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2007年6月27日 (水)

カール・フロイントのこととか

では、ウェルズを追い返しつつ、続くぞ!

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そうした「ハリウッドが手に入れた才能」の一人が、カール・フロイントという撮影監督だ。ドイツ時代にはF・W・ムルナウの「最後の人」(1924)やE・A・デュポンの「ヴァリエテ」(1925)、フリッツ・ラングの「メトロポリス」 (1926)などの撮影を担当した人で、特に「最後の人」ではカメラをお腹にくっつけたり荷車に乗っけたりして、酔っ払いの主観視点を表現したり意図をもった自在なフレーム移動を実現したりした。

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後にアメリカに渡ってトッド・ブラウニングの「魔人ドラキュラ」(1931)の撮影を担当(ベラ・ルゴシ演じるドラキュラ伯爵の登場シーンは、実はブラウニングにかわってフロイントが監督したという説もある)、「ミイラ再生」 (1932)では監督も引き受け、ユニバーサル・ホラーのカラー確立にあたって多大な影響を与えた。ホラー映画だけでなく、ジョン・ヒューストンの「キー・ラーゴ」 (1948)における夜の嵐の海の撮影などでも、高い評価を受けている。

その後、新しいTV番組企画を立ち上げようとしていたコメディ女優ルシル・ボールとその夫だったデジ・アーネイズから声がかかり、大ヒット番組になった「アイ・ラブ・ルーシー」の撮影責任者になる。TVドラマ史上、初めてのフィルム収録になったこの番組のために、フロイントは3台のカメラを使った撮影システムを考案した。これを基礎とした撮影システムは現在のTV局でも使われており、我々は今も彼が開発したテクニックの恩恵を受けていることになる。

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補足しておくと、1950年当時のTVドラマは生放送が主だった。ネットワーク網が出来あがり、西海岸と東海岸の時差が問題になると(全米放送をすると、どこかの地区がゴールデン・タイムから外れる)、キネコ(TVカメラで撮影した映像をモニター画面に流し、それをフィルム撮影する)というテクニックを使って時間をずらして放送されることもあったが、当然ながらそのころの技術では画質が悪い。

それに加え、当時のTV番組は親局がある東海岸で収録されていた。だが、ルシル・ボールはハリウッドに住んでおり、西海岸での収録を望んでいた。彼女にとってフィルムによる撮影はそういう意味で必須で、前例のない収録方式をしぶるテレビ局を説得するのに苦労したらしい。結果として番組は大成功。なおかつ、映像がフィルムで残っているために再放送が可能になるとともに、ネットワークに参加していない地方局での放映もできるという副次メリットも生まれた。そういうアドバンテージもあって「アイ・ラブ・ルーシー」(1951~1957)はとんでもない長寿番組になり、続編を含め全米で人気を博することになる。

んなわけで、カール・フロイントが大西洋を挟んで、あるいは映画業界からTV業界をまたいで、大きな業績を残してきたことがわかっていただけたと思う。個々の技術を知っているだけでなく、そうした技術を開発し実用化する「能力」を備えた人だったわけだ。

ところで、ドイツのサイレント映画撮影において、海外版用のフィルムを作るために、ひとつのシーンを複数台のカメラで同時撮影したという話を聞いたことがある。フロイントの3台のカメラによるTV番組撮影システムは、こうした映画撮影方法をもとに考案されたのかもしれんと疑ってたりするのだが、さて、真相やイカにタコに。

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