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2007年6月10日 (日)

「インランド・エンパイア」を観た(1回目) (2)

だが、作品全体としてリンチが主に描いているのは、「映画」が人間の「感情移入」を喚起する点で、他のどのメディアよりも優秀な「装置」であるということだ。つまり、「インランド・エンパイア」は「感情移入装置としての映画」を描いた映画なのである。

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前述のロスト・ガールとニッキーの抱擁は、「観客の作品(あるいは登場人物)に対する感情移入」を表すモチーフに他ならない。サクッといってしまうが、キャッチ・コピーにある「a woman in trouble」のwomanとは、まず第一義的には涙を流しつつTVモニターを見つめるロスト・ガールのことなんではないだろうか。ひょっとしたら、われわれ「観客」にとって最もわかりやすいアプローチ方法は、(われわれと同じ立場である)ロスト・ガールの目を通して「インランド・エンパイア」を観ることなのかもしれない。

また、執拗に繰り返されるニッキーの「アイデンティティ・クライシス」を表すモチーフを通じて描かれているのは、 「俳優(ニッキー)の登場人物(スーザン)に対する感情移入」「俳優の作品に対する感情移入」 だ。「入魂の演技」ってな言葉があるけど、「暗い明日の空の上で」での役柄と自分自身の混同に留まらず、元ネタである「47」の世界にまで踏み込んでしまうニッキーの姿は、それを端的に表しているような気がする。

「インランド・エンパイア」はそれに留まらず、「観客の俳優個人に対する感情移入」をも描いている。つまり、個々の「映画作品」そのものというレベルを越え、スキャンダルを含めた俳優の私生活に関するゴシップ報道や情報・伝説・神話その他の有象無象を全部ひっくるめつつ、映画業界全体が(とりわけハリウッドが)ひとつの大きな「感情移入装置」として機能しているということだ。「永遠の躁状態」と「その陰にひそむ闇」を原動力として機能し続けるハリウッド……「サルを飼う金髪のウィッグを着けた友人(という伝説)」も登場するエンディングのドンチャン騒ぎは、リンチの目に映ったハリウッドの姿なのだろうか?

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