまた「インランド・エンパイア」の随所に登場している「Axxon N.」も、結局単独作品としては発表されないまま公式サイトからタイトルが削除されている。ひょっとしたら、この二作品を当初の形で観ることは、(正式には)もうできないのかもしれない。

それはさておき、公開されて以来、「Rabbits」に関しても「こりゃ、ナニよ?」という議論が向こうのリンチ・ファンのあいだで沸き起こった。三匹のウサギたちの関係についてなかなかに想像たくましい意見が交換されたが、なかには「問題を抱えた夫婦たち」などといういかにもリンチ・ファンらしいダークな見方があったりもした(笑)。

そんななかで、「一見つながりがなく無意味に思われるウサギたちの会話だが、ひょっとして順番を入れかえれば意味が通るのではないか」というチャレンジがあった。その労作の結果がここにあるのだが、なるほど、確かにこうしてみると会話として成立しているように思える。

これをみて思いだしたのが、「爆発した切符」や「ノヴァ急報」といったウィリアム・S・バロウズの小説作品だ。記憶違いでなければ、バロウズはこれらの作品を書くにあたって何台かのテープレコーダーを使い、あらかじめ録音したストーリーをランダムに再生してはそれを書き取ることにより、コンテキストが崩壊した文章を書いた……あれ? これはJ・ G・バラードのコンデンスド・ノベルのほうだっけ? まあ、同じようなもんだからいいや(笑)。リンチがそうした小説作品の手法を意識したのかどうかは知らないが、とりあえず手法として共通項がある可能性だけ指摘しておく。

昨年、Avid社が自社の映像編集ソフトのパブリシティとして「ROOM TO DREAM」というDVDを無償配布したことがあった。そこに収められたリンチ製作の短編でも、この「成立しない会話」という手法は使われている。また、さかのぼれば、初期の短編である「切断手術を受けた人」(1974)や「カウボーイとフランス男」(1989)も、この系統に属するといえるのかもしれない。

はたしてこうした手法は、「アルファベット」(1968)にみられるような「言語」に対するリンチのコンプレックスの表れなのか。はたまた「言語による意味の限定」を嫌うリンチの「言語」に対する復讐なのか。まだまだ興味は尽きないが、残念、時間切れである(笑)。

2007年7月 3日 (火)

オペラ版「ロストハイウェイ」が観たい

何年か前、オーストリアの作曲家であるオルガ・ノイヴィルト(Olga Neuwirth)がデイヴィッド・リンチの「ロストハイウェイ」をオペラ化するというので評判になったことがあった。リンチとバリー・ギフォードが許可をおろす際、版権使用料等を要求しなかったというのも、そのとき一緒に流れたいい話。

このオペラ、正確にいうと、2003年の10月31日、オーストリアのグラーツ(Graz)で開催されたSteirischer Herbst Festival of New Musicという音楽祭での上演が初演。そのときの報道ではニューヨークでの公演もあるようなことが伝えられていたのだが、その後、音沙汰がない。ありゃ、どーなったんだろうと思っていたら、今年の2月になってようやく実現したらしい。

さて、あの作品がどんなふうにオペラになっているのか興味津々だが、実物を観たわけではないので、そこらへんはなんともはや。とりあえず、ニューヨークでの公演に関する記事は、あっちとかそっちとかこっちとかどっちとか。

LostHighwayop_5

えーと、表現派演劇というか「カリガリ博士」というか、思いっきりセットが傾いてますけど(笑)。

リンチがこのニューヨークでの公演を観たのかどうか定かではないのだが、バリー・ギフォードのほうはオープニング・パーティにも出席し、オペラ化を喜んでいる旨の発言をするとともに「ノイヴィルトの音楽は映画の精神と完全に合致している」というコメントを残している。

ま、音楽に関しても実際に自分で聞いたわけではないんで、ナントモかんとも。記事によると、オーケストラによる生演奏は当然ながら、録音された多ジャンルの音楽が流れるわ、果てはラジオをチューニングするときのノイズが混じるわ……といった具合に、映画同様にこちら側の混乱を誘うようなものではあるみたいなのだが。

「私は曲の構成をいきなり変えるのが好きだ。(自分の曲には)簡単に聞きとれるような主題は決して存在しない。(中略)リンチの作品では、登場人物が現れ、また姿を消すことがある。それがなぜか、すぐにはわからない。私はそれを音楽でやろうとしているのだ」というのがノイヴィルト本人のコメント。

「ミステリーマンがテノールでカウンター・パートを唄う」ってのは、なんかよくわからんが、とりあえず血沸き肉踊るぞ(笑)。しかし、 dugpa.comの掲示板ではボロクソに酷評されてんだよねえ。うーん、やっぱ、自分の目で観てみないことにはよくワカランわ、こりゃ(笑)。

来年の4月にはロンドンでも上演するみたいだけど、さすがに日本じゃやらんだろうし……とか考えてたら、 なんとこのオペラのCDが出てしまった。レーベルはKairos、仕様がHybrid SACDということで値段が張るのがちょいアレだけど、日アマゾンでも注文可。

losthighwayop_cd

うはは、さーて買ったもんかどーか、現在お悩み中(笑)。

2007年7月 1日 (日)

「インダストリアル・シンフォニー#1」を観る

「インダストリアル・シンフォニー#1」は、デイヴィッド・リンチが手がけたライヴ・パフォーマンスである。 1989年の10月にブルックリン・アカデミー・オブ・オペラ・ハウスで上演された。リンチ作詞アンジェロ・バダラメンティ作曲の楽曲の数々がジュリー・クルーズの歌によって披露されるが、そこはやはりリンチらしい演出が入り、単なるステージ・ショーではない文字どおりのパフォーマンスとなっている。

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Martha P. Nochimson著の評論集「The Passion of David Lynch」によれば、ソフト化されている映像はリンチによる編集がなされているということだ。たとえば、冒頭にある「ローラ・ダーンとニコラス・ケイジの電話による会話」はソフト化の段階で付け加えられたもので、舞台での公演時には存在しなかったらしい。また、出演者だったマイケル・アンダーソンの証言に基づけば、ステージ場面の映像自体も、その日行われた4回の公演の録画素材をつぎはぎして編集されているのだそうだ。

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この追加されたオープニングは、サブタイトルである「The Dream of the Boroken Hearted」とあわせて、リンチによる舞台演出の全体構造を理解するうえで重要なキーになっている。つまり、ステージの上で繰り広げられているのは、ケイジ演じる男性に別れを告げられたローラ・ダーン演じる女性のみる「夢」、つまりは彼女の「心象風景」であり「意識の流れ」であって……

……となると、なんのことはない。要するに、「ロストハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」といった映画作品と同じ事を、「歌つき舞台公演」としてやっているわけだ。そうなるとステージ上で繰り広げられるジュリー・クルーズの「浮遊」や「墜落」は、そうしたコンテキストのうえで理解できるような気がする。

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もうひとつ指摘しておきたいのは、人形を投下する「爆撃機」が登場するが、これと同じモチーフのリンチの絵が存在することだ。つまり、アイデアのフラグメントを集め、なんらかの横糸でまとめて作品として仕上げるという方法論は、「インランド・エンパイア」から大きくさかのぼる「インダストリアル・シンフォニー#1」においてもみられる、ということになる。

話を戻すと、公演のなかほどで、今度はマイケル・アンダーソンの朗読によって、ダーンとケイジが交わした「会話」が繰り返される。ライヴでステージを観た観客に対する「全体構造の提示」はその朗読だけだったということになるが、それではわかりにくいと判断したリンチが件のオープニングを付け加えたのだろうか? とりあえず今のところ、それを裏付ける証言などはないようだ。

しょーもないことなんだけど、手術台から起きあがって舞台をうろつく「鹿男」は、DeerとDearの駄ジャレだったり…… しないよね?(笑)

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