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2007年6月10日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (4)

----「映画は魔法のようなメディアだし、自分はロサンジェルスが好きだし、その理念が好きだ。自分は映画の黄金期やハリウッドの全盛期を生きられなかったからだ。『マルホランド・ドライブ』も『インランド・エンパイア』も、そうしたものに関する映画だ」

上記のリンチのコメントにあるとおり、「インランド・エンパイア」は、映画全体に対する(とりわけ変容してしまったハリウッド映画に対する)リンチ本人の「苦悩」「希望」 とに満ちている。「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (1)で述べたように、この作品のキーとなるのはリンチ自身が抱く映画に対する感情であり、その点では「ロストハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」よりもむしろ、主人公ヘンリーとリンチ自身が等身大だった「イレイザーヘッド」に近い作品といえる。いや、ひょっとしたら、より初期の作品である「アルファベット」や「グランドマザー」のほうがもっと近いのかもしれない。

実は、「インランド・エンパイア」を観たあと、個人的に真っ先に連想したのがフェリーニの「インテルビスタ」だった。 「インランド・エンパイア」と同じく映画についての映画であり、 イタリア映画の変容を描いたといえるこの作品も、虚構と現実が入り乱れ、作品内作品が登場する。そこに描かれているのは、やはり「苦渋」と「希望」がないまぜになったフェリーニの 「映画に対する思い」であり、「映画とスター」がもたらす「魔法」だ。

実際にリンチが「インテルビスタ」を意識したかどうかは知らないし、そんなことはどうでもいい。個々の作品の共通項はともかく、この二人の監督を作家主義的に比較することが、個人的にはあまり意味のあることとも思えない。変容し続ける映画とそれを取り巻く諸々が、映画作品として残されていくことこそが貴重なのだろう。

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