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2007年6月14日 (木)

「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (6)

さて、「インランド・エンパイア」を初めて観てから一週間足らず、どんどん細部を忘れつつある今日この頃(笑)。やっぱ、非ナラティヴな作品は、作品内の事象を時系列的な因果律をもって理解できない分、記憶から逃れるスピードが早い。それも見越して備忘録がわりにこーゆーブログを立ち上げてみたっつー部分もあるんだが(笑)、最近「物忘れがヒドイ」とお嘆きのアナタ、記憶力のテストとして「インランド・エンパイア」鑑賞っつのはいかがですかダメですかそうですか。

いまさらながら思うのは、人間はまとまった思考を試みるときにいかに言語に頼っているか……ということで、非ナラティヴな作品について言語を使って語ることは非常に難しい。当然ながら非ナラティヴなものを理解すること自体がそもそも困難をともなううえに、たとえ理解してもそれを言語に置き換える作業がまた困難。もちろん完全に言語に置換可能なわけもなく、あっちの方向こっちの方角と、言葉に言葉を重ねてみてもなかなか本質論にならない。

ただ、一口に非ナラティヴな作品といってもその方法論はいくつもあって、たとえば「アンダルシアの犬」のようなシュルレアリスムの手法による作品とリンチ作品とでは、明確に違う。基本的にシュルレアリスムのエクリチュ-ル・オートマティック(自動記述)とかデペイズマンとかいった方法論の眼目は「製作者の主観排除」とその結果もたらされるイメージの衝突にあるのであって、リンチのように最終的に描きたいことが「主観そのもの」でありそれを意図して作品を作っている表現主義な人とは、いわば対極にあるはずだ。

ま、そんなこんなでそのうち詳しく述べていくつもりでいるのだけれど、正直言って、リンチ作品に対して、たとえば「謎解き」とか「解読」とかいう言葉が使われているのを目にすると非常に違和感を感じる。かつ、悲しいことにそういうお題目のもとで展開されているのは、ほとんど例外なく本質論からかけ離れた「表層的な言及」や「根拠の乏しい印象批評」でしかないのが現状である。リンチ作品が備える「抽象性」や独自の「表現主義的な映像」は確かに簡単な理解を許さないが、そこには「謎」など存在しないし、読み解かれるような「暗号」もない。存在するのはあくまで創作者による「表現」とそれを受容する者の 「解釈」 なんであって、それはリンチ作品だけでなく、たとえばブロック・バスターの超娯楽大作に関しても同じように成立するものだ。それも多岐にわたる方向から、多様な視点でもって。

早い話が「フィルム・ノワール」なんてのもその典型で、勝手にフランス人観客が後付で言い出したことであって、アメリカ側のそうした映画の作り手側はそんなジャンルなど意識しておらず、実は存在しなかったのだ……という言い方だってできるわけで(というか、マジでそういう意見もあるらしい)、結局は誤解も理解のうちってことで、 誤読したもん勝ちなのだ(笑)。てな理念のもとに、大山崎としては、(リンチ作品に限らず)あくまで作品に対する個人的な「解釈」あるいは「誤読」しかするつもりはありませンので、そこんとこ、ひとつ、よろしくということで(笑)。

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