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2007年6月

2007年6月30日 (土)

「ホテル・ルーム」のシナリオをば読む

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「ホテル・ルーム」(1993)は米HBOテレビのために作られたオリジナル・ドラマで、全3話のうち「トリック」と「停電」 の2話をデイヴィッド・リンチが監督している。シナリオは「ワイルド・アット・ハート」で原作者として初めてリンチと組んだバリー・ ギフォードで、二人はこのTVドラマの仕事をした後、「ロスト・ハイウェイ」のシナリオを共同執筆することになる。

hotelroombook

で、このTVドラマのシナリオ集である「Hotel Room Trilogy」という本が、ミシシッピー大学出版局から出ている。 もちろん、著者はバリー・ギフォード。ただし、リンチが監督しなかった「ロバートにさよなら」(監督はジェームズ・シグノレッリィ) は入っておらず、かわりにギフォード自身の短編小説をもとにした「カシフィ夫人(Mrs. Kashifi)」というオリジナル・ シナリオが収録されている。

ホテルの一室を住居にしているカシフィ夫人のところへ、30歳くらいの母親が8歳になる息子を連れてやってくる。 カシフィ夫人は占い師で、母親は先日亡くなった自分の母親、つまり息子の祖母があの世で幸せに暮らしているかどうか確かめにきたのだ。 母親と夫人が別室で紅茶占いをしているあいだ、息子のチャーリーは鳥かごに入った一匹のインコと取り残されることになる。すると、 そこに祖母の亡霊が現われ、彼に話しかけて……。

……という、いかにもギフォードらしい毛色の変わった幻想譚である。年代は1952年に設定されているようで、となると、 ちょうど1936年に設定された「停電」と1969年の「トリック」の間に起きた話ということになるはずだ。ただし、 もともとTVドラマ用のシナリオとして書かれたわけではないので、若干、他の話とフォーマットが違っている。 廊下と部屋だけでなくホテルのロビーも舞台として出てくるし、カシフィ夫人が住む部屋が603号室と明示されていない。部屋の構造も違う。 他のシナリオでは舞台となる都市がはっきりニュー・ヨークに設定されているのに対し、このシナリオでは「大都市」としか書かれていない等々、 番外編的なニュアンスが強い。

リンチが映像化していたらどんな感じになっただろうと思うのが、デ・ウィット氏という登場人物。 この男はカシフィ夫人と母親と息子の話には、直接にはからんでこない(間接的にはからんできて、 いろいろとこちらの想像力をかきたててくれる)。どうやら健忘症の気があるらしく、 フロントのホテルマンに自分が来たらその度に部屋番号を教えてくれと頼んだりしたあげく、 最後はなんともいえない登場の仕方をして話を締めくくってくれる。まあ、リンチの手にかかったら「カウボーイとフランス男」や「オン・ジ・ エアー」の登場人物たちのような、ベタな描かれ方になったとみるのが妥当なのかしらん。

ギフォードの前書きによると、この「カシフィ夫人」は彼が子供のころ、 奔放な母親と一緒に暮らしていたときに体験した話に基づいているらしい。「南部の夜三部作」など、この人の小説作品には南米文学を思わせる 「魔術的」な話が多いが、それらの作品群にも彼の実体験に基づいたものがあるのかどうか。

同じ前書きには、「ホテル・ルーム」の打ち合わせ時に、プロデューサーだったモンティ・ モンゴメリーとリンチがギフォードと交わしたという会話も披露されている。それによると、モンゴメリーとリンチには 「自分たちの祖母が観られるようなドラマを作りたい」という意向があったようだ。それに答えてギフォードいわく、「なにも問題はないな。 私がシナリオを書くから、あんたたちはお婆さんを縛りあげて猿轡をかませばいい」

……実行したかどうかは知りません(笑)。

2007年6月29日 (金)

「インランド・エンパイア」その後(米国編)

さて「インランド・エンパイア」の公開まで1カ月を切り、劇場で再鑑賞するのを心待ちにしている今日この頃。もう一回観れば、ころっと意見が変わったりするかもしれんのだが、そこはそれ(笑)。

当然ながら米国ではすでに公開済みなわけで、IMDbを含めた各種関連掲示板では活発な意見交換がされている。やっぱ、いちばん目立つのは「ワタシは一体全体ナニを観たのか」という茫然自失系の書き込みなのだが、そこもそれ(笑)。

面白かったのは、今敏の「パーフェクト・ブルー」との類似点を挙げた意見があったことだ。いや、別に意見そのものが面白いわけではなく、そこまで手を出している向こうのリンチ・ファンがいるというのが面白かった。「映像における(作品内)非現実の描かれ方」の事例収集に自分自身も凝ったことがあって、「パーフェクト・ブルー」も同じような嗜好のあちらのファンの網に引っかかったんではないかと想像する。

物はついでといろいろ検索してみたら、どうやら向こうの高校生とおぼしき人物が「パーフェクト・ブルー」の評を書いているのを見つけてしまったりするのだな。本人がいたくお気に入りの様子なのはいいのだけど(いいのか?)、近所のレンタル・ヴィデオ屋で借りたみたいで、ご丁寧にその店名まで書いてあるのはいかがなものか。店主が捕まりゃせんか(笑)。

なかには三池崇史の「極道恐怖大劇場 牛頭」との比較をしている意見もあったりで、あのね、アンタら、ナニを観とるのかね(笑)。つか、どこで観たんだ、ンなもん……と思って調べたら、フツーに米アマゾンでDVDを売ってたりするのな(なおかつ国内版より安く)。さすがにこの比較には「そりゃ順番が逆じゃないか?」と言わざるを得ないが、文化の伝播・混合というのはそうしたもんなのかもしれない、きっと、多分、おそらく。アッチにもそーゆーのが好きなヤツがいるのだなと思うと、なんとなく心が温まったような気がしませんか? ……しないか(笑)。

いずれにせよ、リンチ作品を「(作品内の)現実と非現実」の二元論で論じるのは自分のスタンスではないので、こういう作品対比には与しないのだけど。

2007年6月28日 (木)

その名は「フィルム・ノワール財団」

「フィルム・ノワールのことなど (2)」で触れたフィルム・ノワール財団(Film Noir Foundation)だが、そこの公式ページで登録しておくとイベントの案内とかのお知らせメールを送ってくれたりする。まあ、たいがいそうしたイベントは北米での開催なのでホイホイと参加するわけにもいかないんだけど、上映予定の作品の紹介記事なんかは面白く読ませていただいている。まことに有り難いかぎりで、サン・フランシスコ方面には足を向けて……なんか、こればっかだな(笑)。

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FNFに会員登録して会費を払うと、「Noir City Centinel」というMailベースの機関紙が読めるようになるのだが、フィルム・ノワール好きには興味深い記事がいろいろ掲載されていて、これがまた非常に面白い。会費の額には何ランクかあって選べるようになっており、高額になればなるほどいろんな特典(FNF主催で毎年開催されている「Noir City」という映画祭の無料パス等)が貰えるようになっている。

そして、そうして集められた会費は、フィルム・ノワール関連作品のフィルムの発掘や復元作業にかかる費用として使われるという仕組みだ。復元されたフィルムは、協力体制にある何箇所かのアーカイヴに引き渡されて保管され、協会主催のイベントをはじめとする各種上映会で上映される。そうして復元された素材を使って、ソフト会社でDVD化された作品もある。

昔の映画フィルムの発掘・復元を目的として活動している非営利団体は、国内外、民間・公立を問わずいくつもあるのだが、対象をフィルム・ノワール関連作品に限っているところがユニークといえばユニークだ。他の映画ジャンルにおいても活発に活動をしている団体はあるようだけど、フィルムの復元・保管まで視野に入れて活動しているところがあるかどうかは、不勉強にして知らない。

いずれにせよ、自分たちが観たい作品のフィルムは、企業や公的機関に頼るだけでなく、自分たちでなんとかしてしまおうという姿勢が思いっきりポジティヴだ。手をつかねているうちに永遠に失われてしまうフィルムが出ることは確実なわけで、後世にその作品を残すためにも貴重な活動をしているのは間違いない。

思いっきりFNFの宣伝めいたことを書いてしまったけど、ワタシは関係者ではありません(笑)。というのはともかく、関心のある向きは、ぜひ一度公式ページを覗いてみてくださいませ。

2007年6月27日 (水)

カール・フロイントのこととか

では、ウェルズを追い返しつつ、続くぞ!

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そうした「ハリウッドが手に入れた才能」の一人が、カール・フロイントという撮影監督だ。ドイツ時代にはF・W・ムルナウの「最後の人」(1924)やE・A・デュポンの「ヴァリエテ」(1925)、フリッツ・ラングの「メトロポリス」 (1926)などの撮影を担当した人で、特に「最後の人」ではカメラをお腹にくっつけたり荷車に乗っけたりして、酔っ払いの主観視点を表現したり意図をもった自在なフレーム移動を実現したりした。

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後にアメリカに渡ってトッド・ブラウニングの「魔人ドラキュラ」(1931)の撮影を担当(ベラ・ルゴシ演じるドラキュラ伯爵の登場シーンは、実はブラウニングにかわってフロイントが監督したという説もある)、「ミイラ再生」 (1932)では監督も引き受け、ユニバーサル・ホラーのカラー確立にあたって多大な影響を与えた。ホラー映画だけでなく、ジョン・ヒューストンの「キー・ラーゴ」 (1948)における夜の嵐の海の撮影などでも、高い評価を受けている。

その後、新しいTV番組企画を立ち上げようとしていたコメディ女優ルシル・ボールとその夫だったデジ・アーネイズから声がかかり、大ヒット番組になった「アイ・ラブ・ルーシー」の撮影責任者になる。TVドラマ史上、初めてのフィルム収録になったこの番組のために、フロイントは3台のカメラを使った撮影システムを考案した。これを基礎とした撮影システムは現在のTV局でも使われており、我々は今も彼が開発したテクニックの恩恵を受けていることになる。

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補足しておくと、1950年当時のTVドラマは生放送が主だった。ネットワーク網が出来あがり、西海岸と東海岸の時差が問題になると(全米放送をすると、どこかの地区がゴールデン・タイムから外れる)、キネコ(TVカメラで撮影した映像をモニター画面に流し、それをフィルム撮影する)というテクニックを使って時間をずらして放送されることもあったが、当然ながらそのころの技術では画質が悪い。

それに加え、当時のTV番組は親局がある東海岸で収録されていた。だが、ルシル・ボールはハリウッドに住んでおり、西海岸での収録を望んでいた。彼女にとってフィルムによる撮影はそういう意味で必須で、前例のない収録方式をしぶるテレビ局を説得するのに苦労したらしい。結果として番組は大成功。なおかつ、映像がフィルムで残っているために再放送が可能になるとともに、ネットワークに参加していない地方局での放映もできるという副次メリットも生まれた。そういうアドバンテージもあって「アイ・ラブ・ルーシー」(1951~1957)はとんでもない長寿番組になり、続編を含め全米で人気を博することになる。

んなわけで、カール・フロイントが大西洋を挟んで、あるいは映画業界からTV業界をまたいで、大きな業績を残してきたことがわかっていただけたと思う。個々の技術を知っているだけでなく、そうした技術を開発し実用化する「能力」を備えた人だったわけだ。

ところで、ドイツのサイレント映画撮影において、海外版用のフィルムを作るために、ひとつのシーンを複数台のカメラで同時撮影したという話を聞いたことがある。フロイントの3台のカメラによるTV番組撮影システムは、こうした映画撮影方法をもとに考案されたのかもしれんと疑ってたりするのだが、さて、真相やイカにタコに。

2007年6月26日 (火)

とってもノワールな「ジェニーの肖像」

「ジェニーの肖像」をば久しぶりに観た。

ロバート・ネイサン原作のこの作品は、石ノ森章太郎や萩尾望都をはじめとする多くのマンガ家によってオマージュされ云々……というのは、もー、どーでもいいですね(笑)。

この作品の製作年度は1948年で……ということは、実は、いわゆるクラッシック・フィルム・ノワールと呼ばれる作品群がハリウッドで作られていた時期の真っ只中に作られているわけだったりする。

フィルム・ノワール作品の画面的特徴として、たとえば「照明がロー・キー&ハイ・コントラスト」 であるとか、「光と影を使った演出」だとかが挙げられることが多い。だが、こうした特徴はこの時期のハリウッドのモノクロ映画に共通してみられるものであり、特にフィルム・ノワール系の作品に限った話ではないという指摘もある。

で、「ジェニーの肖像」にも、そうした指摘を見事に裏付けるシーンが点在するのだな。暗い部屋のシーンで登場人物の顔にだけ照明が当たったりとか、逆光気味に撮られた主人公が霧の波止場でボートを借りるシーンとか、だいたいが主人公がジェニーの絵を描いているシーンまで「逆光に霧」で、思いっきりノワールっぽい(笑)。こうした撮り方がこの時期のハリウッドで一般化していたことがうかがえるシーンである。

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おまけに主演がジョセフ・コットンときたひにゃ、どこからオーソン・ウェルズが出てきても驚かんぞ(笑)。

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なおかつ、こうした撮り方は一般的にフィルム・ノワールが終焉をむかえたとされる1958年以降のモノクロ作品にも引き継がれている。たとえば1964年のロバート・アルドリッチ作品「ふるえて眠れ」においても、「光と影」を使った象徴的なシーンが存在したりする。というわけで、こうした「ルック」の点からフィルム・ノワールを定義することは、やっぱ無理があるように思う。

そもそも、こういう照明を駆使した映像表現は「ドイツ表現主義映画」から発生した流れで、ナチス・ドイツを逃れて海を渡ったドイツ人スタッフによってハリウッドに持ち込まれた……というのが定説である。そうした個々のテクニックが流入して表現の幅を広げられたことも、確かにハリウッドにとって直接的な意味でプラスだっただろう。しかし、思うに、ハリウッドが受けた最大の恩恵は、むしろ、そうしたテクニックを考え出せる能力を手に入れられたことにある。

ウェルズの乱入とかで長くなったんで、別項に続くぞ!

2007年6月25日 (月)

リンチのドキュメンタリー映画「LYNCH (one)」公式サイト出来!

本日のdupga.comネタ。

デイヴィッド・リンチに関するドキュメンタリー・フィルム「LYNCH (one)」の公式ページがオープンされた。

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「予告編」や「フォトギャラリー」と並んでメニューには「Video Blog」なんつのもあるのだが、今日現在、まだ何もアップされていない状態。何が出るか、お楽しみ。「Download」っつーメニューもあるけど、パスワードを要求されてそこから進めない。これはどーすればいーんでしょー?

気になる公開スケジュールだが、今のところ、6月22日から30日までドイツで開催されているMunich Film Festivalでの上映が報じられているだけで、日本での公開予定はないみたいだ。

うーん、「ツイン・ピークス・フェスティバル」での上映を観に行くのが、日本からはいちばん安上がりかなー、今んとこ(笑)。

でもって、こちらがドキュメンタリー製作スタッフのブログ。 2004年12月のポーランドから撮影が始まり、2005年の2月からはリンチの自宅に7か月泊り込んで、毎日毎日リンチを追っかけては撮影したらしい。そこから何度かの追加撮影(ポーランドとニューヨークでの撮影を含む)を挟んで、1年間にわたる編集作業をコロラドの山ん中で行なったそうな。

仕上げの編集はロスでやったみたいだが、ブログには投稿時刻が午前4時とか5時とかの書き込みもあって、マコトにお疲れ様。特に今年の3月末から4月の中頃あたりの書き込みには完全に「壊れてる」感じのも混ざっていて、他人事ながら同情を禁じえなかったりするので、ぜひ一読をお勧めする(笑)。

ちなみに、いま現在のいちばん最後の書き込みは、6月24日の午前10時36分、Munich Film Festivalでの上映開始25分前! 現場から山本がお伝えします! という臨場感あふれるモノだったりするのであった(笑)。

「Catching The Big Fish」をば読む (6)

某氏の「インランド・エンパイア」鑑賞は、どうやら試写最終日になりそうな気配である。健闘を祈る(ナニのだ)。

それはそうと、いよいよネタが尽きてきたディヴィッド・リンチ著「Catching The Big Fish」紹介である。最後は新作である「インランド・エンパイア」関連の文章をば。

近所に引っ越してきたローラ・ダーンとバッタリ出合ったのが製作開始のきっかけだったという話や、「インランド・エンパイア」というタイトルが決まった経緯とかは、すでにいろんなところで紹介されまくっているから割愛する(笑)。

個人的にいちばん興味深かったのは、「Future of Cinema」と題された一文だ。

----「我々の映画の観方は変化している。ヴィデオiPodやヴィデオ配信が、すべてを変えつつある。大きな画面ではなく、小さな画面で観るというのが、昨今の映画鑑賞のやり方だ」

----「小さな観づらい画面で、どうやったら我々は(映画が描く世界を)体験をできるというのだ?」

----「しかし、デジタルはすでにそこにある。ヴィデオiPodも存在する。我々は現実に則し、その流れに身を任せるしかない」

「インランド・エンパイアを観てきた (1)」で述べた「映画受容の変容」と似たようなことをリンチ自身が言っておるわけで、あー、マジで観る前に読んどきゃよかった。

にしても、まさかiPodまで話がいくとは予想してなかったけど、確かに「映像のデジタル化」は、製作からはじまって劇場での上映へ、そして家庭内のモニターでの鑑賞までという従来の枠におさまらず、マルチ・メディア・プレイヤー等の小型端末による時と場所を選ばない受容までを一直線につないでしまう。それはハード・メーカーやソフト・メーカーそしてコンテンツ・メーカーにとどまらず、配信・通信・放送業界や行政までが一丸となった結果、現在確立されようとしているビジネス・モデルだ。

そうした動向に対し、リンチはこう予測する。

----「いい面もある。少なくとも、(iPodとともに)人々がヘッドフォンを所持するようになったことだ。これからは『音』が、もっと重要になっていくと思う」

いかにも当初から「音響」にこだわり続けてきたリンチらしいコメントだが、そうした「こだわり」を含めたいろいろな「思い」が形となって「インランド・エンパイア」に盛り込まれているといえるだろう。そういう意味では、「イレイザーヘッド」と並んで、リンチ作品のなかでも特に「私的な映画」の色が濃い作品であるのは間違いない。そして、「イレイザーヘッド」がもっている普遍性とはまた別な意味の普遍性、つまり「映画がおかれている現状」というアップデイトな普遍性を「インランド・エンパイア」は備えているともいえる。

先に述べた「ビジネス・モデル」のなかで、もっとも立ち遅れ取り残されそうになっているのは、実は映画館等の興行業界であるような気がする。リンチがAbsurdaという会社を立ち上げ、自前で「インランド・エンパイア」の配給に乗りだしたとき、劇場関係者たちと直接会っていろいろ話をしたということを聞いた。その当時のコメントがこれ。

「劇場主の人たちと直接話をする機会がもてたのは、『イレイザーヘッド』以来だ。私の作品を何年にもわたり上映し助けてくれた、鎖の端にいる人たちだ」

ひょっとしたらリップ・サービスの部分もあるのかもしれないが、リンチにとって、やはり「映画は映画館で完結するもの」であるようだ。

2007年6月24日 (日)

「Catching The Big Fish」をば読む (5)

あいもかわらず「Catching The Big Fish」ネタである。今回のお題は「Fellini」。そう、あのフェデリコ・フェリーニである。

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リンチがCM撮影のためにローマを訪れていたときのこと。撮影スタッフのなかに、以前フェリーニと仕事をしたことがある人物が二人いた。当時、フェリーニは北イタリアにある病院で静養中だったが、ローマに転院してくることになったらしい。なんとか会って挨拶できないかとそのスタッフに頼み込むリンチ。んじゃ、なんとかセッティングしてみようということになる。

まず木曜の夜にトライしてみたがアウト。明けて金曜日、念願のフェリーニとの邂逅が叶う。時刻は夕方6時、美しく暖かいイタリアの夏の夕べのことだった。

車椅子に乗ったフェリーニは、リンチに椅子を勧めた。そしてリンチの手をとり、話し始める。昔はこんなだった。フェリーニに寄り添うように座り、耳を傾けるリンチ。半時間ほど話を聞いたあと、リンチは辞する。

それが金曜日のこと、日曜にフェリーニは昏睡状態に陥り、そのまま意識を取り戻すことはなかった……。フェデリコ・フェリーニ、1993年10月31日、歿。

さて、リンチが1993年に撮ったとされるCMは都合7本。そのうち、マイケル・ジャクソンの「Dangerous short films collection」用に撮った作品、アディダスのCM、American Cancer Societyのために作った乳癌検診促進のためのCM、Alka-Seltzer PlusのCM、そしてJill SanderのCMでは、ローマで撮影なんてことはしていないハズ。となると、残るLancome ParisのためのCMとBarilla PastaのCMの2本のどっちかじゃないかと思う。両方を観比べてみた限りではどうやら後者っぽいんだが、誰か確定情報があれば教えてくださいませ。

2007年6月23日 (土)

「Catching The Big Fish」をば読む (4)

またもや「Catching The Big Fish」ネタである。今回のお題は「Mulholland Drive」。

「マルホランド・ドライブ」が当初、米ABCのためのTV連続ドラマとして企画が立てられたが不採用になり、そのパイロット・フィルムを流用し追加撮影して劇場用映画が作られた……というのは有名な話。

で、どうやらリンチのこの文章を読むと、ABCの企画検討責任者は、「マルホランド・ドライブ」のパイロット・フィルムを朝の6時に、コーヒーを飲みつつ電話をしながら観たらしい。でもって、面白くないという判断が下され、不採用になった……という話をリンチは耳にしたのだそうだ。

リンチとしては「もっとマジメに観てくれ」と言いたいのだろう。そりゃそうだ、製作者の立場としては当然の感情だと思う。

だが、向こうのTV局にはパイロット・フィルムが大量に持ち込まれるという話を聞いたことがある。なおかつ、パイロット・フィルム作製に至らずシナリオ段階でボツになる企画になると、その何倍もの数になるらしい。

となると、朝の6時から、他の仕事をやっつけつつ観ないことには消化しきれないのかもね……と、いささか同情気味に想像したりもするのだが、さて、真相やいかに(笑)。そうやって検討に検討を重ね鳴り物入りで放映を開始したTV番組が、視聴率不振のためにシーズン途中であっさり打ち切りになるのもザラだったりするので、向こうのTV業界もそれなりにキビシイんである。

しかし、個人的な最大の関心事は、この担当者が「マルホランド・ドライブ」のパイロット・フィルムを観たのが「徹夜明け」だったのか、それとも「起床直後」であったのか、という点だ(笑)。いやまあ、寝不足でヘロヘロになった状態でアレ観るのもつらかろうし、かといって爽やかな目覚めの後に観るのもなんだか違うような気がして、いずれにせよ「不幸な出会い」だったのは間違いないんだけどね。もし「体調充分かつあんまり充分過ぎない」担当者が夜に観ていたなら、ひょっとしてひょっとしてたのかもしれん。まったく根拠はないけど。

「マルホランド・ドライブ」がABCで不採用になった理由として、ちょうどコロンバイン高校の事件が起こった直後だったため、暴力的なシーンがあるのが敬遠されて……というような話も聞いたことがあるのだが、今回のリンチの文章では残念ながらそこらへんには触れられていない。

2007年6月22日 (金)

「インランド・エンパイア」その後

外部記憶装置として頼みの綱だった某氏は、体調不良で「インランド・エンパイア」の試写会に行けなかった様子だ。うむ、残念無念。つか、他人の記憶に頼るなってば(笑)。

ちょいちょいと「インランド・エンパイア」の試写関連の記事を検索したりしてるんだけど、まだ日本では一般公開されてない映画のこととて、ネタバレをおそれて抑えた書き方をしてる向きも多いようだ。内容に踏み込んだ記事が出てくるのはまだ先のことでしょ、海外でもそうだったし……とわかってはいるものの、やっぱ一部を除いて「紋切り型」の反応が目立つのは、ちょっとサミシイ。

そうした「紋切り型」の記事のなかで個人的に引っ掛かりを覚えるのは、「あーだこーだと悩む観客をリンチは嗤っている」という言い回しをしている文章だ。もちろん本気でそう考えてるわけではなく、リンチ作品の難解さを表すための単なる「修辞的表現」なのは理解できる(だよね?)。にしても不必要な誤解を招くおそれのある表現であって、とり方によっちゃリンチに対して非常に失礼な言い様であるように思うのだが、間違っているだろうか?

念のため、あくまで念のため言っておくと、自分が目にした範囲のインタビューとかトークとか本人が書いた文章から推測するかぎりでは、デイヴィッド・リンチは「観客を嗤う」というようなスタンスの人ではない。少なくとも、よく知られる形で、表立ってそれを裏付けるものは何もない。これがテリー・ギリアムあたりだと、別な意味でそうかなと思ってしまうけど(笑)。

何がなんでもリスペクトしなきゃならんと言い張るつもりはないし、あんまり堅苦しく考えても仕方のないことなのかもしれない。が、ことリンチに関するかぎり、「リンチという個人」についてのこうした不確かな「言説」が一人歩きしているケースが多いと感じるのは、勝手な思い込みだろうか? あるいは「誤った作家主義」の典型例に過ぎないのかもしれないけど、そんなのでお茶を濁されるよりは、たとえ否定的な意見であろうと作品に対する各人の考えを明確にしてもらったほうがナンボかマシだ。

単なる観客ならいざしらず、映画に関する文筆を生業にしている者であるならば、そうした「常套句的な修辞表現」や「根拠のない言説」に頼らないと文章を書けない自分を省みるべきなんではないか……と、無責任に書きたいことを書き殴る「単なる観客」である自分を棚に上げて、キツいことをツブやいてみたりなんかする今日この頃なのであった(笑)。

追記: 「映像作家が自身を語る デイヴィッド・リンチ 改訂増補版」からのリンチ自身の発言を引いて結論にしておく。「あなたは観客を悩ませたり、煙に巻いて楽しんでいるのではないかなと思うことがあるのですが」というインタビュアーの問いに答えたものだ。

「いやいや、観客に対してそんなことはしない。ただ、アイデアが出てきたときには、それが一番生きる形で表現しようとしているだけだ」

2007年6月21日 (木)

「Catching The Big Fish」をば読む (3)

定期的にネタとして引っ張り出される「Catching The Big Fish」である(笑)。今回のお題は「The Red Room」。

「ツイン・ピークス」のパイロット・フィルムをロスのスタジオで編集中だったときのこと。編集作業が終わって夕方6時半ごろ、リンチたちがスタジオを出ると、駐車場に何台かの自動車がとまっていた。ふと一台の車の天井に手をおいてみると、とても暖かい。

----「私は車に寄りかかってみた。そしたら……『赤い部屋』が現われた。それから、逆回しに起きる物事と、台詞のいくつかも」

こうしてつかんだ「赤い部屋」のアイデアを、その後リンチは試行錯誤しつつ、シェイプしていく。

----「壁は赤だ。しかし、固い壁ではない。カーテンだ。分厚いやつじゃない、光を通すやつだ。床にも何か要る」

という具合にして出来上がったのが……

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……はいっ、 コレでございます。

この文章でリンチが説きたかったのは、「納得できる結論にたどり着くために、試行錯誤することの大切さ」 であるようだ。確かにそりゃ大事なことだと思う。学校の先生が同じようなことを言い出しても、まったく不思議はない。だが、その例として「小人が踊って逆回しでしゃべる『赤い部屋』」を出されても、生徒としてはあまり参考にならんかもしれんと思うんだが、いかがなもんでしょうか?

。なたきてしも気なうよいいでれそはれそ、んだんだ、かんな……

2007年6月20日 (水)

「ツイン・ピークス決定版黄金箱」はどこが決定版で黄金か

またもやDugpa.comネタ。

やっぱりというか案の定というか、北米で「Definitive Twin Peaks Gold Box Set」なる代物が、 CBS/Paramountから10月にリリースされるという情報が流れている様子だ。

TwinPeaks_DefinitiveGoldBox

全話収録であるのは当然として、北米では未リリースだった「TV放映版パイロット・フィルム」がついに収録されるみたいで、それを受けて向こうのリンチ・ファンの間では、やれパイロット・フィルムのバラ売りはあるのかとか、やれ未公開シーンが映像特典になるんではないかとか、やれセカンド・シーズンのサウンドトラック・アルバムCDが同梱されるんではないかとか、いろいろ「ウワサ&問い合わせ&お願い」が飛び交っていたらしい。

それを受けてDugpa.comの管理人さんがCBS/Paramountに問い合わせた結果、今のところの確実なセンとしてわかったのは、「セカンドシーズン・ボックス・セットに収録されなかったインタビュー+その後行われた追加インタビュー」が収録される……ということ。

未公開シーンの収録についても、リンチのOKはとれてるらしい。のだが、TV版映像素材の使用料としてかかるコストの問題もアリで、記事を読んだ限りでは実現しないっぽい印象を受けた。

いや、値段がいくらになるかわからんけど、これも買うのか?>自分
つか、日本版は出るのか、これ? どーするどーなる?>自分

追記:日本版を買ってしまいました。

2007年6月19日 (火)

「Catching The Big Fish」をば読む (2)

ボチボチ読み進めている「Catching The Big Fish」なんだが、「Final Cut」と題された文章を読むと、リンチは「砂の惑星」の失敗がすんげえトラウマになってる感じである。だいたい、この本の巻末作品リストに「砂の惑星」が載ってない。いやもう、完全に黒歴史(笑)。

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リンチ作品としては最高額の興収をあげたものの、制作費も最高額だったもんで、赤字も最高額。最終編集権が自分になく、2時間あまりの尺に収めるためにズタボロの出来になってしまった挙句の興行的失敗が、リンチにはよっぽど痛手だった様子だ。

----「自分が納得できるようにした結果失敗したのなら、それはそれだけのことだ。(中略)それもかなわずうまく行かなかったのなら、二度死んだようなものだ」

というわけで、この後、リンチは最終編集権が確保できない仕事をやらなくなっちゃうわけだが、「砂の惑星」の大ゴケにもかかわらず、続けて「ブルーベルベット」を好きに撮らせたディノ・デ・ラウレンティスも偉い。「好きにしていいけど、予算とギャラは半額ね」ってなこと言ってあんまり期待してなかった節もあるけど、とにかく偉い(笑)。

とりあえず、「インランド・エンパイア」を含め現在も続いているフランスのStudio Cannalとの関係には満足しているようで、「フランス人は世界でいちばんの映画ファンであり、擁護者だ」なんて最大限の持ち上げようだったりする。きっとリンチはフランスに足を向けて眠れないに違いない。となると、リンチ・ファンである自分もおフランス方面に足を向けて眠れないわけで、こうしてどんどん足を向けて眠れない方角は増えていく一方なのであった。

2007年6月18日 (月)

今年もやります「ツイン・ピークス・フェスティバル」

本日のdugpa.comネタ。

今年は「ツイン・ピークス 劇場版」が公開されて15周年ということで、ニュー・プリントでの上映会がある模様。リンチに関するドキュメンタリー・フィルム「LYNCH」の上映もあるそうな。

今年のゲストは「片腕の男(Al Strobel)」「ブリックス夫人(Charlotte Stewart)」「劇場版のおばさんウェイトレス(Sandy Kinder)」の皆さんの予定。

7月27日から29日の開催、参加費は200ドルね。

「Twin Peaks Festival 2007」の公式ページはこちら

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いや、まあ、なんだ。Sandy Kinderさんって、ローラ・ママ(Grace Zabriskie)とかルーラ・ママ(Diane Ladd)と並んで、いかにもリンチが好きそうな面構えの女優さんのような気がするんだが(笑)、その後のリンチ作品への出演がないのが不思議といえば不思議。

2007年6月17日 (日)

「Catching The Big Fish」をば読む (1)

いろいろ忘却の彼方に向かいつつある「インランド・エンパイア」なのだが、知り合いの某氏がそろそろ試写会に行くころだと思うので、それぞれの記憶を持ち寄ればなんかしら補完できるかもしれん(笑)。ということは、某氏は外部記憶装置か(笑)。いずれにせよ、本格的なアレコレは、劇場で再見してからのお楽しみかな(あるいは8月に北米版DVDが届いてから、かな?)。

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それはそうと、リンチの著作である「Catching The Big Fish : Meditation, Consciousness, and Creativity 」を今頃になってやっと読み出した。年頭に米アマゾンから届いた後ほったらかしにしてあったのは、個人的には「瞑想」とかになーんも関心がないからだ。リンチの「瞑想」への傾倒は以前から知ってはいたが、「アイデア出し」に使ってくださってる分には別にこちらが文句を言う筋合いもなく、まあ、好きなようにやってくださいという感じで一歩引いていた。昨年あたりから実生活でもそっち方面の活動をしている様子だが、そこはそれ、いい大人のやることだし、リンチにはリンチの人生があるし……って、思いっきりエラそうですね(笑)。

ところがいざ読み出してみると、案外「瞑想がどーのこーの」というくだりは少なく、むしろ映画に関する具体的な記述のほうが多い。すでに知っていたことも多いのだけど、しまった、敬遠せずにもっと早く読んでおけばよかった。

あまり「言語」が得意でないリンチのことなので(この本の中で自分でも認めてたりする)、「具体的」といっても、特に難解なことを言ってるわけではない。ただ、このブログでリンチに関して書き散らしたのとよく似たようなことを、リンチが自分自身で書いてたりするのな。いや、それこそ文句をつける筋合いでもなんでもないんだが(笑)、あー、やっぱりとっとと読んどけばよかった。

とりあえず半分ぐらい読んじゃったのだが、まあ、ボチボチ読み進めることにする。

2007年6月14日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (6)

さて、「インランド・エンパイア」を初めて観てから一週間足らず、どんどん細部を忘れつつある今日この頃(笑)。やっぱ、非ナラティヴな作品は、作品内の事象を時系列的な因果律をもって理解できない分、記憶から逃れるスピードが早い。それも見越して備忘録がわりにこーゆーブログを立ち上げてみたっつー部分もあるんだが(笑)、最近「物忘れがヒドイ」とお嘆きのアナタ、記憶力のテストとして「インランド・エンパイア」鑑賞っつのはいかがですかダメですかそうですか。

いまさらながら思うのは、人間はまとまった思考を試みるときにいかに言語に頼っているか……ということで、非ナラティヴな作品について言語を使って語ることは非常に難しい。当然ながら非ナラティヴなものを理解すること自体がそもそも困難をともなううえに、たとえ理解してもそれを言語に置き換える作業がまた困難。もちろん完全に言語に置換可能なわけもなく、あっちの方向こっちの方角と、言葉に言葉を重ねてみてもなかなか本質論にならない。

ただ、一口に非ナラティヴな作品といってもその方法論はいくつもあって、たとえば「アンダルシアの犬」のようなシュルレアリスムの手法による作品とリンチ作品とでは、明確に違う。基本的にシュルレアリスムのエクリチュ-ル・オートマティック(自動記述)とかデペイズマンとかいった方法論の眼目は「製作者の主観排除」とその結果もたらされるイメージの衝突にあるのであって、リンチのように最終的に描きたいことが「主観そのもの」でありそれを意図して作品を作っている表現主義な人とは、いわば対極にあるはずだ。

ま、そんなこんなでそのうち詳しく述べていくつもりでいるのだけれど、正直言って、リンチ作品に対して、たとえば「謎解き」とか「解読」とかいう言葉が使われているのを目にすると非常に違和感を感じる。かつ、悲しいことにそういうお題目のもとで展開されているのは、ほとんど例外なく本質論からかけ離れた「表層的な言及」や「根拠の乏しい印象批評」でしかないのが現状である。リンチ作品が備える「抽象性」や独自の「表現主義的な映像」は確かに簡単な理解を許さないが、そこには「謎」など存在しないし、読み解かれるような「暗号」もない。存在するのはあくまで創作者による「表現」とそれを受容する者の 「解釈」 なんであって、それはリンチ作品だけでなく、たとえばブロック・バスターの超娯楽大作に関しても同じように成立するものだ。それも多岐にわたる方向から、多様な視点でもって。

早い話が「フィルム・ノワール」なんてのもその典型で、勝手にフランス人観客が後付で言い出したことであって、アメリカ側のそうした映画の作り手側はそんなジャンルなど意識しておらず、実は存在しなかったのだ……という言い方だってできるわけで(というか、マジでそういう意見もあるらしい)、結局は誤解も理解のうちってことで、 誤読したもん勝ちなのだ(笑)。てな理念のもとに、大山崎としては、(リンチ作品に限らず)あくまで作品に対する個人的な「解釈」あるいは「誤読」しかするつもりはありませンので、そこんとこ、ひとつ、よろしくということで(笑)。

2007年6月13日 (水)

フィルム・ノワールのことなど (2)

やっと出るといえば、ニコラス・レイの「夜の人々」も北米版DVDが出る。

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ワーナーから7月に出る「Film Noir Classic Collection」というボックス・セットのVol.4に収録される予定なのだが、どうやらバラ売りも出る様子……って、「Side Street」とカップリングということは、えーと、ひょっとして両面DVDなのかいね? ま、観れれば、いいや。

このボックス・シリーズ、Vol.1は「アスファルト・ジャングル」や「過去を逃れて」といった廉価で国内版DVDが出ているのが混じってたりで、そういう意味ではあんまりオイシクなかった(いや、買ったけど)。Vol.2、 Vol.3あたりから「生まれながらの殺し屋」とか「十字砲火」とかをまじえて5作品収録、それでジュネス企画のDVD1本分ぐらいのお値段になって、お買い得感が出てきた。んでもって、Vol.4ではかなりマイナーな作品も(「夜の人々」は別にして)入っている感じで、それはそれで楽しみだったりする。

今回の収録作品のレストアにも、また「Film Noir Foundation」が絡んでるのかな。

こーゆー酔狂な……いや、志の篤い方々のおかげで昔のフィルムが救い出され、DVDになって極東の酔狂なヤツ(これはそのまんまね(笑))まで観る機会が出来るというのはヒジョーにありがたいことで、足を向けて眠れなかったりするのだな。

2007年6月12日 (火)

フィルム・ノワールのことなど (1)

「飾窓の女」の北米版DVDが、7月に出るらしい。

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「スカーレット・ストリート」はKINO社の修復版を含め、パブリック・ドメインのDVDが数社から出ていたのだけど、「飾窓の女」 のDVDはなかなか発売されず、我慢できずに中古のVHS版を買ってしまった……のだが、やっぱりDVDも買ってしまうのだな、これが(笑) 。いずれにしても、こういうフィルム・ノワールをおさえるうえで必須となるタイトルが入手しやすい形でリリースされるのは、 ヒジョーにおヨロシイことなんではないでしょーか。

----「この映画が言わんとしているのは、観客を慰めるような、『あれはただの夢だったのだ。私はみんなと同じように正常人であり、 人殺しではない』といったことではなく、むしろ、無意識においては、つまり欲望の<現実界>においては、 われわれはみんな人殺しなのだ、ということである」

これはスラヴォイ・ジジェクによる「飾窓の女」評なのだが、まんまリンチ作品にも当てはまるところがオシャレだ。

前から思ってたんだが、「スカーレット・ストリート」の結末に「飾窓の女」の途中からをくっつけると、リンチの「ロストハイウェイ」 に……ならんか、やっぱり(笑)。

2007年6月11日 (月)

「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (5)

「インランド・エンパイア」に関して各所で評判になっているのが、リンチがフィルム撮影を離れてデジタル・ヴィデオを使ったことと、あらかじめ完成したシナリオを用意せずに断片的に撮影を行ったことだ。個人的には、実はリンチにとって、これがもっとも理想的な映画製作の方法なのではないかという気がする。

思うのだが、リンチにとって、まず大事なのは各シーンの断片的なアイデアやモチーフなのではないだろうか。そして、その個々のアイデアをなんらかの共通する横糸で縫い合わせてつなげていくことで、ひとつの作品としてまとめあげていると思われる節がある。

たとえば「イレイザーヘッド」や「ロストハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」といった非ナラティヴな作品においては、その横糸となるものは主人公の感情だった。「ブルーベルベット」や「ワイルド・アット・ハート」といったナラティヴな作品においては、横糸は(とりあえずは)ストーリー・ラインだ。

ひょっとしたら、リンチがもっとも時間をかけているのは、こうした横糸を見つける作業なんではないだろうか。特に、ナラティヴな方向の横糸を見つけるのが大いに苦手であろうことは、なんとなく予想がつく。ナラティヴであるということは大抵の場合「あらすじ」に変換可能だということだし、それは乱暴にいえば言語的であるということだ。作品を観るかぎり、リンチはどう考えても言語的な作家ではない。「マルホランド・ドライブ」でみせたような、「キャンセルされたTVドラマのパイロット・フィルム」という巨大なフラグメントを利用した荒業は、ナラティヴな方向の横糸では不可能だっただろう。

おそらくこれから、リンチは浮かんだアイデアを無形のまま残さず、可能なかぎりDV撮影による映像素材に変換するという方向に進むはずだ。そして、自分の公式サイトで発表できる素材は発表しつつ、なんらかの横糸を思いついた時点で一本の作品にまとめる……という方法論をとると思う。

同時に、ナラティヴな方向に作品をまとめることも、多分、なくなる。もともと表現主義的な抽象絵画からスタートし、「時間経過とともに変化する絵」を目指して映画作製に手を染めたリンチにとって、それがもっとも自然な形だと思うからだ。

2007年6月10日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (4)

----「映画は魔法のようなメディアだし、自分はロサンジェルスが好きだし、その理念が好きだ。自分は映画の黄金期やハリウッドの全盛期を生きられなかったからだ。『マルホランド・ドライブ』も『インランド・エンパイア』も、そうしたものに関する映画だ」

上記のリンチのコメントにあるとおり、「インランド・エンパイア」は、映画全体に対する(とりわけ変容してしまったハリウッド映画に対する)リンチ本人の「苦悩」「希望」 とに満ちている。「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (1)で述べたように、この作品のキーとなるのはリンチ自身が抱く映画に対する感情であり、その点では「ロストハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」よりもむしろ、主人公ヘンリーとリンチ自身が等身大だった「イレイザーヘッド」に近い作品といえる。いや、ひょっとしたら、より初期の作品である「アルファベット」や「グランドマザー」のほうがもっと近いのかもしれない。

実は、「インランド・エンパイア」を観たあと、個人的に真っ先に連想したのがフェリーニの「インテルビスタ」だった。 「インランド・エンパイア」と同じく映画についての映画であり、 イタリア映画の変容を描いたといえるこの作品も、虚構と現実が入り乱れ、作品内作品が登場する。そこに描かれているのは、やはり「苦渋」と「希望」がないまぜになったフェリーニの 「映画に対する思い」であり、「映画とスター」がもたらす「魔法」だ。

実際にリンチが「インテルビスタ」を意識したかどうかは知らないし、そんなことはどうでもいい。個々の作品の共通項はともかく、この二人の監督を作家主義的に比較することが、個人的にはあまり意味のあることとも思えない。変容し続ける映画とそれを取り巻く諸々が、映画作品として残されていくことこそが貴重なのだろう。

「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (3)

ここからは戯言に近いのだけど、もうひとつポイントとして挙げておきたいのが、自由化以降のポーランドの映画産業の状況だ。体制崩壊以後、旧共産圏の映画産業は「政府」というスポンサーを失い、大打撃を受けた。詳しい状況は以下の記事のとおり。

【新ポーランド考】(7)民主化が映画界を低迷させた

映画復興に向けて動き出したポーランドの国際映画祭にリンチが招聘されたことがあるのは周知のとおりで、リンチが上記の記事に書かれているようなポーランドの映画産業が置かれている状況を知っているのは、まず間違いない。

作中に登場する製作が中断されたポーランド映画は、つまりは 「ポーランド映画産業の状況」の象徴ではないだろうか? そして、その中断されたポーランド映画のリメイクを作ろうとするハリウッドは……あ、そのまんまだ(笑)。

だが、リンチ自身は長らくハリウッドの資本で映画を撮っていない。近作はすべてフランス資本をメインにしたものだ。ハリウッドの住人でありながらハリウッド資本で作品を作らせてもらえないリンチにとって、ポーランド映画産業の状況は他人事ではなかったハズだ。

となると、「インランド・エンパイア」に登場する「呪われたポーランド映画」は、実は 「映画というメディアにかけられた呪い」のリンチ流の言い換えであるような気がしてくる。その「呪い」とは、ベラ・バラージュが「視覚的人間」で指摘しているように、映画がその誕生のときからずっといつも「産業化されたもの」 であったということだ。

小説や絵画にくらべて多額の製作資金を必要とし、多くの人間の共同作業によって作られる映画は、よっぽどの例外を除いて常に「投資と回収」の対象であり続けてきた。そのための制約や限界を、リンチは(いや、おそらくは映画監督のほどんど全員が)身をもって、イヤというほど知っている。「インランド・エンパイア」にはハリー・ディーン・スタントン演じる金の無心をを繰り返す助監督が登場するが、映画産業のある一面の象徴として、非常にリアルというしかない(笑)。

「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (2)

だが、作品全体としてリンチが主に描いているのは、「映画」が人間の「感情移入」を喚起する点で、他のどのメディアよりも優秀な「装置」であるということだ。つまり、「インランド・エンパイア」は「感情移入装置としての映画」を描いた映画なのである。

         inland_4

前述のロスト・ガールとニッキーの抱擁は、「観客の作品(あるいは登場人物)に対する感情移入」を表すモチーフに他ならない。サクッといってしまうが、キャッチ・コピーにある「a woman in trouble」のwomanとは、まず第一義的には涙を流しつつTVモニターを見つめるロスト・ガールのことなんではないだろうか。ひょっとしたら、われわれ「観客」にとって最もわかりやすいアプローチ方法は、(われわれと同じ立場である)ロスト・ガールの目を通して「インランド・エンパイア」を観ることなのかもしれない。

また、執拗に繰り返されるニッキーの「アイデンティティ・クライシス」を表すモチーフを通じて描かれているのは、 「俳優(ニッキー)の登場人物(スーザン)に対する感情移入」「俳優の作品に対する感情移入」 だ。「入魂の演技」ってな言葉があるけど、「暗い明日の空の上で」での役柄と自分自身の混同に留まらず、元ネタである「47」の世界にまで踏み込んでしまうニッキーの姿は、それを端的に表しているような気がする。

「インランド・エンパイア」はそれに留まらず、「観客の俳優個人に対する感情移入」をも描いている。つまり、個々の「映画作品」そのものというレベルを越え、スキャンダルを含めた俳優の私生活に関するゴシップ報道や情報・伝説・神話その他の有象無象を全部ひっくるめつつ、映画業界全体が(とりわけハリウッドが)ひとつの大きな「感情移入装置」として機能しているということだ。「永遠の躁状態」と「その陰にひそむ闇」を原動力として機能し続けるハリウッド……「サルを飼う金髪のウィッグを着けた友人(という伝説)」も登場するエンディングのドンチャン騒ぎは、リンチの目に映ったハリウッドの姿なのだろうか?

「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (1)

デイヴィッド・リンチの新作「インランド・エンパイア」を試写で観てきた。一言でいうと「マルホランド・ドライブ」以上に「映画についての映画」だった。

リンチ独特の表現主義的手法は「ロストハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」と変わらず、 非ナラティヴな作品であることも変わらない。だが、若干、方向性が違う。最大の違いとして挙げられるのは、前二作は主人公の感情をキーにした理解が可能だったが、「インランド・エンパイア」は(一応の主人公と目される)ニッキーの感情をキーにしただけでは理解できないことだ。

何故かというと、この映画は、ニッキーをはじめとする映画の作り手側だけでなく、たとえばロスト・ガールという観客の映画受容の形までも含めた、映画に関する多彩な局面について描いているからだ。だから、もし、あえてこの作品全体のキーになるものを挙げるとすれば、それは映画に対してリンチが抱いている感情なんじゃないかと思う。

そのひとつの表れが前述のロスト・ガールの映画受容の形で、彼女は映画館で映画を観ていない。彼女が観ているのはザッピングされるTVモニターに映し出された映像だ。そして、そこに映される映画は、同じくモニターに映し出される「Rabbits」の映像と等価なものとして、まったくの地続き(部屋続き)に扱われている。

          inland_3

「Rabbits」が、アメリカ のいわゆるシットコムと呼ばれる形式のTVコメディに対するオマージュもしくはそのパロディであることは明白だ。 もともとリンチの公式サイトでは全9話のシリーズとして公開されており、 その点でも完全にシットコムのフォーマットを踏襲しているといえる。そもそも、リンチのシットコム(あるいはそのパロディ) に対するこだわりは、「オン・ジ・エアー」をみてもすでに明らかだろう。

映画が映画館の興行収入だけでなく、DVD等のソフトの売り上げやTV等の放映権料も見込んで作られるようになって久しい。結果として映画は、映画館のスクリーンでなく家庭でモニターの画面を通して、 TVドラマなどと同列に視聴されることが当たり前になってしまった。この作品でリンチが「Rabbits」の映像をこういう形で使ったのは、そうした現状の示唆を意図してるんじゃないだろうか。

そう考えると、ロスト・ガールは、変容してしまった映画受容の形に対するリンチの「苦渋」 の象徴のように思えてくる。そして、ニッキーとロスト・ガールが抱擁をかわすシーンは、たとえ受容の形は変わっても、やはり観客の心を揺さぶり得る映画というものに対するリンチの「希望」 、そして「観客への信頼」の表れであるように読める。

とりあえず

作ってみた。

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