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2014年10月26日 (日)

「David Lynch: In Theory」をば読む

In_theory つなわけで(どんなわけだ)、続くときは続いてしまうリンチ関連本ネタであります。今回の『David Lynch: In Theory』は、リンチ作品についていろんな人が書いた論文を集めた論文集となっております。

リンチに関する論文集としては、例えば『Critical Approches to Twin Peaks』とか『Twin Peaks in the Reaview Mirror』なんかがあって、特にこの二冊では、人文学や文学や西洋史、あるいは女性監督と作家論の関係など、多岐にわたる視点から『TP』が論じられておりました。それに対し、本書は精神分析批評をベースにした論文が多いのが特徴。それがゆえにヴァリエーションに欠けている点は否めないわけですが、まあそのあたりは、編者であるFrancois-Xavier Gleyzon氏の方向性ちゅーか趣味ちゅーかの問題ですわね。で、その中から、ナニかしら面白かったところがあったものを選んでピックアップ。

・Red Velvet: Lynch's Cinemat(ograph)ic Ontology / Greg Hainge
トム・ガニングのいう「アトラクションの映画(Cinema of Atraction)」の概念が、リンチ作品に当てはまるのではないかという提起。
ガニングの理論自体がエイゼンシュタインの「アトラクション」の概念をベースにしてるわけだけど、そこで言われている「受容者に対する攻撃性」やら「モンタージュによる思想(リンチの場合は感情だが)の伝達」という点で、確かにリンチ作品はそれらに近い特性を備えているといえるかも。ただ、大元のガニングの論文が「ナラティヴ」と「アトラクション」が互いに排他的関係にはないとは言及しているものの、「非ナラティヴ」と「アトラクション」の関係性については、実は1917年以前の初期映画が備える非ナラティヴ性(というか、ナラティヴの軽視)について述べられているだけで、それこそリンチ作品が備えるような非ナラティヴ性との関係については、あんまり明確にされていない。なので、著者の「リンチ作品は統一されたナラティヴを備えてないから、アトラクション」という理論展開にはちょっと違和感があるんで、もちっと違った方向からリンチ作品の「アトラクション性」が論じられてもよいんではないかいという気がしたことでした。

・Eraserhead: Cpmprehension, Complexity, & Then Midnight Movie / Gary Bettinson
理解への手がかりをリンチがあちこちに散りばめていることについて。
リンチ作品がナラティヴに頼らないで「感情の喚起」を直接行っていることは、まったくもってそのとおりで、前述の「アトラクションの映画」としてのリンチ作品というのもこれに重なるわけで。
後半で述べられている、1970年代「ミッドナイトシネマ」における受容モード話がおもしろい。映画館で観客がわやわや騒ぎつつ「嫌悪感を共有する」というのは、現在における「いわゆるダメ映画」の受容モード(特にビデオ・DVDでのグループ受容)と重なるんではないか。でもってこれは、たとえばニコニコ動画などのSNSでの受容モードなんかにも引き継がれているわけですね。

・"Baby Wants Blue Velvet": Lynch & Maternal Negation / Jason T. Clemence
内容はともかく、出だしが面白い。

”スティーヴ・ジェイ・シュナイダーが『イレイザーヘッド』についてのエッセイで弁解気味に書いていたように「ここまで、私は使い古されたフロイト主義に頼らずに述べてきた。だが……」”

とまあ、著者自身が認めているとおり、この後は特筆すべきところのない精神分析批評が展開されるわけですが、こうなってくるとむしろ興味深いのは、それでもリンチ作品の神分析批評を試みてしまう「批評側の心理」の方であったりしますな。
にしても、『ブルーベルベット』がフェミニズム批評や精神分析批評に対する「巨大な釣り針」として機能し、ほとんど入れ食い状態であったことは映画批評史にとどめるべきだと思う今日この頃(笑)。

・Lynch, Bacon & The Formless / Francois-Xavier Gleyzon
ジョルジュ・バタイユ→フランシス・ベーコン→デイヴィッド・リンチという、「ゆがんだ顔」の系譜について。それはあくまで「ゆがんだ」ものであり、決して「形がない」ことではなく、時系的なものである、と。このあたりは「リンチ作品が絵画を時系列的に展開したものである」という個人的見解と重なるかも。
そのなかでも、「開かれた口」に注目。ゲロの出口としての口(『吐き気を催す六人の男』)。汚れの体外への棄却とか。汚れたものであると同時に、聖なるものでもある唾液とかとか。
これ、論文というよりエッセイに近い文章で論旨的なものは曖昧なのだけど、割と面白く読ませていただきました。

・David Lynch & The Cinema D`auteur: A Conversation with Michel Chion/ Garay Bettinson & Francois-Xavier Gleyzon
ミシェル・シオンへのインタビュー。
自著『David Lynch』でリンチの生い立ちに触れただけなのに、インタビュアーから「作者の死」がどーの「作家論」的アプローチがどーのと、ネチネチきかれ、シオンも最初は「いや、リンチの立ち位置を明示しておきたかっただけ」と答えていたのが、それでもネチネチネチネチいわれて次第にイラついてくる感じがスリリング(笑)。
「作者が作品を作るのではない。作品が作者を作るのだ」という見解をシオンは述べるも、それでもインタビュアーはネチネチネチネチネチネチききつづけ、ついに彼が「リンチの幼少期のトラウマなんか、オレには関係ねー!」と半ば切れたところで、インタビュー終了。あらま(笑)。
2009年に行われたインタビューらしいのだけど、未だにバルトの「作者の死」を盾に「作家論」的アプローチが批判されているところが、むしろ個人的は驚きだったりなんかしました。

……てなところでしょうか。個人的には「米国の映画学の実証的なアプローチ」と「英欧の映画学の思索的なアプローチ」の差異が、割とはっきり見て取れた印象があって、その意味でも面白かったかも。

あ、それと、日米アマゾンさん、この本のカスタマーレビューが、ミシェル・シオンの『David Lynch』のカスタマーレビューのものになっちゃってますよー。同じような書名なんで、間違っちゃったですかね。ではでは。

「Good DAY TODAY: DAVID LYNCH DESTABILISES THE SPECTATOR」を読む

Good_day_today 忘れた頃にやってくるリンチ関連本ネタでありますが(笑)、こちらは同じ関連本でも、「なぜ、リンチ作品はわからないのか」に焦点をあてたという、ちょっと変わったアプローチの本。

まあ、なんといいますか、世の中には大概自分と同じことを考えている人がいるもので、著者のDaniel Neofetou氏もリンチ作品が採用している編集技法……彼の定義を借りれば「古典的写実主義映画(classic realist film)の技法」に着眼した議論を展開しています。「古典的写実主義映画の技法」っつーとナニがナニやらですが、当然ながらこれは「ハリウッド映画が採用している技法」とイコール。ということは、これまた当然ながら(拙ブログでも述べているとおり)、コンティニュティーを重視した「ナラティヴの記述に特化した映像技法」であるわけで、はたまた当然ながら著者もそれを前提としています。

著者曰く、「通常であれば、こうした古典的者術主義映画の技法は、観客が統一された映像時空間(ディジェーシス/diegesis)を構築するのを助け、物語に関する全知的視点を与える。だが、同じ技法を使いながら、リンチ作品は統一された映像時空間の構築を妨げ、全知的視点の獲得を阻害する」。うわ、何のこっちゃでありますが、もんのすごく極端に単純化していうなら「他のハリウッド映画と同じ映像技法を使っているのに、それらの作品に比べてリンチ作品はすんげえわかりにくい」という話でありますな。

ここで、著者は、デヴィッド・ボードウェル(David Bordwell)の『Narration in the Fiction Film』を引用するとともに、ロシア・フォルマリズムにおける映画理論用語である、「ファブラ(fabula)」と「シュジェート(syuzhet)」という概念に触れます。ものすごく単純にいえば、ファブラは「内容」、シュジェートはその内容を述べる「方法」を指します。つまり、通常のナラティヴな映画に当てはめていうと「ストーリー」と「実際の映像」の関係、あるいは「物語内容」と「物語言説」の関係と理解しとけば、とりあえずはOKかなと。そのうえで、著者は、リンチ作品を部分的なシュジェートは成立しているが、ファブラが理解できない例と説明します。言葉をかえれば、シークエンス単位での部分的な意味形成はされているが(あるいはそれを知覚できるが)、全体を通しての意味形成ができていない(あるいはそれを知覚できない)と言ってるワケでありますな。

んでもって、なんでそーなるのか……についてでありますが、大きなところで著者がまず挙げるのが「キャラクターの不一致」および「時空間の不一致」であります。『ロストハイウェイ』『マルホランド・ドライブ』『インランド・エンパイア』における「登場人物のアイデンティティーの変化」や「時系列の混乱」や「場所の混乱」でありますね。あわせて、編集技法そのものにおけるより詳細な例として「極端なクローズアップ」「ある対象物に対する長回し」などが挙げられています。また、より大きなところでは、「客観視点」と「主観視点」の境界があいまいなことにも触れられています。

……とまあ、ここまでは基本的にまったくもってそのとおりと思える部分が多いんですが……この本の残念なところは、こうした映像技法上の例示と「その結果ナニがわからなくなっているか」で話が終わってしまっていることであります。リンチ作品理解においてもっとも問題なのが、作者も指摘しているように「ファブラ=物語内容」の理解・把握が困難なことなのですが、結局のところリンチの各作品の「ファブラ=物語内容」が何であるのか、あるいはリンチ作品における「ファブラ=物語内容」と「シュジェート=物語言説」との関係性について、著者はまったく触れていません。なおかつ「語義的にはリンチ作品は非ナラティヴだとはいえない」としつつも、ではリンチ作品が「ファブラ=物語内容」レベルでどのようなナラティヴを構築しているのかについての言及もありません。

んー? と思って読み進めるうちに、わかってきました。どうやらリンチ作品における「ファブラ=物語内容」については、著者はこの本ではもともと触れるつもりがなかったんであります。最終的に著者が言いたいのは、リンチ作品の「わからなさ=理解不能性」はそれ自体に重要性があり、それは大多数派の基準(Norm)というか既成概念を破壊し、新しい角度からの視座を与えるものだ……ということなのであるらしく。

いやー、なーんだ、そうだったのかー。

……いや、いろいろとちょっと待ってよ、であります。それじゃリンチ作品の機能って単なる「異化作用」だけじゃん……というのはともかく、先に触れたとおり、著者は「リンチ作品は非ナラティヴだとはいえない」としながらも、ではどのようナラティヴを構築しているか、具体的な言及を一切していません。まずこの点を論証しておかないと、リンチ作品における「内容」と「言説」の関係性を論じるのは不可能なのでは。

その一方で、著者は、リンチ作品の「言説」が「内容」の理解を阻害していると繰り返し述べます。が、著者のいう「古典的写実主義映画の技法」がナラティヴの記述と伝達に特化して発達してきた「言説」であることを考えるとき、ではそれが非ナラティヴな「内容」を記述・伝達しようとしたならば、果たしてどのようなことになるのか……。個人的にはリンチ作品にみられる「言説」と「内容」の乖離は、まさにそのケースであると理解しています(例えばリンチ作品にみられる表現主義的手法の多用は、その具体例である、と)。でもって、著者が挙げている「内容理解を阻害している言説」の諸例は、とどのつまり「非ナラティヴな内容」を「ナラティヴの記述に特化した映像技法」で表現した結果に他ならないのではないか……というのが、個人的な見解であります。

というわけで、いろいろうなずけるとことがある一方で、いちばんオイシイところが抜けていて、ちょっと何かもやっと消化不良な感じでありました。と同時に、この本を読んだことが、同時にリンチ作品における映像表現や編集技法について再度考えるよいきっかけになったのも事実であります。著者にはこの本を土台にして、リンチ作品の「(物語)内容」まで踏み込んだ議論を期待したいと思いますデス。

2014年2月23日 (日)

「ハリウッドランド 」を観た

劇場で見逃してたのを、今更ながら録画で鑑賞。

スーパーマン役の俳優だったジョージ・リーブスの死の真相……というのが表向きの主題だが、それは単なるフックに過ぎない。物語の軸は二本あり、ひとつはもちろん死に至るまでのリーブスに関する描写だが、それにもうひとつの縦軸である私立探偵ルイス・シモのエピソードが並行してからんでいく。そしてこの二本の軸は、物語の終盤、シモと死の直前のリーブスが(想像上の)視線をあわせ、シモがリーブスに自己を重ね合わせる場面で、最終的に一本の軸として合体する。

では、シモとリーブスが互いに共有したものとは何か。当然ながら、二人とも最終的に挫折する存在であることは間違いない。リーブスは『スーパーマン』打ち切りのあと新たな役を獲得することができなかったし、自らのプロダクションが立てた企画も実現しなかった。一方のシモは私立探偵の仕事がうまくいかず尾花をうち枯らしているし、なによりもリーブス事件の明確な真相にたどりつけずに終わる。だが、この二人の最大の共通項を考えたとき、この作品が実は「親と子の関係性」の物語、より限定的にいえば「父と子」の物語であることに気づく。

シモは過去の父親の行為を父権の放棄と受け取り、「情けなかった」と侮蔑する。一方リーブスは、母親から「拳銃自殺した」と聞かされた父親が、実は家庭を捨てて出ていったのであり今も生存していることを知って以来、母親との関係を絶っていた。こうした親との関係性の問題から、シモは息子エヴァンの父親であることに自信をもてないでいるし、リーブスは「拳銃自殺」に対するオブセッションを抱えていた。

こうした親子関係の「負の連鎖」は、シモの息子であるエヴァンにも及びかけている。当初「スーパーマンの自死」にショックを受けて荒れるエヴァンの姿が描かれるが、物語が進むに連れ、そのショックが「父親の喪失」によって受けた傷と同根であることが次第にわかってくる。これを最終的に示唆するのが、エヴァンがシモに支えられ、スーパーマンのように空を飛ぶ8ミリ映像だ。エヴァンにとって父親とスーパーマンは同一的存在であり、失った父親像をスーパーマンに重ねていたことがうかがえる。

映画は「シモにとっての父親としての復権=エヴァンにとっての父親の再獲得」を示唆して終わる。この移行のキーとなるのは、「事態の単純化」だ。シンクレアの妻に浮気相手などいなかったし、リーブスの死は殺人ではなく自殺であったし、親子の絆はシモの探偵廃業の決意によって回復される……。

最終的に破棄される「複雑さ」は、映像的にも表される。開巻直後の「夜空に広がる雲」や「シモの住むアパートの複雑な構造」は、「見通しのきかない入り組んだ事態」を示唆する。ところが、この当初は「複雑」とみえたアパートの構造が、調査が進むに連れて様相をを変える。たとえばパターソン刑事から密かに渡されたエドガー・マニックス関連の資料を、アパートの中庭でシモが読むシーンである。俯瞰で撮られた長回しのショットに映し出されるアパートの構造は、よくみればそんなに複雑であるわけでもない……そう、ちょうど、手掛かりを得たシモの目に映ったリーブス事件のように。

なによりもこのような「複雑→単純化の構図」を凝縮した形で提示しているのが、妻の浮気を疑っている依頼人シンクレアが、彼女を殺害した直後のシーンだ。シンクレアからの電話を受けたシモが駆けつけた殺害現場は、衣裳店のカッティング・ルームである。その内部の、ずらりと衣装が下げられたハンガーの列が並ぶ様子は、さながら迷路のように見通しがきかない。それをくぐり抜けた先に妻の死体が横たわっているのを見て、シモはショックを受ける。シンクレアの妻が浮気などしていなかったことは、調査を行ったシモには明白だったからだ。呼び出しの電話でシンクレアは「もっと裏がある」と訴えていたが、そんなものは何もない。すべてはシンクレアの思い込みであり、事態を「複雑化」させているのは彼の妄想そのものに他ならないのである。このシンクレアによる「複雑化」の所為が、リーブス事件に関するシモ自身の一連の所為にも重なることはいうまでもないだろう。

妻殺害に至るシンクレアまわりの一連の描写は、一見「クズ仕事」を引き受けるしかないシモの状況を表すだけの、あるいはシモに探偵廃業を決意させるためのサブプロットであるかのようにみえる。だが、作品を見渡したとき、シンクレアによる妻殺害が示唆する「複雑→単純化の構図」は、(リーブス事件を含めた)全体に演繹されるべきものであることがわかる。現場を去る刑事がシモに向かって、「あの(リーブス)殺害事件よりは簡単な事件だ」と言い放つが、それは実質的な「複雑さ」において、この両事件にどれほど差異があるのかという問いかけでもあるのだ。

しかし、この作品が描いている年代……リーブスの自殺が1959年6月16日であることから考えるなら、50年代から60年代へ移行しようとしている年を舞台にしていることになる。つまり、まさに価値観の変化が始まり、アメリカ社会が大きく揺れようとしていた直前の時期であるわけだ。この作品の「複雑→単純化の図式」とは裏腹に、むしろことあと世の中はより「複雑さ」を増していくことになる。50年代は表面化しなかった「トラブルを抱えた家族」の問題もあらわになって、それは離婚率の上昇という形で明確化していく。はたしてシモはこのあと、本当に父権を回復し、家族を再生することができたのだろうか?

2013年12月15日 (日)

『Like Someone in Love』を観た

録画しておいたアッバス・キアロスタミ監督の『Like Someone in Love』をば観る。キアロスタミ作品において「自動車」が果たす特徴的な機能(『桜桃の味』をその典型とする)は、この作品でも明確にトレースされる。自動車に同乗し、運転者と会話を交わし、そして降りていく人々。あるいは車窓越しに交わされる運転者同士の会話……。キアロスタミ作品における「自動車の内部」は「運転者の内面」であり、それは「自動車の外郭」によって外界と区分けされ、運転者はウィンド・シールド越しに「外界」をかいま見る。すなわち、キアロスタミ作品に登場する「自動車」は運転者の「自我」であり、あるいは運転者自身なのだ。

それを踏まえつつ『Like Someone in Love』を観るとき、(映像としては提供されず音声だけで表される)末尾近くの「自動車破壊シーン」が意味するところの重大性は明らかだろう。過去の作品においては「運転者と同乗者」のディスコミュニケーションが描かれることはあっても、「自動車」への破壊行為という「極限」が描かれることはなかった。

そして作品の末尾において、その破壊行為は運転者の「家」の窓ガラスにまで及ぶ。この強烈な人間同士の断絶性の描写に、あるいは外界からの明確な侵入のイメージに、受容者は大きなショックを受けざるを得ない。

確かに、キアロスタミ作品における「自動車」には、デイヴィッド・リンチ作品における「家」に通低する部分があるといえる。しかし、それでもキアロスタミの「自動車」には他者が友好的に乗り込み、運転者とときとして心を通わしてきた。「外界からの内面への侵入」をたとえようのない不安をもって描くリンチ作品とは異なり、キアロスタミ作品における「他者」は決して「運転者の内面」を脅かす「侵入者」ではなかったのだ……少なくとも、これまでは。

キアロスタミがここまでの「他者との断絶性」を、そして「外界=他者からの内面への攻撃」を表だって取り上げたのは、大きな転換であるといえる。キアロスタミのこの転換は、果たして何に起因しているのか。あるいは日本が舞台であることと関連があるのか、ないのか。もしないのであれば、この後のキアロスタミ作品において、「他者との断絶性」普遍的なテーマとして描かれるのか……このあたりは非常に興味深く、個人的には今後のキアロスタミからは目が離せないように思う。

2010年5月29日 (土)

「人工デイヴィッド・リンチ」を作るには

「人工デイヴィッド・リンチを作りたい(I want to build an artificial David Lynch)」というタイトルのブログ・エントリーを見つけて「おお?」と思って読み進んだら、「いやそれ、あんまりリンチとは関係ないんじゃねーの?」だったりしたんですが(笑)、いろいろと面白かったんで御紹介。

このブログを書かれているロブ灰谷(Rob Haitani)氏は、実はPalm PilotというPDAの開発に関わった人で、その後Handspring社勤務……と書くと古くからの「デジモノ好き」の方はおわかりでございましょう。Palmといえば「PCとの連動」や「手書き文字認識」を特徴とした優れモノの電子端末で、ン年前には大山崎もJ-OSを突っ込んだりNewtonキーボードをつないだりして、使い倒しておりました(灰谷氏は、現在どうやら後述するヌメンタ(Numenta)社で勤務されているっぽいです)。

で、これは知らなかったんですが、Palm Pilot開発の中心人物であったJeff Hawkins氏は、もともと大学では脳研究をしていたそーな。PalmやTreoで成功したHawkins氏は会社を売り飛ばしたあと、ヌメンタ社を設立。そこでは人間の大脳新皮質の働きに基づいたインテリジェント・コンピューティング(平たくいうと人工知能)の開発&商品化が行われているそーです。同社のサイトをみるってーと、「移動体」を認識する人工知能を使った「監視カメラ映像検索ソフト」である『Vitamin D』のデモへのリンクがあったりしますが、おー、なんかSFっぽくってヨイぞ(笑)。

こうした人工知能開発の技術としてHawkins氏が提唱しているのが、灰谷氏もブログで言及しているHTM理論……「Hierarchical Temporal Memory theory」ってヤツでありまして、日本語では「階層的一時記憶理論」と称されたりしておりますが、これではナニがナニやらよくわかりません。例によってドンブラコと「ネットの海」を漂ってみるってーと、このよーな説明に行き当たりました(全文はコチラ)。

たとえば人も初めて犬に接した時は犬と分類できないが、犬の形や動きなど神経細胞が捉えた無数の感覚情報がパターンとして蓄積され、それらがつながって犬を認識するモデルが形づくられていく。犬を大まかに分類できるようになっても、初めてシベリアンハスキーを目の当たりにすれば、「これは犬か?」と一瞬迷う。だが、体躯や動きなど過去の犬の特長のパターンから犬と予測できる。それが合っていれば、その時に目の色や模様などシベリアンハスキーの特徴の断片的な情報が、犬を認識する一連のパターンに組み込まれる。すると次回からシベリアンハスキーを判断できるようになり、また「奇妙な模様の犬もいる」という予測の幅も広がる。

Hawkins氏が考える大脳新皮質のメモリシステムのプロセスをソフトウエア化したのがHTMである。認識されたデータは、メモリモジュールが階層的に連なるHTMシステムの最下層に組み込まれる。データのパターンを読み取られ、蓄積されたパターンのつながりとのマッチングが行われる。学習と呼べるような作業である。HTMはアクションがプログラムされていないという点で、通常のコンピューティングとはアプローチが全く異なる。観察を通じて学ぶことで、適切なアクションを起こせるようになるため、HTMシステムでは時間も重要な要素である。能力を発揮するようになれば、予測ツールとして効果を発揮するという特徴を持つ。

……長々と引用してしまいましたが、ははあ、これはもうSFっぽいどころの騒ぎじゃないですね。完全に「人間と同等に思考するコンピュータ」を、それこそ真正面から作り上げようとするハナシなわけでありますな。

んで、これがデイヴィッド・リンチとどーつながるのよ? でありますが、灰谷氏が注目しているのは「人間の創造性」の問題であります。とりわけ「芸術的創造性」が人工的にコンピュータで再現可能であるかどうかが、灰谷氏の記述の眼目といってよいでしょう(念のために付記しておくと、灰谷氏が述べているのは主として「視覚的認識」に基づく分野についてです。たとえば文章解読を目的とした「形態素解析」等の技術については、ここでは述べられていません)。そして、(技術的目標として)「鳩レベルの創造性を目指すのか、デイヴィッド・リンチ・レベルの創造性を目指すのか」といった具合にリンチの名前が出てきます……要するに、一言でいって、灰谷氏がリンチ好きなだけなんじゃねーの? と思ったりもしますが、もちろんこれは人として許されるべきことでありましょう(笑)。

さて、氏は、「そのためにはまず『創造性の定義』から行わなければならない」と述べます。ここで引用されるのが『創造性と脳(Creativity and the brain)』という著作があるKenneth M. Heilmanによる「新しい規則的な関係性(novel orderly relationships)を発見する能力」という定義です。より詳しくいうなら「拡散的思考(divergent reasoning)」、つまり「それまで存在していなかった解決方法を創り出すために、既に存在する方法論を棄てる能力」ですね。また、それに対置されるものとして「収束的思考(convergent reasoning)」、すなわち「蓄積された知識のなかから、既に存在する解決方法を選び出す能力」があります。大山崎が乱暴に考えるに、確かに「拡散的思考」は、新しい作品……というより、新しい芸術運動が(たとえばダダイズムが)それまでの芸術運動を否定するところから始まったように、新しいアプローチなりトレンドなりを創造するうえでの必要案件でありましょう。と同時に、「収束的思考」は(意識的/無意識的な)同一テーマ/モチーフのリフレイン/ヴァリエーション等といった、いわゆる「作家性に還元される問題」における必要案件であるよーな気がします。

興味深いのは、ロンドン大のSemir Zeki教授が研究している(その名もズバリの)「神経美学(neuroesthetics)」についての記述です。教授は芸術的創造性について神経科学に基づいた研究をしているわけですが、視覚的知覚について「一定性(constancy)」と「抽象性(abstraction)」という二大原則を指摘しているそうです。それによると、我々の脳はある対象物を視覚によってとらえたとき、それが備える諸様相のうちの「一定した(変化しない/共通した)部分」に意識を集中すると同時に、「対象物の固有性に捉われる」ことを回避する高レベルの思考を行うんだそうな。灰谷氏も指摘していますが、確かにこれは上に引用した「犬」や「シベリアンハスキー」を認識する際に我々が行う思考活動についてHTM理論が述べていること(「不変表象(invariant representation)」や「階層的推論(hierarchical inference)」)と重なり合っているかも。

もひとつ面白かったのは、何か難問が解けたり冗談を思いついたときの脳活動を測定する研究についてです。どうやら、創造的思想に関連する脳活動のパターンは既に測定されているらしく、であるならばHTM理論がいう「大脳新皮質の働きとのアナロジー」に基づいてその特定パターンを再現するアルゴリズムを組み立てられるなら、もしかしたら本当に「創造的活動を行う人工知能/コンピュータ」が実現するのかもしれません。

ところで、灰谷氏の記述によれば(おそらく上述した「人間が創造的思考をしている際の脳活動に関する研究」によって発見されたんだと思いますが)、「創造的思考」を行っている最中に起きる「注意と集中の対象の変遷」時に発生する脳波の波形は、精神疾患による「幻覚発生」の直前に発生する波形に似ていることがわかったそーです。えーと、これって、つまり「芸術における創造的思考」が「狂気と紙一重」であることが科学的にも証明されちゃった……という理解でヨロシイんでしょうか?(笑) などというのはおそらくは下世話な勘違いでありましょーが、「創造的思考」の最中には、たとえば「『犬とシベリアンハスキー』といったパターン化から外れたもの=普通のヒトには思いつかないもの」を含めて、相当にめまぐるしく「それまで存在しなかったパターン認識」が形成されているのは確かなような。んでもって、これをも含めた「大脳新皮質の働きをシミュレートするアルゴリズム」が完成したなら、マジで「人工デイヴィッド・リンチ」が出来ちゃったりするんでしょうか?

……てな具合に「教えて、偉い人!」と結論をブン投げつつ、このエントリーは終わるのでありました(笑)。

2010年5月22日 (土)

ついに登場! リンチのアクション・フィギュア

Davidlynchactionfigure そのうちそんなことになるんじゃないかと思ってはいたのですが、やっぱり出ました、デイヴィッド・リンチのアクション・フィギュアであります。御大そっくりかっちゅーとちょいとビミョーな感じもありますが、ちゃんとシャツのボタンは首までとめてるし、コーヒー持ってるし、夜のハイウェイだし、デニーズだし、確かにこれはデイヴィッド・リンチです。

 

Jimjarmusch 製作者は米国ワシントン州在住のMike Leavitt氏。氏の公式サイトに行くってーと、Leavitt氏が作成した一連のアクション・フィギュアの数々が掲載されています。ご覧のとおり、題材とされているのは映画監督や画家をはじめとする芸術方面の著名人からストリート・アーティスト、歌手からジャズ・ミュージシャンまでと多岐にわたります。ジム・ジャームッシュやヒッチコックやジャクソン・ポラックやダリなんかはともかくとして……

 

Hbosch このヒエロニムス・ボスとなると、ナニをどーしたもんやら、もーさっぱりわかりません(笑)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

公式サイトでは、「芸術は退屈で古臭い。普通の芸術を作るのはイヤだ(Art is boring and stuffy. I hate making normal art)」という氏の宣言が掲載されています。

自分はむしろキャンヴァス以外のものに色を塗りたいし、可動部分のない彫刻は作りたくない。寝とぼけたような現代芸術の世界には飽き飽きしているし、金持ちやオタク的な美術史学者や美術業界誌のために作られる「内輪受けのジョーク(insider joke)」にもウンザリだ。自分が想定しているのは、自分の作品が家の居間に置かれることだ。美術館に置かれることではない。

てなわけで、おもちゃ(Toy)と芸術(Art)の境界をとっぱらったアクション・フィギュアということなんでございますね……と個人的には納得したのでありました。この方向っていうとすぐに連想されるのが村上隆氏の諸作品なわけでありますが、Leavitt氏にはぜひ村上氏を題材にしたクロス・カウンター気味(笑)の作品をばお願いしたいなーと愚考する次第。

なお、Leavitt氏のサイトでは$400から$1000ぐらいで作品の販売も行われておりますが、デイヴィッド・リンチのフィギュアの値段については「お問い合わせください」となっております。すべてワン・オフものであるからして早いモン勝ちなわけでありましょう、きっと。家にあるゴジラやらガメラやらヘル・ボーイやらリング・レイスやらサウロンやらのフィギュア(持ってるんだよ、悪いか)と並んでリンチ御大が並んでいる光景を想像すると(それこそLeavitt氏が想定しているよーな状況であるよーな)、ちょいとそそられるモノがあるんでございますが、はてさて、どーしたもんでありましょーか。

2010年5月15日 (土)

リンチ・デザインのスピーカーのハナシ

99477009_2 99852791_2 デイヴィッド・リンチが家具の製作に凝っていることは有名なハナシで、実際にcasanostra agプロデュースでリンチ・デザインの家具が売られたりしておりました。最近もよく週末になると「今週末は家具作るんだもんねー」とかツイッターでつぶやいておられます。直近にも、ツイッター経由でリンチ本人によってご覧のような作品が紹介されたりしておりまして、「えっへっへー、こんなの作っちゃったー。見て見てー」ってな感じでヒジョーに微笑ましいとゆーかなんとゆーか(笑)。

Davidlynch_speakers3_2 で、本題はこちらのスピーカーでございます。このスピーカーの原型はJoey Roth氏デザインによるもので、本体はセラミック製。昨年9月に予約が開始されたのですが、かなり評判がよろしいよーです。「そんなら」とゆーことで、Roth氏がいろいろなデザイナーにコラボ企画を呼びかけた結果、リンチ・デザインのスピーカーが実現した次第。展示会ではリンチ自身が作った曲がこのスピーカーで流されていた模様です。

Davidlync_speakers5_2 いやあ、タール&ラッカー塗りの「リンチ・ブラック」を基調に、片方は「インダストリアル」な感じ、もう片方は「ウッド」な感じで、まんまリンチのモチーフやテーマが具現化したという印象を受けますですね。展示用に製作されたワン・オフもので、現在のところ市販の予定があるのかどうかも不明。

このスピーカーで「ぐおんぐおん」なインダストリアル・ノイズを流したりしたら、あなたの部屋もまんまヘンリーのアパートな感じになるかもしれません。そうなればラジエーター・レディがあなたのお部屋を訪れるのも、もうすぐです。ええ、天国ではすべてうまくいきますとも、おそらく、きっと(疲れてるな、オレ)。

2010年4月24日 (土)

手作り楽器でリンチ・サウンド! のハナシ

Thomas Truax氏といえばアメリカの明和電機なヒトっちゅーか、手作りのオリジナル楽器を駆使してワン・マン・バンドな演奏をされる方であります。氏の開発による楽器には「HORNICATOR」やら「BACKBEATER」やら「MOTHER SUPERIOR」等がありますが、名前だけではいったいどのよーな音を出すのかよくわからんかったり(笑)。しかし、チープでありながら同時にダウン・トウ・アースな感覚が漂うTruax氏の演奏には、どこか心惹かれるものがあります。たとえばこんな感じ。

そのTruax氏(troo-aksと発音するそーです)が実はデイヴィッド・リンチのファンであることが、昨年、全世界に向かってカミング・アウトされました。てか、2009年5月にリリースされたアルバムのタイトルが「Songs From the Films of David Lynch」で、それに収録されているのがリンチ作品に登場する数々の曲のカバーであった時点で完全にバレバレなわけですが(笑)。なじょして「Black Tambourine」であるのか、これで納得でありますね。

さて、「Glasgow Music And Film festival」っつーのが毎年イギリスで開催されておりまして、今回のテーマは「デイヴィッド・リンチとジョン・カーペンター」というよくわかるよーなわからないよーな組み合わせでありました。誰だ、こんな趣味性の強い企画立てたヤツは……とーゆーよーな追求はともかくとして(笑)、この映画祭には他のアーチストと混じってThomas Truax氏も招聘され、当然ながらライブでは「Songs From the Films of David Lynch」からの楽曲が演奏されて大盛況だった様子。その際に取材されたTruax氏のコメントが、4月22日付のSTV Entertainmentに掲載されております。

「初めて観たリンチ作品は『イレイザーヘッド』で、14歳かそこらのとき。大学の深夜上映会で観たんだけど、夜中は危ないというので姉と一緒だった」

「で、度肝を抜かれた。そのとき思ったのは、これは親と話し合える類の映画ではないということ。それくらい奇妙な作品だった」

というような邂逅から順調にリンチ作品のファンとして成長したTruax氏は、サーカス団員(!)やクレイ・アニメーター(MTVの「Celebrity Death Match」!)等の経歴をへてCDデビュー後、友人による紹介でリンチ御大と知己を得ます。

「自分のCDを何枚かリンチに手渡したんだけど、そのとき話題になったのは、自分の曲を気にいてくれて映画のなかで使ってもらえたりしたら、どんなに素晴らしいかということだった」

「リンチ作品のなかで使われている曲の選択が素晴らしいことも話した。そのとき、思いついたんだ。作品のなかで使われている曲のカバー・アルバムを作ったら、きっとスゴイぞって」

51vrwh3j1l_ss500__2 うはは、そーゆー経緯で「Songs From the Films of David Lynch」って出来たのね。このCD、現在は英アマゾンでしか手に入らないようで、米アマゾンではMP3のダウンロード販売のみが行われています。日アマゾンでは残念ながらお取り扱いナシ。収録されている曲のリストを挙げておきます。

1. Wicked Game 
2. Twin Peaks (Falling)
3. Baby Please Don't Go
4. Blue Velvet
5. I'm Deranged
6. Audrey's Dance
7. Black Tambourine
8. I Put A Spell On You
9. In Heaven (Lady In The Radiator Song)
10. In Dreams

YouTubeには何曲かこのアルバムからの映像が上がっています。どーぞごたんのーくらはい。

Wicked Game

Audrey's Dance (from Twin Peaks Theme)

I'm Deranged

Blue Velvet/ I put a spell on you

2010年4月11日 (日)

「マルホランド・ドライブ」に続編製作のウワサ?

老若男女から巨人や小人まで、全米が「ツイン・ピークス20周年」に沸き立っております最中でありますが(いや、ちょっとウソ)、それに混じってなんと「『マルホランド・ドライブ』の続編が作られるかも」という記事が。うえええええ、マジっすか?

問題の記事は、NBC Miami(4月8日付)の映画関係ブログ「PopcornBiz」に掲載されたもので、ネタ元はローラ・エレナ・ハリング。彼女が記者に語ったところによると、「先週、偶然デイヴィッド・リンチに会った」そーでありまして、んでもって、「『マルホランド・ドライブ』の続編(follow-up)が作られることになりそうだ」とのこと。

「絶対に(続編が)できるわ。今まさに生まれようとしているところ。どうしてそれがわかるかは説明できないけど (I'm very sure it's coming, it's being born, I cannot really tell you how I know)」

それって、まるでリンチ映画の登場人物が言うセリフみたいじゃね?……とか記事では突っ込まれておりますが、交通事故にでくわす女性の役だとは知らずに「マルホランド・ドライブ」のオーディションに向かう途中、ホントに交通事故にあっちゃった……ってな前歴の持ち主のハリングでありますからして、もしかしたら「赤い糸」やら「青い糸」やらでリンチとつながっているのかもしれません。おお、シンクロニシティ(笑)。

とはいえ、ハリングとリンチが具体的にどんな話をしたのか、記事からはまったく不明。どのくらい現実味があるのやら、現時点ではじぇんじぇん見当もつきません。いや、もしマジな話だとしても、あの「マルホランド・ドライブ」の続編って、いったいナニをどのよーにどーやって?

……ってな感じにモロモロ疑問符つきの情報ではありますが、そこはそれ。仮に「また何か一緒にやりたいよねー」程度の話であったとしても、「インランド・エンパイア」がローラ・ダーンとの「偶然の再会」と「同レベルの会話」から生まれたことを考えるにつけ、全力で期待しちゃうのがリンチ・ファンとゆーものであります。全世界的にそうに決まってます。

だからお願い、どうぞ続報プリーズ(笑)。

2010年4月10日 (土)

4月8日は「ツイン・ピークスの日」

今年の4月8日は「ツイン・ピークス」が放映開始されてから20周年ということで、全米各地で関連した催しものがいろいろと行われた模様。ロサンジェルスにあるコメディ専門劇場「UCB(Upright Citizens Brigade) Comedy theatre」でも、「ツイン・ピークス」をネタにしたコメディが賑々しく上演された……というgollum42氏のレポートがあがっています。

どーやら、邪悪なフクロウが繁殖し、それを退治するための資金を捻出するために、ツイン・ピークスの人々による「素人演芸大会(Talent Show)」が催される……とゆーのが基本的な設定。会場はグレート・ノーザン・ホテルのメイソン・ホール。出演者は丸太おばさん、ゴードン・コール、ドクター・ジャコビー、(車椅子に乗ったまんまの)レオ・ジョンソンという面々。「巨人」の息子がツイン・ピークスのテーマを奏でるなか演芸大会は始まるが、もちろんタダですむわけはなく(笑)、ネイディーンやらローラ・ママやら「小人」やらをはじめとするお決まりの面々が乱入してハチャメチャ(死語か?)になる……とゆー内容であったっぽい。

途中、当然ながら「あの方」も登場されるわけでありますが、どのようにかはレポートの写真を見てのお楽しみ(笑)。いやあ、そーだったのか、オレも年をくうはずだ。で、お相手はだれ?

にしても、「ダイアン」に機密事項をバラしたかどでクーパー特別捜査官はとっくにクビになっており、実は最初っからFBIのために働いていなかった……っつのは笑った。ナニしにツイン・ピークスに来たんだ、あんた……と思ったけど、そっか、チェリー・パイとコーヒー目当てに決まってますわね(笑)。

2010年4月 3日 (土)

「デイヴィッド・リンチによる福音書」で神の愛を

えー、「福音書」っつーのは、平たくいうとイエス・キリストの言葉をその弟子たちが伝えるものであります。新約聖書に収められた「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」「ヨハネによる福音書」とか、その他「トマスによる福音書」なんかが超有名(っていうのか?)。

しかし、どうやら現代におけるキリスト教伝道の方法論は非常に多様化してきているよーで、米Amazonなんかをみてみるってーと、「~による福音書(The Gospel According to ~)」とゆータイトルの本がなんかやたら出ております。それも「シンプソンズによる福音書」だとか「スター・ウォーズによる福音書」だとか「ディズニー映画による福音書」だとか「ハリーポッターによる福音書」だとか「ビートルズによる福音書」だとか「ブルース・スプリングスティーンによる福音書」だとか、人目を引くようなネタはすべて伝道に活用されてる感じ。はては「スターバックスによる福音書」とか「Twitterによる福音書」とかまであって、もーここらへんになるとどーゆー内容やら俄かには想像不能で、いやもう奥が深い。

キリスト教関連の出版物を出している会社はいくつもあるよーですが、Westminster John Knox社というのがその代表格っぽい様子。でもって、そこの新刊タイトルが「Halos and Avatars -- Playing Video Games with God」っつーんですから、もー正直なんでもアリな印象も受けます。でも、きっとそんなの、不信人者の気の迷いに決まってます。

……とまあ、このよーな流れのなかで、シカゴ在住のGrant Elgersmaさんが「デイヴィッド・リンチによる福音書」という本を書くことを思いついたとしても、まったく不思議はありません。ありませんったら、ありません。

「何か好きなものがあれば、誰もがそれについて語りたいと思うものだ。キリストを愛する者が、同時に『シンプソンズ』や『ロスト』といった番組を楽しんでいるのは、まったく驚きではない。アメリカの平均的なキリスト教信者像は、平均的なアメリカ国民像と大きくかけ離れているわけではないのだ」

……と、キリスト教関連Web雑誌「Catapult Magazine」のコラムでElgersmaさんは語ります。ううむ、「リンチ好き」なのが「平均的なアメリカ国民像」とどれだけズレているかっちゅー議論もあるかとは思いますが、つまりElgersmaさんはリンチ作品の大ファンで、それとあわせて「キリストへの愛」について語りたいわけですね。しかし、どーやって?

Elgersmaさんの主張によれば、「リンチによる福音書」の核となるのは、「Catching The Big Fish」に収録されている「イレイザーヘッド」関するリンチ自身の言及であります。

「(前略)『イレイザーヘッド』は自分のなかで確かに育ちつつあったのだが、それが何を意味するのかがわからなかった。シークエンス群が言わんとしていることを解き放つ鍵が見つからない。完全に五里霧中というわけではないものの、何かしら全体を結び合わせるものを思いつけず、暗礁に乗り上げてしまった。で、私は聖書を手に取り読み始めることにした。ある日、私はある一節に行き当たり、聖書を閉じた……これだ、これがそうなのだ。ようやく私はすべてのつながりを見つけ、全体を見渡すことができた。
それがどの一節であったのかを話すつもりはない」

おお! 「I saw the light!」な感じで確かにまんまでありますね。しかし、Elgersmaさんも認めているように、「どの一節であったのかを話すつもりはない」という時点で、ちょいと伝道目的として使うには弱い感じがします。本来ならその一節をとりあげて、具体的に「神の愛」について語りたいところなんでしょうけど、それを許さず肝心なところをぼやかしてしまうあたりが、ファンなら重々承知しているいつもながらの「そうはイカのデイヴィッド・リンチ」であります。

にしても、宗教関係の方だけあって、さすがにElgersmaさんは真面目だなーと思ったのが……

「明らかにリンチは、それがどの一節であるか明らかにしたくないと思っている。であるならば、『デイヴィッド・リンチによる福音書』などという本を書きリンチ作品について論じることは、創作者の意に反していると言わざるを得ない。また、創作者の意図はおくとしても、そもそもこのような本が映画鑑賞者の利に資するだろうか。映画作品に関してコメントすることで、私の『福音書』は、その作品の意味するところについて間違った考えを読者に伝えてしまう可能性もあるのだ」

……という言及でした。というわけで、残念ながら、当面「デイヴィッド・リンチによる福音書」が刊行されることはなさそうです。でも、んなもん、プロ・アマ含めて(もちろん大山崎も含めて)、みんなリンチについて好き勝手なことを言ったり書いたりしておるわけで、どんどんやっちゃっておヨロシイのではないのでしょーか……と、海の向こうから無責任にけしかけてみる春の日の午後なのでありました。

2010年3月31日 (水)

「ツイン・ピークス」の建物シリーズ(だったんかい!) その2

先日の「ローラ・パーマーの家 On Sale なう」に続いて、「ツイン・ピークス」に登場した建物に関する話題。今回は、劇場版に登場した「FBI本部」の撮影に使われたビルについて。そう、監視カメラは壊れているわ、目の前で人が行方不明になるわとゆー、とんでもない建物であります(違うって)。

撮影に使われたビルが「Cabrini Hospital building」という元病院であったことは、撮影当時の新聞報道でファンの間では有名だったっぽいです。映画の設定ではリンチの好きなフィラデルフィアになることになっていたけど、実際の所在地はシアトルとのこと。さて、おかーさん、あの建物はどーなったんでしょー……と「Twin Peaks Archive」の管理人さんがねちねちと何時間もかけてGoogle Mapを駆使しシアトル市内を捜した結果、クーパー特別捜査官が窓辺に座っているシーンで背後に見えるビルと一致する建物を発見! おお、これぞ情報技術の勝利、Googleありがとう!

……まではよかったのだけど、どんだけ目をかっぽじいてGoogle Mapを捜しても、肝心の「Cabrini Hospital building」が見つからない。勇んで現地に突撃、リアル捜査してもよくわからない。さてはフィリップ・ジェフリー捜査官だけでなく、建物ごとブラック・ロッジに飲み込まれたか?

……ってなわけはなく、この建物、すでに1995年に取り壊されてしまっていたのでありました。あら、残念。ローラ・パーマーの家があの値段だってーと、シアトル市あってなおかつデカいこの建物だったら、すんげえ値段だったのになー(買うんかい)。

そーゆー次第で、「Twin Peaks Archive」のページには在りし日の「Cabrini Hospital building」の写真が掲載されております。非常に瀟洒といいますか、ヴィクトリア様式っつーんですか、こーゆーの? 「ここらへんにクーパーの机」「ここらへんにゴードン・コールの机」「ここらへんにアルバートの机」等々の面白くて為になる説明入りですので、ファンの方は、ぜひどーぞ。

2010年3月27日 (土)

「ツイン・ピークス」パイロット版上映会! 35mmで!

久々のdugpa.comネタ。

「ツイン・ピークス」20周年を記念して、ワシントン州シアトルのSeattle Art Museumでパイロット・フィルムの上映があるそーだ。期日は8月6日。

で、今回はレアな35mmフィルムでの上映になるのだけど、どーやらこれはもともとデイヴィッド・リンチが個人的に所有していたものらしい。現在はMotion Picture Academyで保管されていて、通常デュープ・プリントがないと貸し出し不可のものを、リンチのたってのお願いで上映にこぎつけたとか。

管理人さんは約10年前にこの35mmパイロット・フィルムを観たことのあるそうで、「でっかいスクリーンで35mmだと、初めて観る作品のよーな気がした」と述べております。

直前に開かれる毎年恒例の「ツイン・ピークス・フェス」の参加者にはこの上映会の入場券が配られ、残ったチケットが(どのくらいの数かわかんないけど)一般入場者枠に回される模様。確実に観たい方は、フェスからの参加がお勧めってことですね。関係ないけど、今年のフェスにはジェニファー・リンチも参加するという噂をチラっと耳にしましたが、例の「蛇女映画」は完成したんでしょーかしらん?

んでもって、おまけ。リンチが語る”ジョージ・ルーカスから「ジェダイの逆襲」の監督を依頼されたときの模様”に誰かさんがアニメをくっつけたもの。疲労困憊して這いずるリンチがカワイイ(笑)。

2010年3月24日 (水)

巨大デイヴィッド・リンチのハナシ

Lynch4large なんじゃ、こりゃあ! と思わずジーパン刑事・松田優作になってしまいそうなシロモノでありますが、こちらはバンクーバー在住の彫刻家ジェイミー・サーモン(Jamie Salmon)氏の作品であります。材料はラテックス、グラス・ファイバー、アクリルの髪の毛、人毛(!)等々。うはは、ちょっと目尻が赤くなっているあたりなんか、リンチの感じ出てます(笑)。

で、こちらには製作過程の写真もアリ。ぐは、ちょっとグロい(笑)。

しかし、なんでサーモン氏は、こんなデッカい顔を作るのか? 以下が氏によるその説明。

「我々が『現実』と考えるものの本質を探求するために、あるいはその『現実』に自分の視覚が異議を唱えたとき我々がどう反応するかを確かめるために、私は人体を用いるのが好きだ。この現代社会において、我々は自分たちの外観に捉われている。かつ、現代のテクノロジーによって、我々は自分たちの外観をほとんど好きなように変えることができる。この外観の変更は、我々にどのような影響を及ぼすのか? あるいは、我々はどのようにして他者を認識するのか?」

いや、なんかよくわかったよーな、わからんよーな話でありますが、「愛しのジャイアント・ウーマン」のダリル・ハンナはインパクトがある……ということでヨロシイのでしょーか?(きっと違うと思う)

この作品、現在、ポルトガルにある彫刻専門美術館に所蔵されているようでありますので、当地にお立ち寄りの際には、「巨大デイヴィッド・リンチ」とご対面されてはいかがでしょーか。

2010年3月22日 (月)

リンチ、エド・ルシェ(Ed Ruscha)について語る

イギリスで「ツイン・ピークス」の「2ndシーズンDVDセット」と「ゴールド・ボックス」が発売されることになったそーな。え? まだ出てなかったんかい……とちょっとオドロキを隠せないんですが、そのタイミングにあわせて英「Times」誌の3月20日発売号に「ツイン・ピークス」の関連記事が掲載され、リンチがこの作品についての思い出を語っています。題して、「20年後のツイン・ピークス(David Lynch’s Twin Peaks, 20 years on)」。

……なんですが、米ABCとの確執とか、「丸太おばさん」の成立過程とか、ゴードン・コールの名前の由来とか、リンチがそこで語っていることはほとんど既に知られていることばかりなので、内容に関しては今回はバッサリ割愛(笑)。

むしろ興味深かったのは、当該記事からリンクされている2009年10月の同誌掲載記事でした。「デイヴィッド・リンチがエド・ルシェについて語る(Movie director David Lynch on artist Ed Ruscha)」というこの記事において、リンチはルシェを敬愛していることを明らかにするとともにその魅力について語っています。

Ed_ruscha エド・ルシェ(Ed Ruscha)についてざくっと触れておくと、1937年ネブラスカ州生まれ、1956年以降はカリフォルニア州在住のアーティストであります。その絵画作品の特徴を非常に雑駁に述べるなら、「言語と絵画の融合」だといえます。つまり、絵画作品でありながらそこにさまざまな「言葉」が散りばめられているわけですね。このあたりはジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns)という先駆者もいるわけですが、実際のルシェの作品をみていただければいわんとするところはすぐにわかっていただけると思います。

こうしたエド・ルシェ作品の魅力について、リンチは以下のように語っています。

「言葉は文字から出来上がっている。文字は『形(shape)』をもっている。非常に興味深い『形』を。彼(エド)はこれらの文字を『形』として用いていて、それはとてもすばらしい。そして、文字が集まって言葉になり『意味』を形成するとき、また違ったレベルになる。それは思考や感覚が形成される出発点になるのだから。それはみごとに『思考』と『感覚』をミニマル化する。彼の作品は絵画的だ。広告ではなく、絵画的だ。それが非常に重要なことだ」

「なぜなら、これらの絵画的作品は、エドという『人間』が描いているからだ。そのことによって発生するテクスチャーは、CGでは得られない。エドという人間だけが可能なのだ」

さて、一方のリンチ自身も、絵画作品や映画作品のなかに「文字」を散りばめるという手法を好んで使うわけですが、それに関して以前このように発言しています。

「絵の中の言葉は過度にエネルギーを蓄えたエンジンのようなものだ――絵にさらにパワーを与えるとともに、物事の意表をつく。言葉は、人が絵の中で起こっていることをどう見るか、その見方を変化させる。切り文字を使う理由は、ただ単にそれが歯のように並んで美しく見えるからだ」

この発言は、先に引用したエド・ルシェに関する言及と微妙に重なっているように思えます。”文字要素による「思考」と「感覚」の形成”が、”「絵の見方に関する変化」が発生する契機”となるであろうことは、いうまでもないでしょう。また、「歯のように並んで美しく見える」という発言が示唆するのは、まさしく「テクスチャーの問題」ではないでしょうか。つまり、エド・ルシェについてリンチが語っている事柄は、そのまま自身の作品にも当てはまるといえるわけです。

ルシェが意欲的な創作活動を始めるのは1960年代前半からであり、当時画家を目指していたリンチがその影響を受けたことは充分に考えられるわけですが、まあ、このあたりはリンチ自身の”「言語」に対するそもそもの感覚や嗜好”もありで、あまり単純化はできません。しかし、少なくとも、互いが採用する「文字に関する手法」の根底において、自分がルシェと通じているとリンチが考えていることだけは確かなようです。(同じくリンチが気に入っている)エドワード・ホッパーの諸作品が、リンチの”「人間の内面」を表すものとしての「家」”という共通テーマに「テーマ」のうえで重なるならば、エド・ルシェの作品は言語に関する「モチーフ」の点で重なっている……ともいえるでしょう(と書いて気がついたけど、「ガソリン・スタンド」というモチーフについても、ホッパーとルシェは共通しているなあ)。

同時に、こうしたリンチの「文字」や「言葉」に関する考えをみるとき、別な共通モチーフである「成立しない会話」もまたそれと通底しているように思えてきます。上述した「文字と形の関係性」を「言葉と音の関係性」に置き換えれば、なんとなくリンチの志向するところがみえてくるような気が。

実は、デニス・ホッパーを通じて、リンチはすでに何度かルシェに会っているようです。ただし、きちんと話をしたことはないとか。ルシェと話すとしたら、何を話すのか? というインタビュアーの質問に対し、リンチは「そうだな。スタジオとそのセッティングとか、何時に仕事を始めるのかとか、コーヒーは飲むのかとかかな?」と回答しています。またルシェという人物を表すとしたら、どのようになるのか? という質問に対しては……

「Clean!」

……と即答。いや、確かにリンチ作品の「有機具合」と比較したとき、ルシェの作品が「クリーン」であることは間違いありません(笑)。が、それは単に表層的な部分にとどまらず、両者の「表現に対するアプローチそのものの差異」を表しているように思えます。

«「狂った一頁」の上映会。今回は、なんと弁士付き!

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